2025年4月20日イースター礼拝 説教要旨
わたしに出会うことになる(マタイ28:1~10)
松田聖一牧師
ダメ元という表現がありますね。この言葉は、「駄目でも、もともと」を略した表現です。その意味は、成功する見込みが低いけれども、それでも試してみる価値はあるという状況を表していますね。つまり、何かをしようとするとき、ダメかもしれない、ダメだと思うけれど、それでも・・・とりあえずやってみよう!とにかく動き出してみよう!という感じでしょうか?
それはマグダラのマリア、もう一人のマリアが、イエスさまのおさめられた墓に見に行ったということにおいても、現れているのではないでしょうか?というのは、この時、彼女たちが見に行った、その墓には、墓を厳重に守っている番兵がいましたから、墓の近くにはたどり着くことができない状況でした。だから墓を見に行くことができても、遠目からでしか見ることができませんし、ましてやイエスさまが葬られている墓は、大きな石でふさがれていますから、その中に、入ることもできません。それでも彼女たちは、どうなるかは分からないけれども、ともかくダメもとで、墓に行って見ようとして、墓を見に行ったその時に、大きな地震が起こったんです。そして天使たちが、その墓をふさいでいた大きな石を「わきへ転がして下さり」またその天使たちの姿に、番兵たちは、「恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」んです。
でも彼女たちは、そうなることを予想していたわけでは、もちろんありません。しかし、それでも、彼女たちが、ダメ元で墓を見に行こうと思い、動き出し、墓に行った時、神さまは彼女たちが、イエスさまの墓を見に行けただけでなく、墓の中にまで行けるようにしてくださっていたんです。
私たちにとっても、やっても駄目だ、やっても無理かもしれないと思うことがあると思います。でも、それでも、やってみよう、動き出してみようとして、動き出そうとしたとき、それに見合う結果や、思った通りになる、何かしらの兆候すらも何も見えなくても、何も分からなくても、どうなるか分からない所から、動き出していった時、神さまは、予想外のいろいろなことを起こしてくださり、私たちにも見せて下さるんです。
それはこの会堂を建てると言う時も、それと同じですね。ここに会堂のミニチュアがあります。新しい会堂を建てようとした時につくられた、献金箱です。この献金箱を作ろうとした時、まだ何も建物は立っていませんでした。でもここにはもう教会が建っています。当時、この場所に土地は与えられていましたが、すぐに建築が始まったわけではなく、紆余曲折を経て、途中、会堂建築委員会が一旦休止となり、会堂建築作業が止まったこともありました。しかし2020年になって、ようやく具体的に動き出し、教会堂建築が決議されたのでした。併せて、牧師館も建築するということを決めたのですが、その時点では、次の牧師も何も決まっていない、全く分からない状態でした。それでも牧師館を建てるという決議がされていくんです。そしてその決議されたその後、1月後に、教区の先生方から招聘候補の牧師の話があり、その方向で進められていったわけですが、その時、まだ正式には何も決まっていないのに、一番最初に決まったのが、こちらで運転できる車でした。後任決定よりも先に、車が決まっていました。そして招聘が決議されたのが12月。牧師館が完成したのが、2021年の2月でした。
そして建築の際、教区から1000万をお借りして、10年かけて返していくと言う、私たちの1つの計画も、私たちの最初の計画を越えて、神さまは、返し始めて丸4年で、後350万というところに行きつかせてくださいました。ということは、神さまの返済計画は、10年ではなくて、私たちの計画よりも、もっと早かったということですね。後2年ほどでお返しできれば、他の教会で必要とされるところに、用いられて行きます。
創立140年記念礼拝もそうです。昨年の分区総会で、そのことを報告した時、どうして150年ではなくて、140年なんですか?と尋ねられました。「本当は150年が切りの良い年なんですが、10年後皆さんがお元気で迎えられるかどうか、どうなるか分かりませんので、今年140年の記念礼拝をします」と、申し上げましたら、総会に出席されていた皆さんの中にいらっしゃった、70代80代の方々の心にどうもフィットしたようで、そうだそうだと~10年後は私たちもどうなっているか分からないものね~首を縦に一生懸命に振っておられたことでした。でもその時は、この140年の礼拝がどのように導かれて、用いられていくかは分かりませんでした。しかし動き出して、ふたを開けてみると、高遠にあった教会の歴史を改めて振り返ることにも繋がっていきました。
これらのことを振りかえる時、神さまは、私たちが決めて、動き出した時、動き出した後のことを、最初から分かるようにして下さるお方ではなくて、何も分からないけれども、動き始めていったとき、動いていく中で、必要なものが与えられ、備えられていくということなんです。そして動き出した後から、動き出したその時を振り返った時、ああやっぱり神さまが与え、導いてくださっていたんだ!ということを、後から、分かるようにして下さっているのではないでしょうか?
そう言う意味で、何かをしよう、始めようと動き出した時には、この先、何があるかは、誰にも分かりませんから、不安も出てきます。どうなるか分からないということで、これは無理じゃないか、やっても無駄じゃないか、という思いも出てきます。それは、自分の中に、やり始めようと思ったけれども、やっぱり・・・ダメだ、無理だ、出来ない。だからやらない方が良かったのではないか・・・と、動き始めたことに対して、自分の中で、その思いと行動に、ふたをしようとしてしまうことではないでしょうか?それは丁度、イエスさまのお墓を、大きな石でふさいでしまうこと、その石を動かないようにしてしまうことと同じように、自分の心に大きな石で蓋をしてしまって、もうだめだと諦めてしまうこともあるかもしれません。しかし、そうであっても、神さまが動き出される時には、私たちの側ではもうだめだと判断したことでも、その1つ1つにゴーサインを出してくださり、神さまの方から、動き出して下さるんです。そして最初は、どうなるか分からなくても、ちゃんと必要なものが与えられ、必要な人も、私たちの最初の計画を越えて、あるいは全く思いもよらない方向から、与えられ、私たちの最初の計画から、正反対の方向へと神さまは、そっちじゃなくて、こっちだと、連れ出し、導いて下さるんです。神さまのご計画というのは、そういうことなんです。
だから、彼女たちにも、彼女たちの最初の計画から全く違う方向に、向かわせるんです。それが、「恐れることはない。十字架に付けられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」このことが、告げられた時、彼女たちがしたことは、墓の中まで入って、イエスさまの遺体が置いてあった場所を見たのではなくて、むしろ反対に、「急いで墓を立ち去り」弟子たちにこう告げなさいと言われた、そのことを、彼女たちは「弟子たちに知らせるために走って行った」んです。
さらには、弟子たちにまず、イエスさまから言われたことを知らせるという、彼女たちの計画は、その通りにはならなくて、弟子たちのところに行く前に、イエスさまは、彼女たちの「行く手に立って」「おはよう」と出迎えてくださり、まず彼女たちが、復活のイエスさま、生きておられるイエスさまに出会うことができたんです。
つまり、神さまの約束「そこでお目にかかれる」は、彼女たちが伝えようとした弟子たちよりも、先に、伝えようとした彼女たち自身に、まず与えられたということではないでしょうか?そしてイエスさまの足を抱き、イエスさまにひれ伏したとき、「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」と、もう一度イエスさまが言われるのは、復活のイエスさま、生きておられるイエスさまに出会えた彼女たちを、イエスさまは用いて、弟子たちにも、「わたしに出会うことになる」を、届けようとしておられるのではないでしょうか?しかしなおも、彼女たちには「恐れながらも大いに喜び」とある通り、喜びだけではなくて、恐れがあったんです。そういう彼女たちであることを、イエスさまは分かっておられるんです。だからこそ、「恐れることはない」とおっしゃって下さり、生きておられるイエスさまにまだ出会えていない、『私の兄弟たちに』イエスさまのことを伝えてほしいと願い、彼女たちは、恐れながらも、喜びをもって従っていくんです。そしてその彼女たちを通して神さまがしてくださったことが、今日にも繋がっているのではないでしょうか?
今ら60年前、教会では「つのぶえ」という読み物が出されていました。その特集号に、教会が創立されて80年を迎えたことを振り返って、内山民次郎さんのかかれたものが残されています。それから20年後、創立100年を迎えるにあたり、当時の江連先生が、改めて皆さんに読んでほしいということで、紹介されたものです。
「良き地・実を結ぶ枝」私は、先代内山民次郎の次男として、旧伊那町の仲町に明治30年に出生し、幼少は和人(かずと)と言いましたが、父民次郎の死後襲名して民次郎と改名いたしました。父の話によりますと、内山は、私の祖父・碩五郎が明治6年廃藩置県の条例が出て、武士という職業が無くなったために、種々の考えの末に東京から伊那に帰り、本屋を開業しましたが、本屋ばかりでは商売にならないので、金物屋と両方いたしておりました。
たまたま家の前の宿屋さんに伝道師の方(松本総悟牧師)が泊まり、聖書を持参して、店の片隅においてはと勧められて置くことになりました。それから、時々聖書を手にするうちに信仰の芽生えが出て、神に見いだされる信者になったと聞かされました。私の考えでは祖父碩五郎は、武士気質の信仰であって、聖書に示されたように信じて少しも自分の考えをつけずに信仰を持ち続けたようです。当教会の当時の記録にもその様子が残っております。
その当時、聖日を厳守しておりましたため、商売を休んで礼拝に出席したために、近在の老人が店に来て買い物ができずに非常に困ったと言われました。坂下教会の上棟式は、父の18歳の時で、祖父を始め、みんなで盛大にした、と言われました。
私どもこの80年を振り返ってみますに、伊那の地には電灯も電車もなく、自動車どころか、自転車すら1台もない時代から、今この時代になっているとき、今の教会の様子を見て大変淋しさを覚えます。先輩、諸兄姉が良き地に、良き種を蒔かれて80年、私どもはつちかうことも、水やることも十分にできずに、この歳月を過ごしたことを神さまと人との前に深く詫びるものであります。
「ほかの種は良い地に落ちて実を結び、あるものは100倍、あるものは60倍、あるものは30倍になった」右の言葉を聖書によって示されております。これからでも遅くはありません。神さまに向かって、かたく手を取って進軍いたしましょう。そうして、この次の90年、また100年の記念式を盛大なものにできるよう、今日から覚悟を新たにしてゆきたいと決心するものです。
「わたしに繋がっている枝で実を結ばないものは、父はすべてこれを取り除き、実を結ぶものは、もっと豊かに実らせるために、手入れをしてこれを綺麗になさるのである。」私どもクリスチャンは、教会にしっかり連なって、よく枝を栄えさせ、良き実を結び、この伊那谷の塩となり、光となることができて、神の栄光を現わそうではありませんか。
「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」イエスさまは、私たちにも、イエスさまにまだ出会っていない方々のところへ行って、ガリラヤにいくように言いなさいとおっしゃいます。しかし、その言葉、約束を信じて、動き始めていく時、恐れて、しり込みしてしまうことがあるかもしれません。たとえそうであったとしても、「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」との言葉を信じて従っていく時、「わたしに会うことになる」が、まず私たちに、与えられていくんです。そのために、あなたがたより先に早く、先立って進んでくださるイエスさまは、あなたがたをガリラヤへと、連れ出し、引き出して下さいます。その時、この先、どうなるかは分からなくても、イエスさまは、『私に会うことになる』この結果を必ず与えて下さいます。
祈りましょう。