2025年4月13日礼拝 説教要旨

十字架の出来事(マタイ27:32~56)

松田聖一牧師

 

広島、長崎にある原爆資料館には、沢山の資料が展示、保管されています。その中に、原爆が投下された直後のことなどを、当時ご存命でいらした方々にインタビューしたものも、収録され保存されています。8月6日、9日に起きた、あの日の出来事、大勢の人たちの髪の毛が逆立ち、垂れ下がった皮膚を前に出しながら列を作って、歩いていたこと、水を飲ませて下さいと言われ、水を差し上げたその直後、ふと気が付くと、亡くなっておられたこと、町のあちこちに火の手があがったこと、火の竜巻が起こったこと、亡くなられた方々を火葬する場所がなくて、小学校などの広場で焼かれたこと・・・など、想像を絶する光景を口々に語っておられました。そんな生き証人の証言を、当時の資料館の方々は、後世に残しておかなければならないと、使命感をもってされていたのだと思います。その中で、戦後復興して、立派な町になったことを振り返りながら、こんな言葉がありました。「今の広島も、長崎も、みんな亡くなった方々の上に立っている・・」その通り、亡くなられ、だびに付された方々が、その場所にそのまま穴を掘って埋められていった、その人の死の上に、町が再建されています。それは広島、長崎だけのことではありません。空襲を受けた町だけでもなく、いろいろな災害に遭われた全体にも言えることです。

 

そういう場所が、ゴルゴタと言う所、すなわち「されこうべの場所」でもあるんです。というのは、「されこうべ」とは、どくろ、頭蓋骨という意味ですから、このゴルゴタ、されこうべのその場所は、その形が人間の頭蓋骨に似ているということと、そこではこれまで、沢山の人が処刑され、そこに埋められてきた場所でもあるからです。そしてそこでの処刑と、人が埋められ続けた結果、その場所の上に、盛り土のように、土が盛られ続けていくんです。つまり、このゴルゴタが、丘であるというのは、人の死が折り重なるように積み重ねられた結果でもあるんです。

 

その上に、十字架が立てられ、そこにイエスさまも、2人の強盗も磔にされていかれるんですが、この時イエスさまは、その前日から続いた、徹夜の裁判があり、そこで言われなきことを、次から次へと言われ、責められ続けました。その中では、結論ありきの誘導尋問や、イエスさまではなく、バラバを釈放せよという扇動された人々の声と、それに屈してしまい、本来イエスさまを正しく判断する立場にあった総督ピラトの、その責任を放棄してしまった姿がありました。またイエスさまは着ている服をはぎとられ、茨の冠をかぶらせられ、何度も侮辱され、唾を吐きかけられ、葦の棒で頭を叩き続けられましたから、尋常ではいられませんし、自分が自分でなくなるほどに、憔悴し、弱さの極みの中にあったと言えるでしょう。

 

そんなイエスさまの服を分け合っていく兵士たちがそこにいます。そこを通りかかった「人々は、頭を振りながらイエスをののし」ります。悪口を浴びせていくのです。しかし、そもそもイエスさまに対して、とんでもないことをし、ののしり、傷つけ、服を奪っていった、その人々が、何かイエスさまから嫌なことを言われたり、されたのでしょうか?傷つけられたのでしょうか?ののしられたのでしょうか?頭を振りながら、悪口を浴びせられたのでしょうか?そんなことはありません。それなのに、イエスさまに対して、ののしり、侮辱し、悪口を浴びせていくのは、そこに、弱さに対する、人の姿というものが現れているのではないでしょうか?それは人の弱みにつけこんでいる姿でもあるのではないでしょうか?

 

人の弱みにつけ込むという言葉についてこんな見方があります。

 

「こちらが弱っている時に限り攻撃する人がいる…。」 と悩んでいないでしょうか。 人の弱みに付け込む人たちがいます。 こういう人は自分のことばかり見ているのですね。 罪悪感などもありません。 むしろチャンスと思っていたり、 意見を言うのが心地よくなって止められなくなっているのです。

 

それがこの時の人々の姿です。そしてそれは、人々とイエスさまとのことだけではなくて、私たちにも人の弱みにつけ込むことがあるということではないでしょうか?

 

ではその弱みにつけ込むということを、一人でしているかというと、一人ではしていません。そこにいた兵士も一人の兵士ではなくて、「兵士たち」です。頭をふりながらイエスさまをののしって言った人も、一人の人ではなくて、「人々」です。祭司長、律法学者、長老も、それぞれ一人で言ったり、しているのでなくて、「祭司長たち」「律法学者たち」「長老たち」です。ということは、一人ではできないということではないでしょうか?しかし、一人ではなくて、それが集団になったとき、人は、弱みにつけ込み、責め、侮辱するという、本当はしてはいけないことなのに、そこに向かって走って行ってしまうんです。

 

またこの集団の中には、本当にイエスさまを亡き者にしたい人たちと、なんだかよくわからないけれども、周りにつられ、周りに流されてしまった人たちもいました。そんな人々もいる中で、集団でイエスさまに寄ってたかって、無茶苦茶している人たちは、イエスさまが今どういう状態であるか?どんなに苦しんでいるかも、何のために、誰のために、誰のせいで、苦しんでいるかも、分かっていません。分かっていたら、こんなひどいことはできなかったと思います。しかし感覚がマヒしてしまうと、自分が何をしているのかが、分からなくなっているのではないでしょうか?

 

そしてもう1つのことは、弱みにつけ込んでいる、その人自身に、言いようのない不満や、怒り、そして不安や恐れが、それとは直接関係のないイエスさまに向かってぶつけているということでもあるのではないでしょうか?

 

八つ当たりもそうかもしれません。その相手が自分に対して嫌なことをしたわけではないのに、関係のない相手に、ぶつけていく、うっぷんを晴らそうとすることも、そこにはあるように思います。例えば、何かのことで腹を立てた時、人に危害を加えるということではなくても、側にあったものを蹴飛ばしたり、何かで発散させようとすることもありますね。冷静に考えれば、何でそんなことをしてしまったのか・・・と思うこともあるかもしれませんが、大きなストレスがかかった時、それが集団になった時には、人は人でなくなり、何をしでかすか分からないという可能性があるということなんです。

 

そういう姿が、一人のイエスさまに向かい、一人のイエスさまを責め、ののしり、暴力をふるい、侮辱していくという姿なんです。しかもそのことをいろんな人々が、同じことを何度も何度も、イエスさまに対して繰り返し、していくんです。

 

これでもかこれでもか・・・という感じですが、その中でイエスさまを追い込み、追い詰めている人たちの言葉を見ると、それはイエスさまが、かつて人々に語られたことであったり、イエスさまについて、神の子であるとか、ユダヤ人の王であるとか、イスラエルの王だとか、イエスさまについて、言われていたことを、そのままイエスさまに激しく返しています。しかも、その内容は、イエスさまについての、正しい内容ですし、真実です。しかしその正しいこと、真実を、集団で口々にイエスさまに浴びせていくことによって、だからイエスさまは、神さまなんだから、十字架に付けるのは止めようとはならないんです。イエスさまを十字架に追い込み、追い詰めているんです。

 

最近の新しい言葉に、ロジハラという言葉があります。この頃は言葉がどんどん短くなっていますね。ロジハラもその1つですが、それについて、こんな解説がありました。

 

ロジハラとは、ロジックハラスメントの略で、論理的(ロジカル)な言葉で相手をねじ伏せ追い詰めていく行為を指します。正論だからといって人格を傷つけるような発言をしていては、それはハラスメントになります。ロジハラ被害者が、正論であるが故に何も言い返せず多大なストレスを溜めているにもかかわらず、ロジハラ加害者は自分が悪いとは微塵も思っていないものです。つまり、ロジハラは加害者の意見が「決して間違っていない」ことに問題の根深さがあると考えられます。

 

「ロジハラをしてしまう人の心理」人はなぜロジハラをしてしまうのでしょうか。主な3つをピックアップしてみました。「正義感を主張」ロジハラをする人に多いのは、社会のルールや常識において「論理的に正しいこと」が何よりも正義であると思っているタイプです。このような人は「誤った意見は正すべき」「正しい意見を私が言ってあげなければならない」と考え、意見が通るまで主張を続けます。会話のたびにこうした「〇〇すべき」を押し付けられていては、相手の心は疲弊するばかりです。

 

「共感力の欠如」「共感力」が低いタイプの人も、相手の立場をイメージできずロジハラをしがちです。「なぜこのような状況になったのだろう」と相手の置かれた境遇が想像できれば、発言の仕方も変わり、聴く側の受け取り方も変わります。状況を理解しようとせずにただ正論をぶつけるのは、大人のコミュニケーションとは言えません。

 

「言い負かすことへの快感」プライドの高い人も、ロジハラの加害者に陥りやすい傾向にあります。ツッコミどころがないほどの理論武装をして、相手よりも自分が優位であると誇りたいのだと考えられます。無意識に相手よりも常に上位で居続けようとするため、つい相手が何も言い返せなくなるほどに強く「口撃」してしまいます。そのほかに、論破して快感を得ることが目的となってしまっている人も、あらゆるシーンでロジハラを多発させている恐れがあります。

 

つまり、論破しようとして言っている内容は、論理的には正論なんです。間違ったことを言っているわけではなくて、正しいことを言っているんです。だから、間違ったことを言っているとも思っていないし、自分が正しいと思っているんです。ただ相手が、どうそれを受け止めているのか?どうして相手がそうなっているのか?が分かっているかというと、分かっていないので、次々と正論をぶつけていってしまい、結果として相手を潰してしまうことにもなりかねません。そういう意味で、論理的に正しいことは、確かに正しいことなのですが、それを武器にしてしまったら、それは相手を傷つけ、相手を追い込み、追い詰めてしまうことになるんです。

 

イエスさまに対してしたことが、それらのことなんです。その結果、イエスさまの十字架が、そこに建てられ、イエスさまが十字架に付けられているんです。けれども、イエスさまは、そこから逃げませんでした。抵抗しませんでした。そこに一人で立っておられ、兵士たち、人々、祭司長、律法学者、長老たち、という集団になった、その人々がぶつけてくる、そのすべてを十字架の上で、イエスさまは、抵抗することなく、受け取っていかれたんです。そしてその正しさによって、イエスさまに対して人々がしていること、言っていること、またイエスさまがなさったこと、言ったことは、すべて旧約聖書において、語られ、与えられた神さまの約束の言葉そのものであり、それがここ十字架において実現したんです。

 

ということは、人々の正しさで追い込み、追い詰めていったことでさえも、神さまは、その約束の中に受け入れ、包んでくださっているということではないでしょうか?たといどんなに人が、その正しさをもって、誤りを犯したとしても、私たちがしてしまったその誤りを、神さまの正しさがそれらを全て、包んでくださったのではないでしょうか?だからこそ、神さまが約束されたことは、その通り、正しかったということが、与えられた時、「本当に、この人は神の子だった」という、イエスさまへの信仰告白が生まれていくんです。これがイエスさまの十字架の出来事です。

 

祈りましょう。

説教要旨(4月13日)十字架の出来事(マタイ27:32~56)