2025年3月23日礼拝 説教要旨
信仰を言い表す時(マタイ16:13~28)
松田聖一牧師
「必要な情報をどうやって見極めますか?」という問いかけに関して、次のようにアドバイスがありました。
ネットが普及して、本当に多くの情報が溢れている。個人ブログなど誰でも情報を発信できる時代なので、世の中に溢れている情報は玉石混交(ぎょくせきこんこう)だ。間違った情報にコントロールされていることも多いので、自分が得る情報には本当に気をつけた方がいい。そんな情報過多な時代に、どう情報と関わるといいかを考えてみよう。まずは、基本的に「疑う」ことをした方がいい。世の中はウソばかりだ。本当に間違っている事実を述べていることもあるし、わざと勘違いするような表現がされていることもある。また、あなたにとって正解ではない情報もある。そこで、正しい情報を見抜いていく方法をお伝えしたいのだが、まずは、情報には「事実」と「主観」があることを知り、これらを分けて考えることが大切だ。事実とは、「100人が聞いたら、全員がそうだと賛成するもの」だ。主観とは、「1人でもそうではないと言う可能性があるもの」を言う。例えば、「今日の東京は暖かい」は主観だ。寒いと思う人もいるかもしれない。「東京駅前の温度計は、今、23・5℃を指している」は、誰が見てもそうなので事実だ。
その通り、温度23・5度は事実ですね。しかし、その一方で暖かいか、寒いかは、人によって、違います。ですから、暖かいと感じて、暖かいと言っている、その人の暖かいという1つの情報だけを、うのみにしてしまうと、暖かくないじゃない、寒かった~と感じる人も出てきます。そういう意味で、情報には23・5度という事実と、暖かいという主観、この2つがあるということですね。
そういうことは、他にもいろいろあります。すべてに当てはまると言ってもいいかもしれませんが、時には、その情報の内容が、全く正反対のこともあるでしょう。その中で、どの情報を選ぶか?どう判断するかは、それが事実に基づいているか?確かな根拠があるかどうか?ということを、自分なりに確認することではないでしょうか?
その視点で、イエスさまが「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」と尋ねた時の弟子たちから出た言葉を見てみると、イエスさまのことを人々が「「洗礼者ヨハネだ」と言う人も、『エリヤだ』という人もいます。ほかに、「エレミヤだ」とか、「預言者の1人だ」と言う人もいます」とあるように、1人のイエスさまのことを、人々は、洗礼者ヨハネだとか、エリヤだとか、エレミヤ、預言者の1人だと言っていますから、イエスさまについての情報は、1つじゃなくて、バラバラです。それはこの人々がそう思ったから、そう言っているということよりも、この時、人々は、イエスさまについて、まだよく分かっていなかったからではないでしょうか?だから、洗礼者ヨハネなのか?エリヤなのか?エレミヤなのか?預言者の1人なのか?という、その時、飛び交っていた言葉、情報に、振り回されていたということではないでしょうか?
それはそうですね。自分にとって、こうだ!という1つの答えがないと、何かあるとすぐに揺れてしまいます。周りの情報に振り回されたり、流されてしまうこともあります。そして、その情報そのものも、事実からではなくて、気持ちとか感覚からの情報であればあるほど、その内容も、ころころ変わってしまいますから、余計に振り回されます。
そういう中で、イエスさまは、「それでは」と弟子たちに、「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と尋ねるのは、先ずは弟子たちも、いろいろな情報を耳にしている中で、あなたがたはどうなのか?と、そのことをまず弟子たちが確認できるようにしておられるんです。それは、弟子たちに正しい答えを、求めているというよりも、弟子たちも実は、人々と同じように、イエスさまについて、いろいろな情報に振り回されていること、まだイエスさまのことが、よくわかっていなかった、ということを、イエスさまは、分かっておられたからではないでしょうか?というのは、イエスさまに、シモン・ペテロは「あなたはメシア。生ける神の子です」と答えていますが、他の弟子たちの答え、言葉がないからです。あなたがたは、と尋ねられたのですから、私たちは、こうだ~と答えることが、この問いに対する答えですし、この問いに対する向き合い方です。しかし、他の弟子たちは、それがないんです。さらにはシモン・ペテロが答えた時、イエスさまは、シモン・ペテロが、自分なりに判断して「あなたはメシア」と言ったわけではなくて、「このことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」とおっしゃっている通り、実は、シモン・ペテロも、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えながらも、まだ分かっていない中で、「あなたはメシア」と答えているシモン・ペテロなんです。
そうであってもイエスさまは、シモン・ペテロに、イエスさまは「あなたは幸いだ」私はあなたが正しい答えをしたことを、うれしいとか、よく間違えずに答えたね。。。ではなくて、イエスさまがメシア、救い主であり、そのお方が今を生きておられるだけではなくて、死を突き破って、死を乗り越えて、生き続ける復活の命そのものに生きる神さまであることを、シモン・ペテロに神さまが現わして下さり、与えられたことを、「あなたは幸いだ」と受け止め、宣言して下さっているんです。
イエスさまはそういうお方です。たとい、私たちにも、イエスさまのことがまだ分かっていなくても、それでも受け入れてくださり、「あなたはメシア、生ける神の子です」このことが言えるように、その時を与えて下さいます。だからこそ、まだよくわかっていないけれども、それでも受け入れて下さっているイエスさまに、分からないままだけれども、任せてみようと思えるようになるのではないでしょうか?それは、今の私を委ねることができるだけではありません。過去の私も、未来の私も、委ねることができるんです。
それは、イエスさまが、シモン・ペテロに呼びかけたこの名前に現れています。イエスさまは「シモン・バルヨナ」と、シモン・ヨナの子どもと呼びかけました。それはシモン・ペテロが、ヨナというお父さんの子どもだということですが、子どもだった時、イエスさまにはまだ出会っていません。イエスさまに従っていません。イエスさまのことを分かっていません。それがシモン・ペテロのかつての姿ですし、ペテロがこれまで生きてきた歩みです。しかしイエスさまは、そんなシモン・ペテロに「あなたは幸いだ」とおっしゃられるのは、シモンの過去がどうであったとしても、その過去も含めて受け入れてくださっただけでなく、これからのシモンに向かって、これからのシモンのために、「あなたは幸いだ」おっしゃっておられるんです。
そのことを、「あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」とおっしゃられた中にある『この岩』の岩にも、現し示しておられるんです。この岩という言葉は、ペテロと呼ばれる言葉です。また、石、石ころとか、岩のかけらという意味もあります。その石、石ころ、岩のかけらについて、信州大学教育学部の1つの研究室で、北アルプスから流れ出る高瀬川の河原にある石が紹介されています。そのテーマは、「河原の石ころには「大地の歴史」がつまっている」というものですが、こんな説明がありました。
高瀬川の河原には、花こう岩の石ころがたくさん転がってます。花こう岩がどうやってできた岩石なのか知らなければ、白っぽいきれいな石があるね、と感じるだけかもしれません。でも、花こう岩のでき方がわかると、大地の壮大なドラマが見えてきます。花こう岩は教科書にも紹介されているように、マグマが地殻の深い所でゆっくりと冷え固まってできると考えられています。そんな地下深くでできた岩石が、なぜ河原に転がっているのでしょうか? 人間には止まっているようにしか見えませんが、高瀬川の上流(北アルプス)は、激しく動いている(隆起している)のです。また、花こう岩は地下深い場所(高温・高圧の環境)でできるので、地表(低温・低圧の環境)に出てくると、不安定になり壊れていきます。こうした岩石が壊れていく過程を風化と呼びます。花こう岩の風化により、大小さまざまな粒子(礫(つぶて)や砂)ができます。こうした粒子が、山地に大量にたまり、大雨が降ると浸食されたり崩れたりして移動します。この現象が大規模になり、人間社会に被害を与えると土砂災害と呼ばれるようになります。
ということは、イエスさまがペテロと名付け、その岩の上に、わたしの教会を建てると言われた、その岩、石ころには、大地の歴史があると同じく、ペテロにも、その歴史があるということなんです。そこには岩が砕かれて、岩のかけら、石ころになっていく出来事があったことでしょう。完全に打ち砕かれて、どうすることもできなくなった時があったと思います。つまり、今、岩のかけらであるということは、最初からかけらであったわけではなくて、岩が岩になるための長い歴史と、その岩が砕かれ、かけらになる歴史があるということなんです。そんなこれまで歩んだその歴史と、またこれから営まれていく歴史においても、イエスさまは、この岩、岩のかけら、石ころであるペテロを通して、たてられた神さまの教会を通して、神さまが、「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白の歴史を、イエスさまに出会い、イエスさまを信じていかれた方々を通して、その方々のこれまでとこれからを用いて、造り上げ続けてくださるということではないでしょうか?
ある時、75歳の方から、若い頃、しておられた教会学校のお手伝いを、もう一度させていただきたいとおっしゃられました。それで早速よろしくお願いしますということで、何十年ぶりでしょうか、子どもたちに神さまのお話をしてくださることになりました。そのことも振り返りながら、60年前、教会に導かれて歩まれたその歩みを、こうおっしゃっていました。
神さまはたくさんのことを、わたしにしてくださいました。日本基督教団の榎本栄次先生が「人生は真っすぐではなく、曲がるんだ」と、語っておられます。その曲がり角に必要な人を、私の側に送ってくださっていたことに気付きます。だからこそ今まで教会生活を送って来られたのだと感謝で一杯です。
私も今春、後期高齢者医療の保険証を頂きました。主人もすでに車いすの生活です。そんな中、何十年ぶりかで教会学校の奉仕をさせていただきました。その日の聖書が「種を蒔く人」のお話でした。私が高校生の時、初めてお手伝いした時も同じ「種を蒔く人」のお話でした。神さまは若くても老いても、「私の種を蒔きなさい」と言われているようです。「60年、神の歴史と、我が歩み、白きころもの、すそに触れつつ」これは今の私の信仰告白です。そして前のものに全身を向けて歩んでいきたいと思います。
「あなたはメシア、生ける神の子です」この信仰告白は、ペテロだけに与えられたものではありません。私たちにも与えられている、神さまからの恵みの信仰告白です。そしてその信仰告白を通して、これまで導いてくださった神さまが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と、イエスさまが神さまだと分かるように、私たちのこれからも、導き続けてくださいます。その中心には、十字架の上で苦しまれ、多くの苦しみを受けて殺され、三日目に甦られて、生きておられるイエスさまが、どんなにそれを否定し、自分たちの都合の良いように受け止めようとする歴史がそこにあっても、それらのことを乗り越えて、過去から現在、そして未来へと、その歴史を貫き、私たちを、「あなたはメシア、生ける神の子です」との信仰告白へと導いて下さいます。なぜなら、どんなに苦しめられても、十字架の上で死なれても、その死を越えて、甦られ、生きておられるイエスさまが、メシア、神の子だからであり、そのイエスさまを、あなたはメシア、神の子ですと、神さまが現わして下さったこのことが、2000年の教会の歴史を貫いているからです。
祈りましょう。