2025年3月16日礼拝 説教要旨

考えを見抜いて(マタイ12:22~32)

松田聖一牧師

 

ご夫婦でしておられるお店の店先に出された看板に、ある時、こんなお知らせが出ていました。「本日夫婦喧嘩のため、臨時休業いたします。嫁さんの機嫌が直り次第開店します」面白い看板だと思いました。果たしてどんな喧嘩だったのでしょうか?詳しくは分かりませんが、喧嘩になるというのは、遠い関係ではなくて、近い関係ですね。関係が遠ければ遠いほど、喧嘩にはなりませんし、お互いに関心もなくなります。

 

それは喧嘩だけではなくて、人の喜びを一緒に喜べない時もそうです。羨ましいから、恨めしいとなり、さらには妬(ねた)みに、変わることも、遠い関係ではなくて、近い関係だから、それが起こると言えるでしょう。それらのことについて、こんな一文が目に留まりました。

 

友達に恋人ができたことや、結婚、妊娠、仕事の成功、出世、年収が上がったこと…などといった、身近な人の「世間的には喜ばしいこととされている」ような報告を聞いても素直に喜べないのは、人間にとって自然な感情である「妬(ねた)み」の影響が大きいと考えられます。妬みとは、他人が自分よりも有利な状況にあると知ることで引き起こされる感情のことをいい、次のような特徴があります。「妬みは、自分と心理的に近い他人に対して抱きやすい。妬みは、自分にとって重要なことに対して抱きやすい。」

 

「妬みは、自分と心理的に近い他人に対して抱きやすい。妬みは、自分にとって重要なことに対して抱きやすい。」その通り、ねたみがねたみになるというのも、自分にとって近い関係の方との間に、また自分にとって大切なことに関して、抱きやすいということなんです。そういう意味で、自分と遠い関係では起こりませんし、自分にとって大切でないことにも、ねたみは起こりません。しかし、自分との関係が、近ければ近いほど、近づけば近づくほど、気になると言いますか、ねたむ気持ちも含めて、いろいろが出て来るのではないでしょうか?

 

それは、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスさまのところに連れて来られ、癒されたこの人と、群衆との関係、また群衆とファリサイ派の人々の関係、イエスさまとファリサイ派との関係に現れてきます。

 

その始まりが、群衆の「この人はダビデの子ではないだろうか」というこの驚きの言葉に対する、ファリサイ派の人々の姿です。この時群衆は、この人が癒されたことを、喜んでいるとは書いていません。だから、イエスさまが癒されたこの人と、この群衆とは、遠い関係だと言えます。ただ、この人を癒されたイエスさまが、「ダビデの子ではないだろうか」と言う、群衆の驚きの言葉は、ファリサイ派の人々にとっては、非常に気になる、近い関係の言葉となっていくんです。

 

というのは、ファリサイ派の人々にとって、彼らの根っこそのものであるユダヤ教では、メシア、救い主を「ダビデの子」と呼び、そのメシア、救い主は、ダビデの子孫から出て、ダビデが築いた栄光のイスラエル王国を回復する者と期待され、待ち望まれていました。彼らは、そこに希望を置いて、そのことを信じて、それに寄りすがっていました。ところが、群衆から出た、イエスさまが救い主メシアではないだろうかという、この言葉は、ファリサイ派の人々が信じて、大切にし、また土台としていたことから出たのではなくて、一人の「悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人」を、イエスさまが癒されたことを、目の当たりにしたからです。そういう意味では、ファリサイ派のメシア像とかけ離れているばかりか、ファリサイ派がこれまで信じて、寄りすがってきたものを根底からひっくり返すものに基づいて、群衆から「この人はダビデの子ではないだろうか」が、出ているんです。それはファリサイ派から、これまで信じてきた希望が奪われるようなことだったかもしれません。そういう中で、群衆にとっても、イエスさまを、ダビデの子ではないだろうか、と言うことは勇気がいったと思います。だからこの人はダビデの子であるとは、断定的には言っていません。「ではないだろうか」です。しかし、そうであっても、この一人の人が癒されたことを通して、群衆はイエスさまに向かって、大きく向きを変え、関心がない、何の関係もないとさえ思っていたかもしれない、遠い関係から、イエスさまと非常に近い関係に変えられた時となったのではないでしょうか?

 

そういうことは、私たちにもあるのではないでしょうか?今までは遠い存在であった関係、無関係だと思っていたのが、近い関係になる、身近なものになることがありますね。

 

ある方が、まだ子供の頃のことです。その時、おじさんが伊勢の教会に行っておられ、そのおじさんが教えることもなく、聞かせてくれた讃美がありました。それは「主我を愛す」でした。後年教会に導かれて、神さまを信じて洗礼を受けられた時、幼い頃のことを振り返って、こうおっしゃっていました。「主我を愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ。わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す・・・」この讃美歌461番は、私が初めて知った讃美歌です。若い頃からクリスチャンだったおじが幼い私に聴かせていた讃美歌です。『あなたがたがわたし選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。』「我が主イエス我を愛す」神の愛を受けて選ばれた喜び、これ以上の喜びは他にあるでしょうか。。。」

 

イエスさまが神さまであり、メシア、救い主ではないだろうか。そう言う出会いに繋がる出会いは、小さな、一人の人との出会いであり、近い関わりです。国をもう一度回復させるといった大きなものではありません。しかし、神さまは、そんな小さな出会い、小さな一人の人を通して、イエスさまと近い関係へと、またイエスさまが神さまだ、救い主メシアだということへと、大きく向きを変えて下さるんです。その時、「ではないだろうか」から始まっていいんです。そうだ!でなくてもいいんです。「ではないだろうか」から始まっていくんです。

 

その一方で、ファリサイ派の人々は、イエスさまに対して、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った、とありますが、この言葉を、群衆に向かって言い返したのかというと、誰に向かってということは、具体的には聖書に書かれていません。ですから、もちろん群衆にもそれは聞こえたでしょうし、同時に、ファリサイ派という立場で、イエスさまが悪霊の頭ベルゼブルの力に頼って、この人から悪霊を追い出し、癒されたのだということを表明している言葉でもあるのではないでしょうか?

 

それにしても、イエスさまが、悪霊の頭ベルゼブルという、悪霊の親玉の名前まで出して、その力に頼っていると言うのは、何か根拠があって、こう言っているのか、というと、それはありません。というのは、このすぐ後にイエスさまが言われた、「彼らの考えを見抜いて言われた」とある、「考え」という言葉には、創作、作り話と言う意味があるからです。つまり、ファリサイ派の人々が、言っているこの内容は、実際にはそうではないし、そんな事実もないのに、また何もない話なのに、彼らが自分の中で、作り出している作り話、ということなんです。作り話というのは、そういうことですよね。ない話なのに、勝手にない所から話を作ってしまい、それがあたかも本当であるかのように、話していくのが、作り話ですから、イエスさまは、悪霊の頭ベルゼブルの力によって、というこの作り話には、根拠もないし、そんな事実もないということを見抜いているんです。でもそれをファリサイ派という立場で、言っていくというのは、イエスさまがメシアではないだろうか、という群衆が断定して言っていなくても、イエスさまがメシアであるということを、作り話を用いてでも、否定しようとし、イエスさまを亡き者にしたい、かき消したい、ということではないでしょうか?イエスさまがメシアではないとはっきり言える根拠があれば、群衆に向かって、根拠を並べて違う、と反論すればいいことです。しかしそういうことではなくて、ないことをあるかのように、作って、誹謗中傷してイエスさまをおとしめようとするのは、ファリサイ派自身の中に、しがみつき、手離せなくなっているもの、それが受け継がれてきたものであり、すべての思いを寄せるほどに近い関係の事柄が奪われてしまう、という恐れがあるからではないでしょうか?そしてその恐れの中で、イエスさまを「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と、とんでもないことを言ってしまうんです。でもそう言いながらも、言って気持ちがスカッとしたというような彼らの思いを現す言葉は何1つありません。ということは、この人々の中に、こんなことを言っていいのだろうか?という葛藤、自問自答することもあったのではないでしょうか?

 

なぜかというと、イエスさまに対して言った「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」にある「悪霊の頭」という言葉の意味には、悪霊の支配者、君主だけではなくて、ユダヤの大祭司、ファリサイ派に属する議員と言う意味もあるからです。つまり、ファリサイ派の人々が、イエスさまに対して、悪霊の頭と言った時、彼らにあるものが外に出たということだけではなくて、それは彼ら自身のことでもあるんです。つまり、悪霊の頭と、イエスさまを貶めようとしたことが、すべて彼ら自身に帰って来ているからです。ということは、悪霊の頭の力で・・・と言っている内容が、そのまま自分たちに向かっていることでもありますから、そうなると、それはファリサイ派の人々の中で、内輪で、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ・・・」ということが、ぐるぐるめぐる言葉になるのではないでしょうか?悪霊の頭・・ということが、自分にも向けられ、語られたら、自分自身も嫌な思いになります。自分の中で、自分と争い、自分を誹謗中傷し、自分で自分を傷つけてうれしいはずはありません。

 

イエスさまは、そういうことも含めて、その考え、作り話のその背景にあるものも、見抜いておられるんです。もちろん作り話がいいとは決して言えません。作り話で誹謗中傷し、傷つけて言いわけではもちろんありません。作り話は時と場合と、その内容によっては、それまで近い関係、お互いに大切にしていた関係を壊してしまいます。しかし、イエスさまは、どうしてそこまで作り話を作り、イエスさまを誹謗中傷しているのか?そこまでしてでも、自分を守ろうとするその思い、また、その背後にある恐れ、そしてその恐れで、彼ら自身の内輪でもめ、内輪で争っていることをも見抜いて、なぜそうしているのか?なぜそうしてしまうのかまでも、分かって下さるんです。

 

そして、その内輪もめ、内輪争いの、その中にイエスさまは入って来てくださるんです。その内輪もめ、争いの真ん中に立って、内輪もめになるいろいろなことを、縛って下さり、内輪もめ、争いにストップをかけようとしてくださるんです。安心して生きることができるように、イエスさまは、その内輪もめの只中に来て、約束下さっているんです。「神の国はあなたがたのところに来ているのだ」

 

「キャロリングの夜のことなど」というタイトルで、鳥取教会の先生と教会の方々との関わり、エピソードが紹介されています。その中に、こんなところがありました。

 

ある夜、私たちは臨時で教会に集まり、武森さんという信徒のために祈っていた。もともと病弱で入退院を繰り返していたのだが、容体が急変して救急車で運ばれたのだ。祈り会は9時に散会し、先生はそのまま病院へ向かった。次の朝、私たちがいつものように6時半に教会に行くと、先生の奥さんがストーブの火をおこして待っていた。「武森さん、持ち直したって、さっき連絡が入ってね」その言葉に夜空に上がった花火のように私たちの心を輝かせた。「よかったですねえ!」「本当に!」ひとしきり喜び合ったあと、前野さんがたずねた。「で、今朝は先生は?」「それがね、家で寝とるの」「そりゃあお疲れでしょうから。あの後病院に行かれて、で、先生いつ頃帰って来られたんですか?」「それがね」奥さんは曖昧に笑い、声をおとした。「・・・・さっき」「え?」言葉の意味が呑み込めない前野さんが、同じ言葉を繰り返す。「さっき?」途端に多恵ちゃんのすっとんきょうな声があがった。「えー!先生、朝まで病院におんさったの!」奥さんはもじもじと下を向いた。「おったことはおったんだけど。行ってしばらくしたら武森さんの奥さんが悪がって、何回も、お疲れでしょうから早く帰ってくださいって、聞かないんだって。でも主人は武森さんが心配で、何とかそばで祈りたいし。それで奥さんに見つからんように、車の中で祈っとったんだって。駐車場で朝まで」今度は私たち全員が声を上げる番だった。うつむいたままの奥さんの言葉は続く。「いつまでたっても帰って来んし。うんとも、すんとも連絡がないし、私も容体がすごく悪いかなあって、心配でね。そしたらさっき主人が帰って来て、その後を追うように武森さんの奥さんから、持ち直したって電話が入って来て、やっと一安心しとるとこだが、それで申し訳ないけど今朝の早天祈祷会は、おやすみさせてもらうって・・・」「まあー、先生は!黙ってそんなとこにひとりでおって!」突然、熱血女性の藍子さんが会堂を揺るがす大声を上げた。「祈りなんてどこでもできるのに、そんな寒いところで風邪でもひいたらどうするだあー!それにもし武森さんに何かあって、緊急に連絡せんといけんようなことにでもなっとったら、どうするつもりでおんさったんだろう。ほんに先生はー!」でもその目は真っ赤で、うっすらとにじんだ涙で膨れ上がっている。「ほんに先生はー!」携帯電話などない時代のことである。私たちは藍子さんの気持ちがよく分かった。「でも武森さんがようなんさって、よかったが」端田のおばちゃんが執り成すように言った。「本当に」目をこすりながら多恵ちゃんと小枝ちゃんが頷く。前野さんが天井を見上げた。「先生の祈りが通じたんだが。よかった。本当によかったなあ」次の朝も、その次の朝も祈祷会は続けられた。雪の中を先生は病人を見舞い、集会をし、訪問をし、説教の準備をした。どんなに夜が遅くなっても、先生が朝の祈祷会を休むことは稀だった。「父なる神さま・・・」先生の少しかすれた、しみじみとした声が、目を閉じて頭を垂れている私たちの耳に届く。「恵みの内に守られ、新しい朝を迎え、あなたの御前に祈るために集えた幸いを、感謝いたします。」白み始めた空が、窓から光を射し入れた。ストーブのやかんが汽笛のような音をたてている。時折出る先生の咳。神さまと先生と私たちの時が、ゆっくりとその朝も過ぎていく。

 

「父なる神さま・・・恵みの内に守られ、新しい朝を迎え、あなたの御前に祈るために集えた幸いを、感謝いたします。」

 

いろいろなことで、私たちの考えがお互いに違うこと、ぶつかり合うこと、内輪でもめることもあります。それは自分自身の中においても、内輪争いが起こります。そこには恐れがあることでしょう。いろいろな理由と切っ掛けがあると思います。しかしだからこそ、「神の国があなたたちのところに来ているのだ」イエスさまは、その真ん中に来てくださり、恐れではなく、恐れを平安に、恐れを平和にかえて与えて下さいます。そんな神さまが、私たちのところに来て、私たちと共にいてくださいます。

 

祈りましょう。

説教要旨(3月16日)考えを見抜いて(マタイ12:22~32)