2025年3月9日礼拝 説教要旨
神の言葉をもって(マタイ4:1~11)
松田聖一牧師
イエスさまが十字架の上で苦しまれる受難の季節を迎えました。この季節を、教会の暦では、受難節とか、四旬節とも言います。その受難節は、今年3月5日から始まりました。毎年、この日は変わります。なぜかというと、受難節の始まりは、復活祭、イースターからさかのぼって40日前からですが、その復活祭、イースターも、毎年変わるからです。では、イースターが、どうして変わるのかというと、ちゃんと決まりがありまして、毎年春分の日、今年は3月20日ですが、この春分の日が過ぎて、すぐの満月の、その日からすぐの日曜日が、イースターと定められています。今年は、3月20日のすぐ後の満月が、4月13日ですので、その満月のすぐ後の日曜日は、4月20日になります。ですので、その日が、イースター、復活祭となります。そのイースターを、クリスマスと並んで、いやクリスマス以上に、教会は、イエスさまの甦り、復活祭を大切な日として、守り続けてきました。
そういうこともあったからでしょうか?10数年前に、お菓子のメーカーが、復活祭にちなんで、お菓子のパッケージに、イースターのことをレイアウトして、説明をつけていた時期がありました。確か、「きのこの山」とか、「たけのこの里」だったと思いますが、そこにイースターについて、今年のイースターは、この日ですということと、イースターとは何か?ということまで、ちゃんと書いてあったことでした。きっとお菓子のメーカーも、クリスマスと同じように、イースターも宣伝すれば、バレンタインのチョコのように、良く売れると思ったのかもしれませんが、どうもそれは功を奏しなかったようです。しばらくすると、イースターのことが、パッケージに載らなくなりました。何でそんなことを知っているのか?と思われるかもしれませんが、お菓子をお店で見ていたからです。
そのイースターから、遡る40日前から、先ほども触れたように、受難節、四旬節が始まりますが、その最初の日は、水曜日です。そしてこの水曜日は、灰の水曜日と言って、灰の水曜日礼拝として守られます。そこでは、その前年にとった、棕櫚の葉を干したものを燃やして灰にしたその灰で、額、おでこに十字の形で刻むということが、礼拝の中で、なされます。その意味は、神さまであるイエスさまの、十字架上の苦しみを思い起こしながら、私たちのために、イエスさまが苦しまれたことを、改めて心に留め、心に刻むという意味で、灰を、十字を切るようにして、額、おでこに刻むのです。
その灰の水曜日の次の日曜日が、今日の礼拝、受難節第1主日礼拝となります。この日の礼拝では、毎年、イエスさまが、荒れ野に神さまによって導かれ、悪魔から誘惑を受けられたという聖書が読まれます。
それがこの御言葉に始まります。「さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。」イエスさまは悪魔から誘惑を受けるために、霊に、すなわち神さまに、導かれて荒れ野に行かれたということから、始まりますが、そもそも、イエスさまが、悪魔から誘惑を受けること、試みられ、試験を受けられるということは、どういうことでしょうか?その問いに答えるキーワードが、誘惑を受ける、試みられ、試験を受けられるという言葉です。そこで試験という言葉から、誘惑を捉えてみましょう。
試験と言えば、この時期に行われる入学試験ですね。高校入試、大学入試、中学入試のための試験などいろいろあります。その試験の意味と目的は、正式な名前である、入学選抜試験というその名の通り、その学校に入りたいという方々が、その学校に入るための試験であると同時に、試験を通して、選抜、選び抜くという試験でもありますから、その試験を経て、めでたく合格できたということは、入学してから、その学校での勉強にもついて行けるだろうという見込みと期待が込められているのではないでしょうか?というのは、その学校に入っても、勉強がさっぱりわからないということになってしまうと、その本人にとっても、辛くて大変なことです。だから、その学校に入ってからも、学校生活や、勉強の面でも、十分について行けると言う方々を、試験で、選抜すると言うことでもあると思います。
だから、勉強します。試験を受けて、合格するために、入った学校でもついていけるように、その試験に向き合います。それは入学試験だけではないですね。中間試験、期末試験などもそうです。それだけではなくて、私たちの身近なところで言うと、例えば、免許の更新の時にも、試験がありますね。「運転免許証の更新期間が満了する日の年齢が75歳以上のドライバーは、認知機能検査等を受けなければならない」とされていますが、その通り、75歳以上になりますと、その試験を受けないと、続けて運転ができなくなります。そこで試験を受けられるわけですが、問題が出されますね。イラストがあって、それを覚えているかどうか?ということなどを、検査しますが、その試験対策のための、テキストがいろんなところから出ています。
それぞれのテキストには、キャッチフレーズがついています。いくつか紹介させていただきますが、「一発合格!運転免許認知機能検査2025年版」とか「絶対合格!」「これ一冊で合格!」「これ1冊で必勝!」と、いろいろありますが、そういう勉強を経て、実際に試験を受ける時、やはり緊張しますね。合格できるかどうか?合格できなかったら、車を手放さないといけない・・・その時はどうしよう??とか、いろいろ心配になるものですが、でもそういう機会であるからこそ、必死で覚えようとするのではないでしょうか?そして、無事に合格すれば、やれやれ一安心となるのではないでしょうか?それは試験と向き合い、試験を乗り越えることができたことで与えられる、やれやれだと思います。その時、試験が嫌だと逃げて、受けようとしなかったら、免許が更新されません。運転ができなくなりますね。でも、それは生活に困るから、足がなくなるから、ということで、その試験に向き合い、立ち向かっていこうとします。そういう意味では、免許更新試験だけではなくて、いろいろな試験が、私にとっての試験になるというのは、その試験に私が向き合い、立ち向かい、乗り越えようとしているからこそ、その試験は私にとって試験になっていきます。試験を、受けようとしなければ、あるいはその機会でなかったら、その試験は、私にとっての試験にはなりません。
イエスさまが、悪魔から誘惑、試験を受けられたというのは、そういうことなんです。決して、悪魔に加担しようとか、悪に味方し、悪にすり寄るためでもなく、負け戦を覚悟して、でもありません。イエスさまは、そういう悪魔から誘惑を受けながらも、イエスさまは悪魔に流されることなく、飲み込まれることなく、向き合い、立ち向かい、そして乗り越えようとして、誘惑、試験を受けていかれるんです。「そして40日間、昼も夜も断食した」イエスさまは、普段ユダヤ人がする以上に、昼も夜も40日間、口からは何も食べずに過ごした結果、「空腹を覚えられた。」のです。それはただお腹が空いたということではなくて、飢餓状態です。大丈夫とは言えないのではないでしょうか?
というのは、医学的には、人は何も食べなくても2か月は生きていられると言われていますが、それは何も問題なく生きていられるということではなくて、食べる物がなく、食べられない状態が続けば続くほど、人は、自らの体に蓄えているもの、脂肪を燃やし始めます。そしてぶどう糖というものを作り出すのですが、それも使い果たしてしまうと、今度は、脳がぶどう糖の消費量を減らす指令を出して、体の中の、プロテインというものを、消費し始めます。その結果、急激に、筋肉が衰えたり、体のいろいろな機能が低下するんです。それは体の面だけではなくて、精神的にも異変をきたします。そういう時には、食べ物ではないものを見ても、何でも食べ物だ!と勘違いしてしまったり、何も聞こえていないのに、聞こえてしまうといった、幻覚、幻聴が起こることもあります。ここまで来ると自分の体を食べて生き延びているような状態ですから、最後が近づいている状態です。
40日間何も食べない状態というのは、それに近い状態です。そんな中イエスさまは、全く力が出ない状態だったと思いますし、体の機能も衰えていたことでしょう。精神的にもギリギリだったと思います。弱さの極みの中にあったと言っても言い過ぎではありません。ここで1つの問いが生まれます。それは、なぜイエスさまは、これから誘惑、試験を受け、それに立ち向かい、乗り越えようとされるのに、40日間も食べなかったのでしょうか?しっかり食べて誘惑、試験に臨むならまだしも、自ら命の危険を冒してまで、断食されたのはなぜでしょうか?それは、断食そのものが、罪の赦しをあらわしているからです。人が神さまに背を向け、神さまの言うことを聞こうとしない、神さまから外れた生き方をしている、その罪を、イエスさまは許すために、当時のユダヤ人たちがしていた断食以上に、断食をされたのです。逆に言えば、罪の赦しのためには、それほどに厳しく、命の危険が伴うことをしなければならないということではないでしょうか?
そんな中で、「誘惑する者が来て、イエスに言った。『神の子なら、これらの石をパンになるように命じたらどうだ。』誘惑する者は、イエスさまに、あなたは神さまの子なのだから、これらの石をパンになるように命じたらどうだと、自分が悪魔だとは、最初は伏せておいて、イエスさまが何も食べていない、弱さの中につけ込んで、自分の思い通りになるように、その支配下に置こうとするんです。
こうした支配に置こうとする時の特徴は、1つには、弱さの極みの中にあるイエスさまの、その弱さにつけ込んで、支配しよう、自分の思い通りにしようとする動きです。その時、「これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と、この言葉には、怖い感じはありません。むしろ命の危険さえあるイエスさまにとって、パンになるように命じたらどうだ、というのは、すぐにも飛びつきたくなるような言葉です。一般的にも、すぐに飛びつきたくなる話というのは、誘惑の特徴ですね。
そして2つ目は、誘惑する者ではなく、悪魔という、その正体を明かして、イエスさまを神殿の屋根の端に立たせます。神殿の屋根の端というと、単に屋根の端というのではなくて、その屋根の端から更に伸びた、突出部、突き出たその部分の端です。その高さは地面から約15メートルあったと言われていますから、だいたい3階の高さになります。そこには落ちないようにするための柵があるわけではありませんから、一歩踏み外せば、落ちてしまいます。生きるかどうかの瀬戸際です。そういう場所だと聞くだけで怖いと感じます。その中で、「神の子なら、飛び降りたらどうだ」あなたは神の子なのだから、飛び降りたらどうだ、飛び降りることを勧めるんです。それはますます恐怖です。恐怖をあおっています。そして言われるままに飛び降りたら、助かりません。
ところが悪魔は「神があなたのために天使たちに命じると、あなたの足が石に打ち当たることのないように、天使たちは手であなたを支える」と、詩編91篇の聖書の言葉を、イエスさまに語りながら、ここから飛び降りたらどうだ、と迫るのです。ここで、悪魔が引用した聖書の言葉をよく見ると、悪魔は、都合のいいところだけ切り取っています。というのは、悪魔が引用した聖書の言葉には続きがありまして、「あなたは獅子と毒蛇を踏みにじり 獅子の子と大蛇を踏んで行く」とありますから、イエスさまは、神殿の屋根の端まで連れて行った悪魔を、獅子、毒蛇、大蛇に対してすることと、同じようにするということですから、悪魔にとっては、自分が踏みにじられたら、踏んで行かれたら、たまったものではありません。それはまたイエスさまに、悪魔が屈服することですから、悪魔にとって認められません。都合が悪い言葉です。だから悪魔は、その部分は切り取って、自分にとって都合のいい所だけ切り取って、天使が守ってくれるのだから、あなたは神の子なのだから、飛び降りたらどうだと、恐れをあおり、ますます恐れさせて、悪魔の言う通りにさせようとするんです。
これらの方法で、悪魔は何をしようとしているのでしょうか?それは、誰よりも上に立ちたい、誰よりも一番になりたい、そしてすべてを支配したい悪魔にひれ伏させようとしているんです。その願いは、願いというよりも、究極の欲望だと思います。誰よりも一番に、すべてを支配したい!その欲望の実現のためには、何でもしようとするんです。
では、その姿というのは、悪魔だけのことなのかというと、私たちにも、あるのではないでしょうか?誰よりも一番になりたい、誰よりも上に立ちたい、誰をも、支配したい、自分の思い通りに動かしたいという欲望は、その関係、規模は、大なり小なりあっても、私たちの中からなくなるものかというと、なくなったように見えても、あり続けるのではないでしょうか?イエスさまは、それをぶつけてきた悪魔に対して、神さまの言葉をもって、「退け」とおっしゃられるんです。人の力とか、立場で、能力で退けたのではなくて、『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と、神さまがおっしゃっている、神さまの言葉を語り、その言葉によって、「悪魔は離れ去った」のです。
では悪魔はいなくなったのか?また誰よりも一番になりたい、誰をも支配したいという欲望は、消え去ったのかというと、「離れ去った」とあるだけですから、また近づいてくるということです。一旦離れ去ったから、ああよかったではなくて、またくるんです。その時に、何をもって、向き合うのでしょうか?何をもって乗り越えられるのでしょうか?
今から25年前に出版された神学者加藤常昭先生の「み言葉の放つ光に生かされ」という本の中に、「人はパンだけで生きるものではない」という小見出しで、こう記されています。
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る1つ1つの言葉で生きる』と書いてある」。「人はパンだけで生きるものではない」最もよく知られている聖書の言葉、まことにさまざまな解釈がなされる言葉、誰もが気にしている言葉であろう。誰もが自分の生き方の急所に触れる問いを聴きとっている。自分が問われているのだと感じ取る。パンがなければどうしようもないではないかと開き直ることもあるであろう。だが忘れてはならないことは、これは主イエスがいかなる救い主となるか、悪魔の誘惑と闘いながら決断しておられる言葉ということである。40日の断食により飢えの厳しさを改めて知り、私たちの飢餓の悲惨をよく知りつつ、神の力を用いて石をパンに変える奇跡をもって救いとすべきかということである。今もなおそのような奇跡をもって私たちの肉体の悩みを解くことこそが救いだと思っている者が多い。キリストの教会もまた悪魔の誘惑を受け続ける。そこで主に倣って言うのである。私たちを生かすのは神の言葉!現実に神の言葉を聴き続けてこそ、その神の言葉の力によってこそ、私たちは言う。私たちを生かすのは、ただひとつこの神の言葉!
私たちに向かって、悪魔から、いろいろな誘惑、試験がやってきます。1回終われば、もう来ないものではありません。再び、やってきます。一旦収まったかに見える欲望も、また沸き起こってきます。それにも試みられます。時には揺さぶられ、道を外しそうにもなりますし、外してしまうこともあるでしょう。だからこそ、イエスさまは、私たちのその罪を赦すために、断食を40日間なさったのです。その中で、私たちに与え、指し示しておられることは、誘惑に対して、神さまの言葉をもって向き合い、神さまの言葉によって、神さまのいのちそのものによって、乗り越えようとすることです。祈りましょう。