2025年1月12日礼拝 説教要旨
言われるとおりに(マタイ3:13~17)
松田聖一牧師
先日、東京での研修に伺いました。東京オリンピックセンターで、いろいろな学びと共に、いろいろな先生が全国から来られていましたので、初めまして~というご挨拶と、いろいろとお話を伺う機会でした。1つの教会の牧師館に泊めていただいて、一緒に泊られた、四国と、奈良の先生とも初めまして~ということで、夜中の2時くらいまであれこれとお話することもでき、良い機会に恵まれたことでした。さて、その研修のために、新宿から小田急線に乗り換えるのですが、久しぶりの新宿ということもあり、新宿で、山のようにある改札と、乗り場がありましたので、いつものようにあっちに行ったり、こっちに行ったりと、するうちに、迷ってしまいました。もう1つ迷ったことは、エスカレーターに乗る時です。それはエスカレーターがどこにあるか迷ったというのではなくて、エスカレーターに乗る時に、左に寄ったらいいのか、右なのか?それで迷ったんです。というのは、関西では、右側に寄って、左側をあけます。それが名古屋くらいから、左側に寄って、右側をあけるのですが、普段、エスカレーターに乗るという機会がほとんどありませんので、久しぶりのエスカレーターを前にして、どっちだったかな?ときょろきょろしながら、周りのお客さんの乗り方を眺めておりましたら、左に寄っているということで、左側だと分かった次第です。東京では左だということでしたが、関西で、左に寄っていたら、後ろから、「何してんねん!」と、どなられたり、突き飛ばされたりこそはなくても、そういう雰囲気に押されるように感じになります。
不思議ですね。同じエスカレーターに乗るのに、場所によって、右に寄るか、左に寄るかという違いがあること・・・そしてその時、自分の中に、右なのか、左なのかという、全く正反対の矛盾、自己矛盾が、エスカレーター1つで起こっているということです。
その自己矛盾という言葉について、こんな解説がありました。「「自己」は自分自身のこと。「矛盾」は、二つの物事が食いちがい、つじつまが合わないことを意味します。「自己矛盾」とは、自分の発言と行動が食いちがい、自分自身の中で相反する状態にあること。自分の言動が一致しないことを表すといえるでしょう。」
そういう自己矛盾は、私たちにもあるのではないでしょうか?その日の気分とか、体調などによって、昨日言ったことと、今日とでは違うことや、あるいは、さっき言ったことと、今言っていることとが、全く食い違うこともあると思います。それは、言葉として出る前に、自分自身の中でつじつまがあわないものがあるから、それが言葉に出てくるわけですが、そういう自己矛盾は、自分自身の中から起こって来る時と、周りから、いろんなことを言われたり、言葉にはならないけれども、何等かの影響を受けて、本音はそうではないのに、つじつまがあわないものを抱えてしまう時もあると思います。いずれにしても、自分の中に、正反対のものがあるというのは、大変なことです。ストレスと言ってもいいかもしれません。
それはヨハネのところに、イエスさまが、ヨハネから洗礼を受けるために来られた時の、ヨハネ自身のことにも繋がります。というのは、この時もう既に、ヨハネは、人々にイエスさまについて、「わたしより優れておられる」こと、「その履物をお脱がせする値打ちもない」ということと、「その方は聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」すなわち、洗礼を授けられるお方は、イエスさまだ、自分が、イエスさまに洗礼を授けるのではないと語っているんです。
ところが、イエスさまは、ヨハネから洗礼を受けようとして来たんです。その時、イエスさまから言われた通りにしてしまうと、人々にヨハネが言ったことと、全く正反対のことを、ヨハネはしてしまうことになります。そうなると、人々からのヨハネに対する評価も、さっきまで言っていたこととは、違うということになります。そうなってしまうことを、ヨハネが気にしていたかどうかは分かりませんが、いずれにしてもヨハネは「それを思いとどまらせようと」イエスさまが、自分から洗礼を受けようとされていることに、ストップをかけようとしているんです。
そしてそれ以上にあるのは、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」と、ヨハネがイエスさまに語る言葉にあります。それは、ヨハネが、イエスさまを、神さまであり、救い主であること、自分という、人間から洗礼を受けるお方では決してないということを、分かっているということではないでしょうか?それはまた、洗礼というものが、どういうものであるかということをも、ヨハネは知っていたからではないでしょうか?
ではその洗礼とは、何でしょうか?洗礼とは、神さまが私たちに、与えてくださる恵みです。そしてその恵みとは、神さまから罪の赦しを与えられ、神さまの愛する子どもとされ、神さまと共に、神さまから愛され、守られ、支えられ、ずっといつまでも、神さまと共に歩み続けることができる恵みです。それはまた、「信じて洗礼を受ける者は皆救われる」との、神さまの言葉と共にある、神さまの変わらない約束に基づくものです。
その洗礼を、イエスさまはヨハネから受けようとされるんです。でもそれは、イエスさまにとって、大きな矛盾です。なぜなら、イエスさまは神さまですから、神さまから外れた生き方もありませんし、神さまのおっしゃられること、神さまが、約束しておられることも、完全に守られるお方です。そういう意味で、イエスさまには神さまに対して、的を外しているという、罪は、全くありませんし、神さまから、許されなければならないお方ではありませんから、洗礼を受ける必要は全くありません。そのことをヨハネは知っていたからこそ、イエスさまに、洗礼を思いとどまらせよう、何としても阻止しようとするんです。
ところがイエスさまは、「今は、止めないでほしい。」すなわち、イエスさまに洗礼を授けることを、止めないでほしいとおっしゃいます。そしてここにはもう1つの意味があります。それは「今すぐ、今、任せなさい!」です。つまり、イエスさまは、ヨハネが、イエスさまに洗礼を授けるということを、洗礼を受ける必要がないお方なのに、今、任せなさい、今委ねなさい、とおっしゃられるんです。それはその後に続く、「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」とおっしゃられる、この言葉に、その答えがあります。
「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」この言葉には、大変珍しい使われ方がなされています。希求法という文法用語ですが、それに合わせると、次のようになります。
彼は、すべての義を満たしたい!完成したい!すべての人を救いたい!です。この彼というのは、神さまのことです。つまり、イエスさまは、すべての義を満たしたい、完成したい、すべての人を救いたいと、希望し、求めているのは、神さまだ!から、その願いに、洗礼を受けることで、応えていこうとされているんです。ただ単に、ヨハネに対して、思いとどまることを止めさせようしているだけではないんです。イエスさまが、洗礼を受けるということは、神さまの、すべての人を救いたいという願いが、実現するためなんです。そのことを、イエスさまは、ヨハネに語り、示しているんです。だから「今は、止めないでほしい」今は、任せなさい!今は、委ねなさい、なんです。
この時、ヨハネは、人々からどう思われるか?つじつまが合わないと思われるのではないか?といったことを、感じていたのかもしれません。人からどう見られ、どう評価されるか?そのことに、心が向かっていたのかもしれません。
人からどう思われるか?どう思われているか?という、人からの評価というのは、私たちにも付きまといます。それは必ずあります。そのことを気にしてしまう時もあるでしょう。そういう時というのは、いくら気にするなと言われても、気になる時には、気になるものです。しかし、イエスさまは、たといそうであったとしても、イエスさまが、洗礼を受けることを通して、神さまは、すべての人を救いたいと願っているのだから、その神さまに任せること、委ねることを、ヨハネに語るんです。
「そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした」ヨハネは、神さまが、願っていることを、そのまま受け止めました。その時のヨハネの気持ち、内面はどうだったかは分かりません。何がどうなっていくのか?分からないままであったのかもしれません。あるいはイエスさまのおっしゃられることに、納得できないし、受け入れられないとまで、思っていたかもしれません。だからこそ、イエスさまは、ヨハネに考えさせる時間を与えるのではなくて、今は、任せなさい、今は、委ねなさいと、おっしゃられるんです。よく考えて、任せなさいとか、委ねなさいとはおっしゃられないんです。その結果、ヨハネは、分からないまま、納得できないままで、であっても、受け入れていくんです。そしてイエスさまが洗礼を受けた時、
天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のようにご自分の上に降って来るのをご覧になった。そのとき「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。
のです。この時、ヨハネが受け入れたこと、そして委ねたこと、は、自分の思い通りになるということ、思いとどまらせようとしたこと、人からどう思われるかということを、自分の中に抱え込むのではなくて、神さまに、その思いを任せし、神さまにお返しすることでした。それは、ヨハネが、イエスさまを、自分の思い通りにしようとすること、自分の思いに従わせようとしたことからも、自由になった瞬間であった時でもありました。
そのとき、すべての人を救いたい神さまからの「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」という、声、言葉をヨハネも聞くことができたのでした。そして、イエスさまが、神さまに愛されていること、その神さまに愛されている人は、イエスさまお一人だけではなく、すべての人だということ、そして「我々」も、わたしもそうだ、ということを、ヨハネは本当だと受け入れることができたんです。
これが、イエスさまの言われるとおりにするということの意味と目的です。すなわち神さまを信じて、従うことは、ただ神さまがしてくださること、神さまが願っておられること、望んでおられることを、信じて、今、任せる事、今、委ねることなんです。イエスさまは、そのことができるお恵みを、今、任せなさい、今、委ねなさいとおっしゃってくださり、与えてくださるんです。それは祈ることもそうです。神さまに祈る時、考えて祈るということももちろんありますが、本当に切羽詰まった時には、人がどう思おうが、人の評価がどうあろうが、とにかく今祈ろうということになるのではないでしょうか?
私たちにとって、神さまを信じて、従うこと、祈ることは、あれこれ考えることはもちろんあります。悩むこともあるのです。しかしイエスさまは、ここぞと言う時には、今、任せなさい、今、委ねなさいと、あれこれ考えるのではなくて、今、そうしなさいとおっしゃられるんです。それは、私たちが、あれこれ考えてしまうと、前に進めなくなること、またあれこれ考えながら、周りの人からの評価まで、考えてしまうと、余計に進めなくなってしまうことを、ご存じだからではないでしょうか?
だからこそ、イエスさまは、ヨハネに、今は任せないとおっしゃられ、そしてその今、に、動かされて、イエスさまの言われる通りに、イエスさまに洗礼を授けることができたんです。
神さまは私たちに、新しい世界、新しい道を開いてくださいます。そのとき、私たちが、あれこれ考えてしまい、自分の手に握り続け、あるいは抱え込んでいることを、手放すことができる恵みを与えようと、今、神さまに任せ、委ねることができる時を与えて下さいます。だからこそ、今、任せなさい、今、委ねなさいと、今与えられたその恵みを受け取るのです。
祈りましょう。