2024年4月7日礼拝 説教要旨
平和があるように(ヨハネ20:19~31)
松田聖一牧師
「ありのままの友人たち」というタイトルで、長い間、家から出られなくなってしまわれた方々を、サポートする働きが紹介されていました。いろいろな方が登場します。実名で出ておられる方もあれば、仮の名前の方もいました。それぞれに、社会に出ることができず、家に引きこもっておられました。そんな中で、自分が、これから自分がどうなっていくのか、という不安を、おっしゃっていました。しかし、それぞれの方が、周りの方々のサポートを受けながら、その人らしく歩んでいかれるという方向に向かっていきました。その中で、筑波大学の先生が、ひきこもりについて、こうおっしゃっていました。「ひきこもりという状態は、強いストレスがかかった場合の、防衛反応として、まっとうな反応ですし、パワハラとか、それこそ対人関係でやめた後、しばらくひきこもることは、全然珍しくない正常な反応なんです。」それはその通りです。強いストレスをかかったとき、自分の身を守ろうとするのは当然です。まっとうな反応ですし、正常な反応です。なぜならば、そのままストレスにさらされ続けたら、自分が壊れてしまうからです。
そんな自分を守るということの1つに、心を閉ざす、ということもあります。その時、人と会いたくないと思いますし、社会と関わりたくないことなどが、その人自身に起こります。でもそれで安心できるのかというと、自分の身を必死で守ろうとしながらも、自分がこれからどうなっていくのか?という大きな不安を抱えているんです。でも、そういう姿は、周りからいろいろな評価を受けることかもしれません。しかし、その人にとっては、自分を守ることで精一杯です。それほどに、大きなストレスと恐ろしい出来事を経験したのですから、当然であり、正常な反応です。
イエスさまの弟子たちもそうです。この時、弟子たちは、イエスさまの十字架の出来事を目の当たりにしました。そしてイエスさまが甦られた知らせと、マグダラのマリアから、「わたしは主を見ました」と告げられたこと、イエスさまが、神さまのところへわたしは上ると、彼女を通して伝えられたことが、一度にどっと押し寄せてきていました。それは、彼らの理解を超える、これまで誰も経験したことのない出来事ですから、大きなショックであり、また強いストレスのかかった状態ではなかったでしょうか?
そんな中で、彼らが「ユダヤ人を恐れて」とある言葉は、「ユダヤ人たちの恐れの故に」という意味です。ということは、ただ弟子たちがユダヤ人たちを恐れていただけではなくて、ユダヤ人たちも、恐れているということなのです。具体的には、ユダヤ人たちは、イエスさまを亡き者にしようとして、十字架につけました。ところが、そのイエスさまが甦られたという出来事と、その主を見ましたと、マグダラのマリアから知らされた、そのことは、復活の日、週の初めの日の夕方までの時間に、瞬く間に人々の間に広まったことでしょう。そのことを知ったユダヤ人たちをも、大いに驚かせ、十字架の上で死んだはずのイエスさまが甦られたことによって、今度はイエスさまが、自分たちに立ち向かって、仕返しをするのではないか?そしてイエスさまの弟子たちも、イエスさまに従って、同じようにするのではないか?という恐れが、彼らの中にあるのではないでしょうか?そして彼らは、弟子たちを抑え込むために、弟子たちを捕まえようとするのではないでしょうか?
そういうことが、いつなんどき起こるかもしれない。捕まったら、これからどうなるのか?これからどうすればいいのか?これからを、どう生きたらいいのか?生きることができるのだろうか?といった、恐れと不安が、弟子たちを襲ったことでしょう。そういう意味で「弟子たちはユダヤ人を恐れて」いるのです。
だからこそ、弟子たちは、何とかして自分の身を守ろうとして、「自分たちの家の戸に鍵をかけていた。」すなわち、自分たちのいたところの門、扉に鍵をかけているのです。それはまた、彼らの心にも鍵をかけ、心を閉ざしていることでもあるのです。そんな中にあった弟子たちのところに、「イエスが来て真ん中に立ち『あなたがたに平和があるように』と言われた」イエスさまが、彼らのところに来て、彼らの真ん中、彼らの中心に立って「あなたがたに平和があるように」とおっしゃってくださったのです。この時、イエスさまは、扉に、あるいは心に鍵をかけていた、その鍵を無理やりこじ開けて、彼らの、その心の中に土足で上がり込もうとしていません。また彼らが、どうして鍵をかけているのか?とか、今は、どんな気持ちなのか?とか、根掘り葉掘り聞こうとしているのでもありません。ただ彼らのいるところに、イエスさまが来てくださり、彼らの真ん中、彼らの中心にイエスさまは立っておられ、ただ「あなたがたに平和があるように」あなたがたに、神さまからの平安、安心があるように、とおっしゃられるのです。
こうしたイエスさまの姿は、私たちにも大切なことを気づかせてくれます。それは私たちが人と出会い、その人と関わり、その人と向き合おうとする時、相手のその人が、心に鍵をかけて、誰にも入って来てほしくない状態にあるのに、無理やりその鍵をこじ開けて、土足で上がり込んでしまうことがあるのではないか?ということです。その時、相手のその人は、自分のこと、生きることで精一杯です。それなのに、閉じられた心の扉を、無理やりこじ開けようとし、無理やり土足で上がり込むようなことをしてしまえば、ますます自分の身を守ろうと、心を閉ざしてしまい、相手のその人を、場合によっては、傷つけてしまうこともあるのではないでしょうか?
だからこそ、イエスさまは、無理やりに開けようとしていません。鍵をあけようとしたということも、あれこれ弟子たちを問いただしたということも、ここには書かれていません。ただ彼らのいるところに来てくださり、神さまからの平和、平安、安心、神さまがお守りくださっているから、大丈夫だよ!という言葉を、与えて下さるのです。そして、その時、イエスさまは、十字架の上で釘で打ち付けられ、わき腹をやりでつかれた、その傷跡が残る手やわき腹を「お見せになった」のです。それを、弟子たちに見せたということは、今彼らの目の前にいるイエスさまが、甦られ、生きておられるイエスさまだということと、本当に十字架にかかられたイエスさま、そのお方であるということを、弟子たちに明らかにしておられるということなのです。
もう1つは、イエスさまが、十字架で受けた傷を、弟子たちに見せたその時、弟子たちは、その傷を見て、自分たちがイエスさまを守ることができず、それどころかイエスさまを見捨てて、逃げてしまったことで受けた、その傷だということを思い出すのではないでしょうか?そして、自分たちが、イエスさまに対してしてしまったこと、とんでもない傷を負わせてしまったこと、許されないことをしてしまったことにも気づかされていくのではないでしょうか?そういう意味で、傷跡というのは、いろんなことを思い起こさせるものです。
私の膝には、1つの傷跡があります。右ひざに、今でも残っていますが、その傷は、まだ幼い頃に、両親に連れられて、高校野球の県予選に連れられて、津球場に行きました時、応援ベンチで歩き回っていたのでしょう。その時、こけてしまいました。ところが、こけたその所に、コカコーラのビンが割れた状態になって転がっていた、そこにこけてしまい、ガラスで切ってしまいました。かなり大きな傷でしたので、病院に連れて行かれて、何針か縫っていただきました。当時の記憶はほとんどありませんが、足が血だらけになってしまい、病院に担ぎ込まれたと思います。1つだけ覚えていることは、病院で寝かされていた時に、診察室の天井に、病院の館内放送のスピーカーを眺めていたことを覚えていますが、もうその時、高校野球の応援どころではなくなったと思いますし、けがの治療も含めて、周りも大変だったのではないかと思います。いろいろな人に助けられたと思います。それからはその球場に出かけることはありませんでしたが、そういう傷、あるいは傷跡というのは、私たちにもありますね。実際に体のどこかに残っているものもあれば、心に受けたものもそうですね。そしてその1つ1つには、ただそこにそれがあるというだけではなくて、いろんな出来事が、その傷にはありますし、残されている傷跡を見る時には、いろんなことが思い出されるのではないでしょうか?
イエスさまが、その手と脇腹の傷跡を、弟子たちに見せた意味と目的は、それです。そしてその手と脇腹を、この時一緒にいなかった弟子の一人、トマスにも、8日の後に、弟子たちと一緒にいた時に、見せていかれることもそうです。この時、「戸にはみな鍵がかけてあったのに」つまり8日前以上に、さらに厳重に扉に鍵をかけているのです。ということは、弟子たちも、トマスも、ますます恐れている状態なのです。しかしそこにも、「イエスが来て真ん中に立ち『あなたがたに平和があるように』と言われた」神さまの平和、平安、そして大丈夫だという安心を与えて下さったのですが、ただですね。トマスには、手と脇腹を見せただけではなくて、こうおっしゃられるのです。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」です。それはトマスが、ほかの弟子たちから「わたしたちは主を見た」と言われた時、「あの方の手にくぎの跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言ったことに対する、イエスさまの答えです。しかし、この時、トマスは、決して信じないと、不信仰の信仰告白をしながらも、それでも、トマスは、トマスなりに、イエスさまが本当に甦られ、生きておられるということを、疑いながらも、イエスさまのくぎの跡、やりで突き刺された跡という傷跡を見るだけではなくて、実際に、自分の指を釘跡に入れて、イエスさまの手に触れようとしているのではないでしょうか?そして、『この手をそのわき腹に入れて見なければ、わたしは決して信じない」と言いながらも、イエスさまのわき腹にある、槍で刺し通された、その傷跡に、自分の手を本当に、入れようとしているのではないでしょうか?そして、その姿は、イエスさまに体全体で、丸ごと私を受け止めてほしい!という、心から求めている姿でもあるのではないでしょうか?
でもほかの弟子たちは、あなたがたに平和があるようにと言われ、手と脇腹を見せて下さった時、主を見て喜んだのです。ですからその姿とは、トマスはまるで違います。それだけを見たら、トマスは、ほかの弟子たちからは、はみ出ているような、ある意味では手に負えない問題の弟子と映るかもしれません。しかし、トマスのこの姿もまた、イエスさまを信じないと言いながらも、それでもなお、言葉だけではなくて、体ごとぶつかって、体当たりで信じようとしている、トマス自身の信仰告白ではないでしょうか?そんなトマスに、イエスさまは、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と、あなたが願った通りに、あなたの指をここに当てなさい。わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい、と、体全体で受け止めてくださり、体全体で、トマスを抱きしめるほどに、トマスを信じて、信頼してくださっているのです。そんなイエスさまが、「信じない者ではなく、信じる者になりなさいと、おっしゃっておられるのは、どんなに決して信じないと言っていても、あなたは信じない者ではなくて、必ず信じる者になる!ということを、イエスさまの方から信頼してくださっているからです。トマスは、そういうイエスさまに出会った時、イエスさまが、わたしと共にいてくださるということを受け取ることができ、安心できるようになるのです。
福島県伊達市でのことです。先日、橋から飛び降りようとした女性を欄干から引き上げて救助したとして、福島県警伊達署は、伊達市立伊達中学校の5人に感謝状を贈ったとのニュースがありました。こう紹介されていました。
5人は3年生の3人と、2年生の2人。5人は先月28日正午過ぎ、同市の伊達橋の鉄骨部分に立って川面を見つめる女性を発見。2人が声をかけ、別の女子生徒も合流して3人で女性を引き上げた。2人の女子生徒は、近くの大人に助けを求めた。「ごめんなさい」と泣きながらパニックになっている女性に対し、5人は「大丈夫ですよ」と声を掛け続けた。女性にけがはなく、「声を掛けてもらえて良かった」と話しているという。
何事もなく何よりだったと思います。その時、生徒さんたちは、声を掛けただけでなくて、体を、しっかりとつかんで引き上げていきました。そして相手のその方が、パニックになっている時にも、そばにいて「大丈夫ですよ」と声を掛け続けていました。
「あなたがたに平和があるように」この神さまの平和、平安、神さまがいつも共にいてくださる安心を、イエスさまは、言葉をもって、また体全体で与えてくださいます。その時、ますます恐れと、不安を抱えて、さらに厳重に鍵をかけ、心を閉ざしていることがあるかもしれません。あるいは、周りに合わせることができなくて、型にはまるどころか、そこからはみ出していることもあるでしょう。心も態度も、まっすぐじゃなくて、曲がっているかもしれません。しかし、イエスさまは、曲がっているからこそ、素直ではないからこそ、「あなたがたに平和があるように」と、神さまの平和、平安を、まっすぐじゃないところにも、あなたがたにあるようにと、与え続けてくださっています。
トマスは、そういうイエスさまに出会いました。その時、もうぶつかってはいませんでした。ただ「わたしの主、わたしの神よ」イエスさまが、わたしの神さまだということを認めて、受け入れていました。それはイエスさまが、わたしの神さまとなった瞬間でした。
その時、イエスさまのトマスへの、この語りかけは、私たちにも、1つのチャレンジを与えてくれます。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」イエスさまは、イエスさまを見ないのに信じる人であること、そして見ないのに信じる人になることを、信じておられます。「見ないのに信じる人は、幸いである。」あなたは、見ないのに信じる人になる!イエスさまをこの目で見ないのに、触ったこともないのに、信じる人になる!その信頼があるからこそ、イエスさまは、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」いろいろな時と出会いを通して、イエスさまが生きておられるということを、信じる人へと導いてくださいます。
「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
祈りましょう。