2023年11月12日礼拝 説教要旨

守られるために(ヨハネ8:51~59)

松田聖一牧師

 

ある時に、羊を飼っている牧場に出かけたことがありました。メーメー牧場と言っていましたが、たくさんの羊が牧場にいて、あちこちでメーメー泣いていました。その羊を牧羊犬という犬が、必要に応じて、羊の群れをあっちに、こっちに行くようにと促していきます。その時羊を間近で見ますと、すごい毛で、その羊の毛を刈る、毛刈りを来られている方々に見せるために、職員の方々が、大きなバリカンを持ってきて、羊の毛刈り、散髪をするのです。その時、羊はおとなしくしていません。嫌がって、何とかそこから脱出しようと、懸命です。でも毛刈りをしないといけないので、職員の方々が、羊を押さえて動かないように一生懸命に抑えているのですが、どうしても動いてしまうので、バリカンが、毛だけではなくて、体に当たってしまい、どうしても羊は擦り傷を負ってしまうのです。そんな毛刈りの後には、羊はさっぱりして、あんなに大きかった羊が小さくなっているのです。その羊が、聖書の中にも多く登場してきます。ただその当時の羊は、今のような羊ではなくて、しっぽがものすごく大きくて、太くて、長いものでした。油尾と呼ばれて、しっぽの中に油が詰まっているのです。30キロくらいあったようです。それであまりにも重たいので、羊のしっぽを乗せる台車がありました。

 

その羊も含めて、神さまにささげられるものが、牛、山羊、鳩、農作物です。その時に、1つの大切な条件があります。それは何かというと、傷が一切ないものでなければならないのです。傷が少しでもあったら、神さまにささげるものとしてはダメです。それはささげものにはならないのです。しかし、具体的に、羊や、山羊や鳩といったものを、傷が一切ない状態のままちゃんと育てていくというのは、至難の業ですね。少しでも傷が付いたらダメですから、そういう状態にするというのは、本当に大変です。そんな傷のない状態を守るということが、イエスさまの言われた、「わたしの言葉を守るなら」の、守るという言葉の意味なのです。では、わたしの言葉、イエスさまの言葉を、傷のない状態で、誰が守るのでしょうか?イエスさまの目の前にいるユダヤ人が守るのでしょうか?あるいは、この言葉を聞く私たちが、守るのでしょうか?守ることができるのでしょうか?一切傷のない状態で守れるのでしょうか?

 

「どんなことにも感謝しなさい」という聖書の言葉がありますね。どんなことにも、感謝せよという時、どんな事にも、の中には、自分にとって、ありがとうと言える時も、ありがとうとはとても言えない、思えないことにも、感謝しなさいという意味です。でも実際は、この言葉に対して、あれこれと思い始めますね。そんなことを言われても・・・感謝できません、と言ってしまう時があると思います。そこには感謝できない事情、都合があるからです。そういう時には、どんなことにも感謝しなさいといくら言われても、その通りにできない自分がいます。つまり、どんなことにも感謝しなさいという言葉を、守れていませんから、完全に、傷一つない状態で、守ることができないのです。そういう意味では、どんなことにも感謝しなさいという言葉だけではなくて、イエスさまがおっしゃられた言葉を、傷一つない状態で守ることができる人は、誰もいません。しかしそうであっても、守れないものであるからこそ、神さまが、「どんなことにも感謝しなさい」と言われるのは、私たちにとって、感謝できないようなことの中にあったとしても、感謝できないような中で、感謝できることを与えて下さるお方だからです。感謝できることを神さまは、感謝できない中にあっても、ちゃんと与えて下さるのです。

 

しかし、現実の私たちには「わたしの言葉」イエスさまの言葉を守ることができないでいるのです。じゃあこのわたしの言葉を守るなら、というのは、誰に向けてイエスさまはおっしゃっておられるのかというと、イエスさまご自身に向かってです。イエスさまが語られる言葉を、イエスさまは、傷一つない状態で守られるのです。なぜならば、イエスさまの言葉は、神さまの言葉であり、神さまの言葉通りに、イエスさまは歩まれ、神さまがおっしゃられた通りに、十字架の死に至る迄、完全にその言葉を守られ、完成された方だからです。そのために、イエスさまは十字架にかかられ、十字架の上で、神さまから外れた生き方である罪を身代わりに背負い、十字架の死と共にその罪を完全に滅ぼしてくださいました。それはイエスさまが十字架にかかり、死んで、その存在がなくなってしまったということではなくて、イエスさまは、わたしたち誰もが経験する最後の時である死を、ご自分の身に引き寄せ、その死を滅ぼし、その死が死で終わりではなくて、神さまといつまでも共にあるいのちであることを現し、与えるためです。そのことをイエスさまは「その人は決して死ぬことがない」と、イエスさまが、神さまだからこそ、永遠に至る迄、死が及ばない状態で、ずっと生きているんだと、語っておられるのです。

 

そのお方のもとに召された方々も、そうです。神さまのもとにずっと共にいて、神さまと共にいつも礼拝をささげ、残された私たちのために、祈り続けていてくださるのです。今日の礼拝にも先に召された方々の、すごい讃美とすごい祈りがささげられています。力強い応援団がいつもあります。

 

それに対するユダヤ人たちの言葉は「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今、はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」です。ここでユダヤ人たちは、まずはイエスさまが悪霊に取りつかれていることが、今、はっきりしたと答えていますが、その根拠は何も示されていません。根拠も、証拠もないのに、イエスさまが悪霊に取りつかれていることが、今、はっきりしたというのは、イエスさまが神さまであることを、完全に否定する言葉です。しかし彼らは、こういうことだから・・・という理由も、根拠を何も示していないのです。

 

理由も、根拠もないのに、イエスさまが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりしたというのは、彼らの言い分であり、彼らの思い込みではないでしょうか?イエスさまが悪霊に取りつかれているということを、そうだと思い込んでしまっているところから、抜けられないでいるのではないでしょうか?ただそう言ってしまう、背景はあります。というのは、ユダヤ人たちにとって、神さまはただお一人であられるお方であり、命もすべてのものも、神さまがお造りくださり、神さまが与えて下さったということは信じています。それが彼らの判断の基準ですし、神さまはただお一人であって、それ以外は神さまではないということもはっきりしているのです。ところが、神さまがただお一人であるのに、イエスさまが来られて、イエスさまと神さまは1つだとか、神さまがおっしゃられたことを、わたしは守るとか言われたことに対して、彼らの、これまで大切にしてきた、神さまは唯一、ただお一人だということと、イエスさまが言われることの関係が分からなくなっていたのではないでしょうか?だから、そんな自分たちの判断基準には合わない、自分たちの正しいという物差しには当たらないイエスさまを、悪霊に取りつかれていると判断し、しりぞけようとしたのです。そういうことが、背景としてはあっても、悪霊に取りつかれているという根拠なり、理由は何も示していません。そういう意味で、彼らにとっての、正しいという判断に基づいた、思い込みがあります。

 

そういう思い込みと言うのは、私たちにもありますね。自分自身も時々やってしまうのですが、携帯電話をすぐに取れるようにと、教会の中であれこれする時には、いつも持ち歩きます。ところが、ある時に、携帯がないことに気づきました。それで置いてあるはずだと思っている、集会室の机の上を見るのですが、ないんです。でもその時は、そこにあると思っていますから、机の上をひっくり返して、探すのです。でも見つかりません。それで、ないないと言いながら捜すのですが、それでもないのです。でも自分では、ここにあるはず!と思っていますから、おかしいなと、もやもやします。そんなないないと思いながら、ふと玄関のところに行きましたら、受付のところに、ちゃんとありました。それは玄関に行った時に、無意識に、そこにポンとおいてしまっていたのでした。ここにあった!良かった!と安心するのですが、でもそんなところに置いたとは意識していませんから、覚えていません。ですから、受付の机の上ではなくて、集会室の机の上にあるはずだと、思っているところを捜すわけです。でも実際はそうではなかった、間違いだった、ここにあると思っていたことは、自分の思い込みだったということに、受付の机の上にあったということで、初めて気づかされるのです。つまり、集会室の机にあるというのが、見つかるまでの自分にとっての正しいという基準です。だからそれに合わない場所は、正しくないのです。正しいとも思っていない。受付のところにあるということは、違うと判断して、排除してしまっているのです。思い込みというのは、そういうものですね。自分にとって、これが正しいと、自分にとっての正しいという基準しか正しい、と判断できない時には、それ以外は、違う、間違いだ、となってしまい、それを取り除こうとするのです。

 

それはユダヤ人たちが、イエスさまについて悪霊に取りつかれていることが、今はっきりしたということだけではなくて、アブラハム、預言者たちについて、「死んだ」と判断していることも、そうです。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ、とアブラハム、預言者たちが死んだということを、2度も繰り返しているのです。ということは、神さまと共にずっと天国で生きているということが、彼らにとっては、間違っている、そんなことはない!死んだんだ!という判断になっていくのです。その思い込みは、イエスさまが言われた言葉を、彼らが変えているところにも出ているのです。彼らはこう言っています。「あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。」ですが、イエスさまがおっしゃられたのは、「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことはない」です。死を味わうことがないとは、イエスさまおっしゃっていません。しかも死を味わうという意味は、死というものを味見するという意味です。死ぬことを、味見するようにできるのか?お料理で味見というのは、ありますが、そんな味見できるようなものなのでしょうか?でも彼らは、味見するように、死というものも味わえるのだというところに立っているからこそ、イエスさまが、決して死ぬことがないと言われたことを、変えてしまっているのです。そしてイエスさまに「あなたは自分を何者だと思っているのか」というのも、あなたは、自分を何者だと、演じているのか?俳優さんと同じように、イエスさまが演じていると思い込んでいるのです。

 

つまりユダヤ人にとっては、イエスさまが、神さまではないということが正しいのです。その基準に当てはまらないのが、イエスさまだという判断で、イエスさまが神さまであるということを、否定し続けていくのです。だから演じているのか?とか、イエスさまの言葉を、変えていくのです。

 

しかしイエスさまは、彼らがどんなにイエスさまの言われたことを、その通りに受け取らなくても、言葉を変えてしまっていても、演じていると言われても、彼らが、信じている唯一の神さまが、わたしの父であること、その方を私は知っていること、あなたたちは知らないが、わたしは知っているし、父なる神さまの言葉を、わたしは守っていると、イエスさまが、神さまと一つであることを、ユダヤ人がどんなに思い込んで、違うと判断し、イエスさまを、神さまであると受け入れようとしていなくても、ご自身のことを現し、説明していくのです。そして、「あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである」とおっしゃられるのは、ユダヤ人たちにとって、偉大な預言者であるアブラハムも、死んで終わりではなくて、神さまと共にある命、復活の命をいただいて、今も神さまと共に生きているということを、イエスさまは、示していかれるのです。死は死で終わりではない。神さまと共にあるずっと続く命があるという希望、喜びを、彼らにも示していくのです。

 

それでもユダヤ人たちには、分かりません。現実の、見えるところ、自分たちにとっての常識からしか判断できないでいるんです。だから50歳にもならないのに、アブラハムを見たのか。といいますが、50歳というのは人が一般的に生きられる平均寿命とすれば、イエスさまがまだ死ぬような年齢に達していないのに、死んだわけではないのに、アブラハムを見たわけではないのに、アブラハムが喜んでいると言えるはずがないというところに立っているのです。確かに常識は常識としてあります。それを正しいと判断したのは、彼らの正しさです。

 

しかし、イエスさまは、彼らの思い込みも、彼らの正しいという判断、そういう意味での彼らの常識を超えておられる神さまです。もちろん現実は現実としてあります。しかし、その現実、常識の中にあって、彼らが正しいと信じていることをも用いて、イエスさまは、神さまの栄光を現してくださるのです。なぜならば、神さまであるイエスさまは、人の思い込みも、その人の正しいという基準も、それゆえにイエスさまの言葉を、傷のない状態で守ることができなくても、イエスさまの言葉に傷をつけ、イエスさまを傷つけていても、それでも時と場所もこえて共におられ、歴史の中に働かれるお方でもあるからです。イエスさまは、神さまだからこそ、歴史のその中に生きておられた、その人に働かれるお方だからです。

 

来年教会は140周年を迎えます。それにあたって、いろいろ教会にある歴史史資料など見てみました。そして先日高遠歴史博物館でも、それらの史料に関係する事柄をいろいろと教えていただきました。そうしますと教会を最初に設立された方々の中には、戊辰戦争に従軍された方があり、高遠藩の武士であった方々、また高遠藩から明治政府に変わった時に、高遠町のいろいろな役をされた方々、伊那町の県会議員をされた方といった方と、宣教師を始め、東京の築地にあった神学校で学んでおられる神学生の方々が、伊那や高遠で出会っていくのです。そのことがきっかけで、次々と、伊那、高遠に東京から神学生の方が来られるようになるんです。ただどこで、どのようにして、武士だった方と出会ったのか?議員の方とどうやって接触を持たれたのかは分かりません。でも、当時、歩いて、高遠や、伊那、また松本、飯田に至る迄、イエスさまのことを伝えていかれた方々が、明治10年代に確かにおられたのでした。そして伊那と高遠、それぞれに教会が設立された後、伊那と高遠教会の方々が、お互いに行き来するのです。一緒に祈り、共に礼拝をささげ、イエスさまを一緒に伝えていくのです。その行き来した方々の中には、今教会に連なっておられる方々の、曾祖父、曾祖母、おばあさん、あるいは、高祖父に当たる方々が、いらっしゃいました。若き日に、イエスさまを信じて、教会を建て上げていかれました。もちろんその時には、自分の孫や、ひ孫が、同じ教会に行くようになるとは、全く分からなかったと思います。けれども、将来のことは、どうなるか分からなくても、イエスさまに出会い、イエスさまを救い主として信じることができた方々が、伊那と高遠を行き来しながら、お互いに信仰を励まし合い、助け合いながら、イエスさまを伝え続けていくのです。そういう意味では、わたしにとってのひいおじいさん、ひいおばあさん、といった方々同士が、神さまに導かれて、教会で出会っていたという事実は、神さまが歴史の中で、確かに、その方々を導かれたこと、お互いに教会で出会えたこと、そのために神さまが働かれるお方だということを改めて思います。

 

ただ当時、現実だけを見たら、大変だったと思います。東京から来られる先生も、1年くらいで交代するというのが普通でした。何度も先生がいらっしゃらないというところを通らされました。イエスさまが、石を投げつけられそうになったことと同じような、迫害も確かにありました。けれども、イエスさまは、140年もの間、人を送り、人と出会い、その人を通して、イエスさまが伝えられていきました。それがどんな時にも、ずっと守られてきました。今、私たちは、過去に生きたその方々を、この目で見ることができません。でも同じ神さま、同じイエスさまを信じて歩んでいたということを、今見ることができなくても、同じイエスさまに出会った喜びが、今も、そしてこれからも与えられ続けていくということを、信じていけるということなのです。その神さまの守りがこれからも、ずっと続きます。それぞれの歩みの中に、ずっと続きます。

説教要旨(11月12日)