2023年6月25日礼拝 説教要旨
見出されたいのち(ルカ15:1~10)
松田聖一牧師
ある高校生の方がこんなことをおっしゃっていました。
完璧主義に悩んでいます。 高1女子です。 私は、昔は完璧主義ではありませんでした。 ですが、将来の夢が医師というものに決まってから、学業面だけではなく、全てを完璧にこなさなくてはいけない、失敗してはいけないと無意識のうちに思うようになっていました。 プレッシャーが常にかかり、病むこともしばしばです。 こんな自分になりたくなかったんです。 なんでこうなってしまったのか自分を追い詰めるばかりです。 失敗をしてもいいというのは理解はできるのですが、なかなかそれを実行にうつせません。 怖くて怖くてしかたないんです。 何かアドバイスをください。 お願いします。
それに対して、いろいろな方がアドバイスをされていましたが、そもそも完璧を目指そうとする生き方、そのためにがんばろうという姿は、良い評価を受けがちです。でも完璧を目指そうとすればするほど、細かいことにまで完璧でなければならないと、自分自身を追い込んでしまったり、それについていけない自分に、苦しむこと、自分ができないということに恐れを感じることもあるのではないでしょうか?そしてそれが自分や、周りを責めたり、赦せなくなってしまうことにも繋がっていくのではないでしょうか?
ファリサイ派、律法学者の方々の生き方もそうです。彼らは、完璧を目指していました。決まりを100%完璧に守ろうとし、また完璧を周りにも求めていきました。その動機は、100%守ろうと努力することを、神さまが喜んでくださること、それが神さまの思いであるということ、そして100%できない自分は神さまから認められなくなるということを、心底信じ切っていたからです。人生そのものが、その世界の中にありましたから、それ以外の生き方はなかったと言ってもいいでしょう。その方々にとって、イエスさまの、徴税人や罪人が皆、イエスさまの話を聞こうとして近寄って来たということを受け入れていること、またイエスさまが、その人々と一緒に食事をされているということに対して、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」という不平を言い出したのは、イエスさまが、罪人と呼ばれる人たちを迎えて、一緒に食事までするということが、彼らにとって全く受け入れられないだけではなくて、これまでの自分たちの生き方、そして自分自身が壊されていくようにも思ったからではないでしょうか?
しかも、彼らにしてみれば、決まりを破っていくと受け取ってしまうことを、神さまから遣わされた神さまであるイエスさまが、していると、彼らは受け止めているんです。それはまた神さまが定め、与えて下さったことを、自ら神さまであるということをおっしゃっているイエスさまが、破っていると彼らには映るのです。それは彼らにとっては、決まりを完璧に守るという生き方を、神さまは喜んでくださっているということが、完全に否定されたかのように受け止めてしまうことなのです。そうなると彼らは、これまで自分を支えていると信じ切っていたことを見失ってしまい、自分を支えている土台が、失われたと受け止めてしまうのです。その結果、自分を見失ってしまっているのではないでしょうか?
自分を見失うということ、それは、自分の価値を見出せないということです。生きていても、今ここにいようがいまいが、自分の価値はもうないと、自分を追い詰め、追い詰めてしまうのではないでしょうか?
その姿を、イエスさまは100匹の羊の中の、見失った、すなわち滅ぼした、追い詰め、追い込んで失った1匹の羊、と重ねておられるのです。つまり、イエスさまはその羊を、「見つけ出すまで捜しまわらないだろうか」見つけ出すまで、捜しまわっておられることを、彼らにおっしゃっていく意味は、イエスさまに不平を言っている彼らが、自分を滅ぼし、自分を見失い、自分を追い詰め、追い込んでいるということを分かっておられるからこそ、そのままで放っておくのではなくて、彼らが何とかして自分自身の価値、自分自身を取り戻してほしいから、イエスさまは、見つけるまで捜しまわられるのです。
「そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うだろう。」とおっしゃられるのは、どんなに自分に価値がない、いてもいなくてもどっちでもいいと、自分を追い詰めていたとしても、それでも、何をするとか、何かができたではなくて、ただ担がれるだけであっても、見つかったこと、そこにいることを、イエスさまは喜んでくださるのです。そしてその喜びを、一緒に、喜んでくださいと、周りの方々とも分かち合おうとしておられるのです。
ですが、ファリサイ派、律法学者は、このことが自分たちのことだということに、気づいたのかというと、気づいたとか、分かりましたという言葉は何一つないのです。反応がないのです。不平は言っています。自分たちを支えていたものを、イエスさまは壊していっているという意識がありましょう。そういうことですから、不平をぶつぶつ言うくらいでしたら、一緒に喜んでくださいと言われた時、それがいやだったら、はっきりといやだと答えたらいいわけです。しかしそういう言葉もないのです。ということは、彼ら自身が、完璧に守ることのみに生き続けていたので、それ以外の世界、自分で判断し、自分で決めて、自分で行動していくということの経験がない状態で来ているのではないでしょうか?それが結果として、自分を見失っていること、そしてその見失うという言葉にある、自分自身を追い詰め、追いこんで、滅ぼし、失ってしまうということにも、全然気づいていないのです。要するに、自分がそこにいながらも、自分が自分でない状態になっているのではないでしょうか?だから「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」という、イエスさまが、今していることについては、言うことができても、それに対する自分の反応がないのです。自分がないのです。
ずいぶん前ですが、良く教会に電話がかかって来たことがありました。かけた方は同じ方です。でも一度もお会いすることなく、そのままになっていますが、その電話の内容はいつも同じでした。こうおっしゃっていました。「あの~わたし、のっぺらぼうなんです~今度教会に行っていいですか?」「はいどうぞ。いらしてください」と電話がそれで終わるのですが、正直心配になりました。のっぺらぼうということは、顔がないということですね。本当に顔がない状態で来られたら、どうしよう?と思いました。どうやって対応したらいいのだろう?少し不安になったことも確かです。でも何度も何度も約束しても、来られることはありませんでした。それでも電話口ではいつも「わたし、のっぺらぼうなんです~教会に今度行っていいですか?」とおっしゃっていました。今その出会いを振り返る時、その方は、本当にのっぺらぼうだったのか?というと、そうではなかったと思います。でも、わたし、のっぺらぼうなんです~と言われたのは、自分が自分でなかったのかもしれない、自分がなかった・・・でもなんとかしたい、ということでお電話くださったのではなかっただろうかと思います。
そういう意味で、自分がそこにいるのに、自分がない、というのは、自分で考えられない、自分で判断できない状態です。となると、人の言いなりになります。ロボットのようになります。それは実に怖いことですね。人のいいなり、人の言った通りにするということは、どんな内容であっても、言われたままに動いてしまいます。してはいけないことでも、何にも感じずに、何にも考えずに突き進んでしまうということもありうるのではないでしょうか?そういう危うさが、自分がない、というところにあるのです。
ですから、ファリサイ派、律法学者の方々の抱えていたものは、それにあたるんです。だから自分が出てこないのです。いや自分が何者かが分からないので、何をしているのか分からなくなっている意味で、自分がないのです。
そうであったとしても、それでもその彼らを捜しまわっておられるお方がいることにも、何の反応も、返事もしないということが、次の譬え、ドラクメ銀貨の姿でもあるのです。
ドラクメ銀貨というのは、当時のお金です。しかも銀貨ですから大したものです。ただですね。いくら銀貨であっても、お金自身が、どこかに見失われて、部屋のどこかに転がっているだけでは、そのお金が銀貨であっても、何にもなりません。そのお金には価値があると認められて、それが使われて初めて、その銀貨は価値のあるお金になります。そのために人が、この銀貨にはこれこれの価値がありますと、価値を付けて使っていくと、それがお金として流通していくものです。お金というのは、お金そのものが私には価値がありますと宣言して使われていくのではなくて、そのお金に価値がありますということを、お金以外から認められて初めて、使えるようになっていくのです。もちろんその時、その銀貨そのものに、あれを買いたい、これを買いたいという意志はありませんし、銀貨自身から何か物を言うなんていうことはありません。
そんな銀貨、ドラクメ銀貨10枚中、1枚を無くしたとしても、その銀貨が自分から何か物を言うわけではなくても、その1枚のお金を探すために、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで、念を入れて探すということなのです。この中で、「念入りに」と言う言葉は、注意深く、丹念にと言う意味の言葉ですが、新約聖書の中で、ここでしか使われていない言葉なのです。ということは、なくしたドラクメ銀貨1枚を、持ち主である彼女は、本当に丹念に注意深く探しまくっているという感じです。それは丁度証拠品がないかと、目を皿のようにして、道路を調べるという時、何人かで横一列になって、道にへばりつくように、徹底的に捜すという姿と似ています。それくらいに家を掃き、念を入れて捜すのですが、それは本当に時間がかかりますね。時間だけではありません。手と足、そして目を使って捜しますから、相当手間暇かかります。
その時に用いられるのが、「ともし火」であり、ほのぐらい明かりであっても、失ったその1枚銀貨をこの女性は、家を掃除しながら見つけるまで、探すのです。
同時に、そのともし火そのものが、聖書の言葉、神さまの言葉を指し示しているんです。聖書の言葉に「あなたの御言葉は我が足の灯。わが道の光」という言葉があります。そのように、ともしびでありながらも、足元を照らすその時、ともしびを持って、捜している、その人も、そのともしびの光で、自分自身が照らされています。つまり、ともし火をつけて捜している時、ともし火である聖書の言葉に、捜し求めているこの人も、照らされているということは、探している人自身も、神さまであるイエスさまに、捜して頂いているということが言えるのではないでしょうか?
つまり、自分が捜していながらも、同時に、捜している自分自身も、神さまに捜してもらっているということでもあるのです。その時、神さまであるイエスさまから、ともし火である、聖書の言葉、神さまの言葉によって「家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」いや見つけるまで捜すんだというお方がいることに、向かって生き始めることへと導かれるのです。それが、悔い改めということなのです。
それでも、それに気づいていないことが多くあります。けれども自分自身をイエスさまが捜しまわっていて下さることに、何も気づいていなくても、捜しまわるということを、イエスさまは決してやめないのです。探し続けておられるんです。そして探し出したときイエスさまは、見つかったことを、みんなで喜んでくださるのです。そしてその人は、自分が見つかった、探し出されたことを、こんなにも多くの方が喜んでくださっていることに、その時、初めて気づかされていくのです。自分が喜んでもらえるものなんだ、ということに、気づかされた時、初めて、自分が認められたことを発見していくのです。そして、今、イエスさまと共に、私はここにいるということが、イエスさまも含め、みんなの喜びの中心に置かれていることに気づかされていくのです。
ある方が、学生時代、ミッションスクールに通っていました。その学校では学生の間に、教会に導かれ、イエスさまを信じて洗礼を受けていかれるのでした。彼女のいたクラスも同じく、周りの友達は次々と洗礼を受けていかれました。そして彼女以外は全員、洗礼を受けていかれたのでした。その中で、彼女は、私は絶対に信じないと言い張っていました。周りに流されてたまるか~という感じです。そしてそのままその学校を卒業し、社会人になり、結婚をされた後、ご家庭の中で、本当に辛いところを通らされました。本当に辛くて、自分を見失いかけていました。いや、自分を見失っていたのかもしれません。そんなずっと重荷を背負わされている日々が続いたその時、教会の前を通りかかりました。するとその教会の看板にあった、聖書の御言葉が目に留まりました。
「凡て重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」
それを見た時、そのみ言葉が、心の中にすっと入っていきました。そしてその教会の中に入っていかれました。それから教会に通うようになられ、イエスさまが、私の重荷をわたしにだけ負わせるのではなくて、一緒に背負っていて下さるイエスさまがいらっしゃることに気づかされていきました。そして気づかされたことがありました。それは、絶対に信じないと言い張っていたその時も、ずっと神さまから離れていた時も、イエスさまが捜し続けて下さっていたこと、時間をかけ、手間暇をかけて、探し続けておられたことに気づかされたのでした。
そこに辿り着くまでに、時間がかかりました。でもイエスさまは時間をかけて、じっくりと、そしてゆっくりであっても、見つかる迄探し続けてくださっていたのでした。
見失った羊も、失った銀貨も、みんな私たちのことです。そんな私たちを、イエスさまは見つかる迄、探し続けてくださり、家を掃き、念入りに捜し続けてくださっています。そして見つかった時、喜んで迎えて下さり、その喜びをイエスさまお一人で喜ぶのではなくて、「一緒に喜んでください」と見つかったことを、一緒に喜ぼうと導いてくださいます。