2022年8月7日礼拝 説教要旨
変わらないもの(マルコ9:33~41)
松田聖一牧師
いちばんを争うというとき、それは見方を変えれば、お互いに僅差で争うということです。例えば、オリンピックの水泳などの競技は、もちろん誰が一番に泳ぎ切るかということを、記録と共に見せていきます。そして1位から順に、順位が決まりますが、1位と6位との差を見ていますと、かなり開いているように見えますが、時間からすれば、わずか0コンマ何秒の世界です。水泳よりも、もっと僅差なのは、100メートル短距離走ですね。カールルイスという選手がいましたが、ロサンゼルスオリンピックで10秒を切るタイムで1位になりました。でも他の選手たちも、わずかの差で1位にはなれませんでしたが、その差はホントにわずかです。素人では見分けがつかないほど、それぞれの選手は、すごいスピードです。そういう意味で、誰が1位か?誰が1番か?ということを、争えるのは、お互いに、その差がわずか、僅差だからです。そしてその競技をする時、それぞれの選手は、自分が一番最後でいいとは、誰も思っていません。誰もが一番になりたい、誰もが金メダルを取りたい、誰もが表彰台に立ちたいと思っています。
弟子たちが、誰が一番偉いかということを、お互いに議論するのもそれとよく似ています。
というのは、誰が一番偉いかという議論するとき、まずは誰かが、誰かをいちばん偉いと評価していますが、評価する誰かは、自分以外の誰かをいちばん偉いと思うのかというと、自分が誰よりもいちばんと思っているからです。
そしてそのとき、自分が、誰よりもすご~くいちばん偉いと思っているのではなくて、ちょっといちばん偉いです。すごくなんて思いません。ちょっとです。わずかです。その人が、う~んとかけ離れたところ、自分の手の届かないようなところにいたら、相手にできませんから、誰が一番偉いかという議論の対象にはなりません。オリンピック選手と一緒に走るような機会があったら、僕が一番偉い、一番早いなんていうことを、自分の中では思いません。圧倒的に早くて、強いということが最初から分かっていますから。でもちょっとであれば、ちょっとだから、僅差だから、そこで一番になりたいし、その差が僅差、本当にわずかであるから、議論になるし、そして競争になります。そのちょっとのことで、自分と、周りとを、自分がちょっといちばん偉いというところに立って、比べていくのです。
そういう意味で、この時、弟子たちは、お互いに、イエスさまの弟子となれたことから、どこかで自分たちには出来るのではないか?先週の聖書箇所で登場してきました、息子から息子を苦しめているものを、その時は追い出せなかったことを振り返りながら、今度は出来るのではないか?というところもあるのではないでしょうか?それは、まだ諦めきれていないでいるのかもしれません。そういうことも含めて、お互いに、心の中で、あるいはその考えを出し合い、話し合う時、自分たちの中で、誰がどれくらいできるか?誰が一番できるか?ということに向かっていくのではないでしょうか?そこにあるものは、自分たちには、出来る力がある、自分たちはその力を持っているということから出ているのではないでしょうか?
この前はだめだったけれども、今度はできるのではないか?これはわたしたちにもあります。それは、チャレンジしてはいけないという意味ではもちろんなくて、チャレンジすることは、必要です。一回ダメだったから、もうやらないとか、1回失敗したから、もうだめだから、もうしないという意味では必ずしもありません。ただ、もう一度やってみよう、やってみたい、チャレンジしたいという思いは、素晴らしいことですが、そのことから、誰が一番偉いか?誰が出来るのか?そして誰が出来ないのか?という区別に繋がってしまうことがあるということです。もう一度やってみよう、というチャレンジそのものから離れてしまって、お互いの比較、比べ合うということになってしまうと、わずかな差、僅差なのに、背比べをしてしまうのです。
そしてそのお互いを比べ合って、誰が一番偉いか、の中心は、この中で誰が、ということではなくて、少しの差であっても、自分が、私が、誰よりも偉いので、その自分を認めてほしい、自分を受け入れてほしいという思いになっていくのではないでしょうか?つまり、誰が一番偉いか・・・とあれこれ議論することが目的ではなくて、議論していた内容、「何を」議論していたのかとイエスさまがおっしゃられる通り、議論そのものではなくて、その議論の中で、私が誰よりも一番偉いということを、認めてほしい、ということが中心にあるから、イエスさまは「何を議論していたのか」と尋ねられ、(35)12人を呼び集めて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。そして一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。
イエスさまは、弟子たち12人を呼び集めて言われた時、座られたのです。その意味は、ただ立っていた姿勢から座ったということだけではなくて、王様が王座、王様の椅子に、座られることと同じことを、ここでされたという意味ですから、すべてのことを治めておられるイエスさまが、今、大切なことをここで座って、12人に伝えようとしているのです。
それは、全ての人に自分を譲れとか、自分自身を放っておくとか、自分を誰よりも後回しにしなさいということとか、自分が全ての人のためにやれることを何でもしなさいということを、弟子たち自身にせよと言うことではなくて、そもそも「すべての人の後」になること、「すべての人に仕える者」になることは、出来ないことだという事、しかも今、12人の中であっても、それができていないこと、11人の後の最後の一人になることとか、11人すべてに仕えるということも、できていないじゃないかということを、彼らに知らしめているのです。今、言われているこのことを、何一つできていないじゃないか!12人の中でも、そうじゃないか!とおっしゃりながら、彼らの真ん中に、一人の子供を立たせて、イエスさまは、この子を抱き上げられた、両腕に抱かれたのでした。
一人の子供を両腕に抱かれること、それを彼らの目の前で、彼らに見せていかれたその子供は、一番誰が偉いかという議論や、そのために何か自分をアピールしているわけではないし、誰かと比べているわけでもありません。そういう力を持っているわけではない、一人の子供です。その子供と訳された言葉には、生まれたばかりの子どもと言う意味もあります。ということは、生まれたばかりの子どもが、すべての人の後になるとか、すべての人に仕える者にはなれませんね。そんなこと考えていないと思います。生まれたばかりの赤ちゃんは、自分が生きることに必死ですし、そのためには両親を始め、家族、周りの方々にお世話になるしかありませんし、お世話をかけっぱなしです。何から何までしてもらうしかない存在です。でもその赤ちゃんが、一人、ここにいたらどうでしょうか?周りの心が和らぎます。大声で泣いたり、わめいたり、のけぞったりしながらも、時には笑顔を見せてくれると、その瞬間、周りを幸せにさせてくれますね。小さな何もできない赤ちゃんであっても、人に助けていただくしかない、小さな、小さな存在であっても、逆に周りの方々に喜びを与え、喜びで包んでいきます。イエスさまは、その一人の子を両腕に抱き上げたのは、自分が何もできなくても、これをしています、あれをしていますと、自分自身をアピールしなくても、人と比べなくても、イエスさまは、一人のその人そのものを両腕に抱き、抱きしめて受け入れて下さるお方だということを、彼らに見せておられるのです。
そういう一人の子供から、私たちは出発しているということを、受け入れることで、イエスさまを受け入れることになり、イエスさまを受け入れる者は、「わたしをお遣わしになった方」神さまを受け入れることだとおっしゃっておられるという、イエスさまからの約束があるのです。
ところが、それでもなおヨハネは、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」自分たちに従わないので、やめさせようとしましたというのは、自分たちに従わないということ以上に、自分たちにできなかったことを、やっている者がいる、しかも悪霊を追い出すということを、やれている者だから、それに対してやめさせようとした、イエスさまの名前を使っていることを止めさせようとしたといことを、イエスさまに言っていきますが、それはやめさせようとしたという報告以上に、自分たちに従わないから、自分たちに従わせたいという、自分たちが優位に立とうとしていることがらがあるのです。
でも彼らは、もうすでにイエスさまに受け入れられているんです。一人の子供のように、一人の子供として、人と比べなくてもいいのに、自分を丸出しでもいいのに、それでも丸ごとイエスさまは受け入れてくださっているのに、それでも、今度は弟子たちの中でのことから、他の人と自分たちとを比べていくのです。
それに対しても、「やめさせてはならない」とイエスさまは、やめさせようとしている彼らに、待ったをかけられるのです。
この一連の、弟子たちの間の議論に対してイエスさまがされたこと、またヨハネが言った、やめさせようとしたことにやめさせてはならないといったことは、ヨハネも含めて、弟子たちにとっては、自分たちの思い通りには事が進んでいかない答えです。それは、彼らにとって、順調ではないことですし、抵抗を感じる内容です。しかしイエスさまは、彼らが抵抗と感じる内容であっても、それを与えていかれるというのは、抵抗そのものがあることによって、前に向かって進んでいけるからです。そして思い通りにはいかないという、抵抗があることで、守られていくことがあり、抵抗があるからこそ、イエスさまが願っておられる方向へと、進められていくのです。
今年の冬は雪が何度か降りました。夜は、氷点下に気温が下がりましたので、路面が凍結してしまい、凍った道路の路面となりました。その道を運転する時は、本当に慎重になりますね。それは路面が滑りやすくなっているので、タイヤが滑ってしまうからです。だから急ブレーキはかけちゃダメと言われますね。それは道、路面が凍って、それまであった抵抗がなくなっているからです。抵抗がないと、タイヤが回っていても空回りして、前に進みません。ハンドルを切っても、思うように曲がってくれません。見事に一回転してしまいます。スタッドレスであっても、路面の状況によっては、つるつるすべります。それは抵抗がないからです。
同じことは、山登りでもそうです。岩がごつごつした登山道であると、確かにその岩を乗り越えていかなければなりません。乗り越える時、抵抗を感じます。大変です。けれどもその岩がごつごつしていればいるほど、足場になります。足をそこにおいても、ごつごつしているから、抵抗があるので、しっかりとそこに足を置くことができ、そこにしっかりと立つことができ、その足場から、上に向かって登ることが出来ます。山を下りる時も同じです。でこぼこしたところがあるからこそ、しっかりと足をつけて、山道を下れますよね。
イエスさまが、弟子たちだけでなく、私たちにとっても、抵抗と感じることを与えられ、抵抗と感じることをおっしゃられるのは、それは思い通りにはいかないこと、順調ではないことを与えて下さることによって、与えられた道をしっかりとイエスさまの願われる方向に向かって、進めるようになるためです。確かにその時は、大変ですし、辛いこともあります。けれども、抵抗があるから、滑り落ちません。抵抗によって、守られます。つまり、その抵抗は、乗り越えられる抵抗となり、イエスさまと言う岩に守られて、しっかりとイエスさまが与えて下さる方向に向かって、進めるために与えられたものとなっていきます。
その中で、与えられることが、人にはできないけれども、神さまにはできるという、そのもともとあることを、その時々に、抵抗と感じることを与えることによって、必要に応じて与えてくださるのです。
それは変わらないことであり、いつまでも変わらないのです。「イエス・キリストは昨日も今日も、いつまでも同じです。」イエスさまは、昨日も、今日も、いつまでも変わることなく、私たちを守り、導くために、与え続けてくださいます。