2022年5月22日礼拝 説教要旨
神さまが分かるように(ヨハネ16:12~24)
松田聖一牧師
小学生6年生の時に、夏休みの自由研究で友達と一緒に、鎌倉時代の城跡遺跡について調べたことがありました。そこで埋蔵文化センターに出かけて発掘された土器や、お城の柱の位置の図面などを見せていただきました。そうしますとお城の土台と柱の位置が何度も何度も変わっているのです。それは火災や、天災で、何度も何度も建て直しているからだと職員の方に教えていただきました。それは発掘調査によって、分かったことでした。そういう意味で発掘調査というのは、1つのお城という建物についてだけでなくて、1つのお城という建物も、何度も何度も建て替えられ、建て直されているということが分かってくるものです。つまり1つの建物、1つの建物を建てるという出来事の中には、本当にいろいろな出来事があるということです。そして、いろんな人が、その時々に関わっているということでもあります。ということから、1つの事柄には、1つのことだけではなくて、いろいろなことがあって、その1つの出来事になっているということです。それは真実ということ、真理ということもそうですね。1つの真実、真理には、いくつもの真理があるということではなくて、1つの真実、真理にはいろんな出来事があって、それらがお互いに関わり合い、あるいは絡み合っているということです。
イエスさまがおっしゃられる真理は、はるかにすごいです。そして絶対的です。何がどうあろうと、何がおころうと、変わることはありません。どんなことがあっても、どんな思想があっても、それらに振り回されないものです。なぜならばその真理は神さまの真理であり、神さまそのものであるからです。ということは、神さまの真理、神さまは、人の頭で考えること、人の理解をはるかに越えているということです。だからこそイエスさまが、言っておきたいことは、まだたくさんあるというのは、山ほど語りたいことがあるということと、何度も何度も語っても、それでもなお、語りつくせないものだということです。
その真理を、今、あなたがたには理解できないという意味は、弟子たちに理解する力がないというよりも、それは神さまの真理だから、そもそも弟子たちの理解を遥かに越えているということです。ですから全部いっぺんに言われても分からないものですし、本当に、少しずつでないと、そして何よりも、イエスさまが分かるように与えて、教えて、説き明かしてくださらないと、わたしたちの小さな頭では到底分からないものです。これが逆に、神さまの事がすぐに全部わかったら、それは人の頭で理解できる神さまということになりますから、それは神さまの真理とは言えないものです。そういう意味でも、すぐに全部わかるということは、あり得ませんし、だからこそ神さまの真理であると言えるのではないでしょうか?
しかし、イエスさまは、全部をいっぺんに理解することはできなくても、本当に少しずつしか分からなくても、その真理をことごとく悟らせるために、「あなたがたを導」かれるんです。真理へと導いてくださるのです。ではその時、導かれる側はどういう状態であるかというと、導くという言葉には、手引きするとか、道案内するという意味がありますから、その時導かれる側は、手引きされ、道案内をされる側です。つまり、手引きを受け、道案内される時、導かれる側は、どこをどう歩いていいか分からない状態だということではないでしょうか?自分がどこにいるかもわからないし、どこに向かっているのかもわからないし、どこに向かえばいいのかもわからないのです。だからこそ、道案内が必要ですね。手を引いてもらう必要があります。
それは丁度カーナビで道案内されることと似ています。
今はそうではなくなりましたが、以前のカーナビは、目的地を設定してそこに向かって案内してくれていましたが、目的地の近くに来ましたら、こんな声がカーナビから出てきました。「目的地付近に着きましたので、これで案内を終了させていただきます」それで切れてしまいました。そうすると初めてのところでは、その先が分かりません。それで困ってしまいまして、目的地付近からあれこれと探して、道行く方に聞いて、ようやくたどり着けたことでした。そのように、分からない時には、手引きしてもらわないと分からないですね。案内を最後までしてもらわないと分かりません。そういうどうなるか分からない、どこに向かっているのか、どこに向かっていけばいいのか、分からないことはいろんな場面であるのではないでしょうか?
そしてその分からないということから言えることは、わたしたちは分からないということが、分からないでいることもあります。分からないということが、分からないということも、分からないことが多いです。
だからこそイエスさまは、理解できないけれども、神さまが教えて与えて下さる真理を、手引きしながら、道案内しながら、「ことごとく悟らせ」てくださるのです。そしてこれからのことであれば、未来のこの時点でこの時にこれがありますよという、最終的な結果を先に全部教えてくださるというよりも、一歩一歩道案内しながら、その時々に、少しずつ分かるように私たちを導いてくださるのです。
聖書の中に、弟子たちなどが「出かけていく」という言葉があります。この出かけていくという聖書の言葉は、私にとって、大切で、その通りだなと、いろいろな出会いを通して、思うことしばしばです。というのは、出かけるということで、出かけた結果、どうなるか分からないけれども、じっとするのではなくて、ここからいろいろな所に出かけて、いろんなところに顔を出してみようとすることで、出会える出会いがあるからです。もちろん出かけるその時には分からないことだらけです。でもわからないなりに、出かけることが出来て、そこで出会いが与えられていく中で、だんだんに分からせていただけているように思います。伊那のフィルハーモニーに入れていただいた時もそうです。文化会館で初めてお目にかかった時には、そこからどうなっていくか、分かりませんでした。でもいろいろな機会に、僕も教会に行ったことがあるとか、行ってみたいとか、教会で弾かせてもらえないかとか、という思いを持っておられる方がいるということでした。昨年のクリスマスの後に、キャンドルサービスのことが新聞に載った時、伊那の文化会館の楽屋の入り口に貼ってありました。それを見たホルンの方が、本番前に私のところにやって来て、こういいました。「ひと言言いたいことがあるんだけど~教会で演奏をしたことが新聞に載っていたけれど、チェロだけ、ずるいよ~僕にもやらせてよ~」とか、別の方と一緒にご飯を食べていた時に、隣に座られて方に、自己紹介で、私は伊那坂下教会の牧師ですと申し上げましたら、へ~とびっくりされるやら、教会のことをあれこれと聞かれました。誰でも行っていいのか?とか、今までの人生で初めて、牧師先生としゃべった~ということで感動されて、大変恐縮しました。別世界にいる人のように受け取っておられましたので、いえいえ~仙人じゃないですよ~そんな普通ですよ~と言うのですが、いや~人生で初めて坂下教会の先生と話した~とおっしゃりながら、坂下教会の場所はどこにある?「上農の前です。」上農の前?そうするとこの辺り?「はい、春日街道の上農交差点から上農の方に曲がるとすぐ教会が見えてきますよ~」へえ~そうか!とおっしゃりながら、分かったよ!と言った途端、その方は、食事を一緒にされている方々にまたおっしゃれました。「分かったよ~坂下教会の場所が!上農の前だって~わかったよ、坂下教会の場所が分かった、分かった~上農の前だって~」どんどん宣伝してくださいます。こちらは恐縮して、べらべらとしゃべるわけではないのに、聞かれた方からどんどん宣伝して、広めてくださいました。指揮者の先生も、教会に行かれたことがあるようで、私の顔を見て、こうおっしゃいました。「日本基督教団の顔をしている!」
こちらが一生懸命に宣伝したわけではないのに、聞いた方から、また次々と言ってくださるので、有難いことだなと思いました。そういう出会いというのは、出かけた時、出かけようとした時には、分かりませんでした。ここからどうなっていくのか、どうつながっていくのか?は、さっぱり分かりませんでした。
でも教会のことを聞いて、聞いた方から、いろいろな方に告げていくということを目の当たりにしたとき、イエスさまは、人の言葉を用いてくださるお方であること、そしてその言葉を聞いた方は、「わたしのものを受けて」イエスさまのものとして、その言葉を受け取って、それを告げていくのです。
そういう意味で、出かけようとするだけでなくて、これからという未来に向かう時、未来の事は、まだ自分の手の中にはないことですから、これからどうなっていくのかということは、その未来に、そして未来を与えて下さる神さまに、任せていくしかないわけです。しかし、これからという未来のことを、自分の中で、自分が、分かる範囲におさめようとしてしまうと、自分の世界でこれからをとらえてしまい、自分のこれからを、自分の中で考えてしまうことになるのではないでしょうか?それをお互いにあれこれと論じ合うと、ますます今のこのことしか、目に入らなくなってしまい、これからが広がってはいかなくなります。
弟子たちもそうです。イエスさまから、「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」と言われた時、続けての「またしばらくすると、わたしを見るようになる」が、入って来なくなるのです。イエスさまは、もう見なくなると同時に、しかし、またしばらくすると、イエスさまを、元通りに、再び、もう一度、わたしを見るように必ずなる!と言われているのです。ところが、弟子たちはイエスさまの言葉を受けて、「しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが」という言葉は、絶対に見ない、事実として断言的に否定する言葉として繰り返すのです。
つまり、イエスさまは、またしばらくするとわたしを見るようになると、これからのことをしっかりと話してくださるのに、弟子たちの側では、見なくなる、絶対に見なくなるになってしまい、イエスさまの言われたことと似てはいますが、内容的には別のことを言っているのです。そこには理由があります。もうわたしを見なくなることだけを受けとめているからです。そうなってしまうと、弟子たちにはこれからが分からなくなるのです。イエスさまを失うんだ、イエスさまを見なくなるんだ!とそれだけを受け止めて、イエスさまなしの生活に、希望を失い、悲嘆にくれ、これから先どうしていけばいいのかが分からなくなっているのです。だから絶対に見なくなるに変わってしまうのです。
悲しみ、悲嘆にくれる時、あまりの悲しみのために、これからが見えない、これからが分からない、これからどうしていけばいいのか、これからどうなっていくのか、これからどこに向かっていけばいいのかが分からなくなります。
だから弟子たちは、絶対に見なくなると断定してしまい、これからを見ることが出来ない状態に、凝り固まってしまいます。でも、イエスさまがおっしゃられたことは、それだけで終わりません。これからがあります。これからが開かれていくし、未来があるのです。でも今だけを受け止めたら、今という事実だけになります。今こうだから、これが絶対だということになります。それが悲しみであれば、悲しみしかありません。悲しみという事実しか分かりません。これから先どうなっていくのかも分かりません。でもイエスさまは、悲しみは悲しみのままじゃない、それだけで終わらない!喜びに変わるとおっしゃっているのです。悲しみという事実は確かにそうだけれども、それで終わりではない。喜びに変わるのです。
なぜならば、悲しみも、苦しみも、喜びに変わるための産みの苦しみであり、悲しみだからです。喜びに変わるために、悲しみも、苦しみといったすべての事が相働いて、用いられ、喜びに変わるのです。喜びは悲しみから生まれるのです。必ずそうなるのです。
今年の冬は寒い冬でした。マイナス10度を下回る世界、雪が30センチというのも、初めてであり、また久しぶりでした。そんな一面の銀世界、また茶色の景色が冬でした。しかしそんな冬が過ぎ去り、春を迎えたとき、草花が一斉に咲き始めました。冬には見られなかった、赤や黄色、白、ピンク、紫といった色とりどりの花が奇麗に咲いています。山の景色も、茶色から緑に変わりました。上農の木々も、枯れ木のような景色から、緑に変わりました。そしてその緑がますます深まっています。悲しみが、喜びに変わることも、それと同じですね。確かに、その時味わった悲しみは、悲しみです。しかしその悲しみは、悲しみのままで終わりません。喜びに変わります。イエスさまは、喜びに変えてくださいます。悲しみを用いて喜びに変えてくださいます。
そしてその喜びを奪うものはもういません。奪い去る者はいないのです。
なぜなら、イエスさまは、「わたしは再びあなたがたと会」ってくださるからです。別の意味は、わたしはあなたがたを訪問する、必ず訪ねてくださるのです。
そういうお方だから、イエスさまに向かっていろいろなことを、これからのことを願ったらいいのです。今までは何も願わなかったかもしれません。これからのことを願うことを考える事すらなかったかもしれません。しかし、そうであったとしても、イエスさまは、「願いなさい」これからのことを願いなさい!これから、喜びに変わるということを約束くださっているイエスさまに、願ったらいいのです。
「そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」のです。