2022年1月23日礼拝説教要旨

正面から向き合うこと(マルコ1:21~28)

松田聖一牧師

通っていた中学校は当時非常に荒れていました。校内暴力が大いにあった時代、授業もほとんど成立しませんでした。先生方も大変だったと思います。特に生徒指導担当の先生は、見るからにドスのきいた生徒とやり合う事、百戦錬磨という感じでした。そんな一人の先生のところに、大いに暴れている生徒がやってきました。体育館での生徒を集めての集会だったと思います。生徒がいろいろ騒いでその先生にかみついていました。ところが先生も一歩も引こうとしません。全校生徒が1300人くらいいましたが、其の1対1のやり取りと言いますか、激しいやりとりに皆がし~んとなるくらいでした。でも先生は、その一人の生徒と本気でした。本気で向き合いながら、どんなことを言われても、一歩も引きません。もちろん暴力ではなくて、ただ本気で立ち向かっていました。ますますし~んとなります。やがてその生徒は、その先生の前から立ち去っていきました。激しいやり取りでした。口角泡を飛ばすという感じでした。でも後から、その先生とその生徒は激しいやり取りもしたけれども、何もない時には、本当にその先生にしっかりと甘えていました。

 

人と人とが向き合う、向き合い方というのは、いろいろなかたちがあるように思います。優しくする場合もあるし、その反対にはげしいやりとりになることもあります。しかしそうなるのは、相手に本気だからです。どうでもよかったら、そこまでいきません。本気だから、本当に向き合って、向かって、立ち向かっていきます。

 

イエスさまがカファルナウムと言う町で、人と出会い、人に関わられる時もそうです。ここでイエスさまはカファルナウムに到着されるな否や、すぐに会堂に入られます。実は「安息日に会堂に入って教え始められた」とあるこの言葉の最初に、「すぐに」という言葉があります。日本語には訳されてはいませんが、「すぐに」があります。つまり、イエスさまはカファルナウムに着いた途端、着くな否やイエスさまはすぐに行動を開始します。

 

すぐにということから1つひやひやしたことがありました。それは関西空港の近くに教会がありますが、その教会の代務者のような形で、午前の礼拝を終えてから、車で高速を走って月に何度か礼拝に伺っていました。ある時、途中交通渋滞だったと思いますが、午後の礼拝の時間、本当にギリギリと言いますか、その時刻に教会に到着したことがありました。到着は礼拝前1分くらいでした。それで到着するな否や、車から降りてそのまま聖書をもって、玄関から入って、講壇に向かって走るわけにはいきませんから、そのまま講壇に立って、礼拝を始めたことでした。神さま間に合いますようにというお祈りは聞かれましたが、本当にオンタイムで到着して、すぐに礼拝と言うひやひやした出来事でした。

 

そのように、すぐにということは、間髪入れないということですから、間がありません。とにかくすぐです。イエスさまが、すぐに会堂に入って教え始められるというのは、そこに教える必要がある、教えを受け取ってほしい人がいるからです。後でゆっくりではなくて、今すぐに教える必要がある人が、そこにいるからだから、イエスさまの会堂入りも、すぐにです。そしてそこにいる人々に向かっていくだけではなくて、その教えに驚いた人々で終わりではなくて、汚れた霊に取りつかれた男にもまっすぐに向かうのです。

 

その理由は「教え始められた」という言葉にあります。というのは、「教え始められた」は未完了形と呼ばれる形で、その名の通り、未だ完了していないんです。つまり会堂に入って教えたイエスさまは、そこにいた人々に教えて、その教えに非常に驚いたという反応があれば、もうそれで任務完了ではなくて、まだ未完了、未だ完了していないのです。だからこそ、イエスさまは汚れた霊に取りつかれた男にも教え続けていくのです。

 

その時、イエスさまがまだ何かを直接教える前に「この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ」「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

 

「かまわないでくれ」と言う意味は、放っておいてくれと言う意味なのかというと、イエスさまとの関係の言葉です。というのは「かまわないでくれ」は、わたしたちと、そしてあなたには、何かあるか?何の関係があるか?と言う意味です。それはイエスさまとは関係ありませんということを言っているのではなくて、何の関係があるか?いや関係ないでしょと言いながら、その言葉が出る時点で汚れた霊はイエスさまを「あなた」と呼んでいるのです。つまり、かまわないでくれ、わたしたちとあなたには何の関係があるかは、関係ないのではなくて、大いに関係があることを、認めている言葉になっているのです。

 

人が、関係ない、関係ないと言い続けていたら、それは関係ないということを言っているのではなくて、関係があるということを認めているから、気になっているから、関係ない、関係ないと、言っていますね。見方を変えれば、関係ないという相手を、関係ないと言いながら、その相手は、私にとっての、また私たちにとっての「あなた」になっています。同時に、関係があるということを認めながら、何とかしりぞけよう、関係ないお方にしよう、関係ない方になってほしいと、言っている言葉でもあるのです。

 

それがもっと具体的になるのが、イエスさまに向かって「我々を滅ぼしに来たのか」とまで叫ぶ、この言葉です。この時、イエスさまからわたしはあなたたちを滅ぼしますなんていう言葉は一言も言っていません。ひと言も、そんな言葉はないのに、この霊は、我々を滅ぼしに来たのか、と自分たちはイエスさまに滅ぼされるとまで思っているのは、彼らが、イエスさまを関係ない存在としたいとしながらも、自分たちをイエスさまは滅ぼしに来たと受け止めて、イエスさまと大いに関係があり、イエスさまとの関係を大いに意識しているのです。なぜならば、この汚れた霊に、そう言わせる何かがあるからです。そう認めている何かを抱えているからです。

 

何かがあります。その何かは分かりませんが、この汚れた霊はイエスさまが聖なる神さまとして向かってくると受け止めているので、この霊にとってイエスさまは脅威になっているのです。それで、非常に激しく、敏感に、ピリピリするほどに、イエスさまとの関係を意識しているのです。

 

そしてかまわないでくれ。と叫ぶこの男にとりついた汚れた霊は、イエスさまに精一杯抵抗しています。そしてこの霊はイエスさまを「神の聖者だ」と、イエスさまを神さまと認めています。神さまだと認めているのに、かまわないでくれ、関係があると認めているのに、かまわないでくれと言うのは、イエスさまが神さまだと認めているからこそ、神さまであるイエスさまがここに来てほしくないのです。

 

でもイエスさまは、それにしっかりと向き合うのです。逃げません。構わないでくれと言われれば言われるほど、そこに一歩踏み出すのです。

 

そして「黙れ。この人から出ていけ」と叱られた、怒鳴りつけていくんです。その結果、この汚れた霊は「その人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」のです。取りついていた男性にけいれんを起こさせたというのは、どういう状態にさせたのかは具体的には分かりませんが、ともかくこの霊は、イエスさまから「黙れ。この人から出ていけ」と叱られた結果、怒鳴られた結果出ていくんです。イエスさまは、この時やさしく諭すようなやり方で叱ったのではありません。怒鳴りつけ、激しく叱るという、激しく熱い思いを持って、イエスさまはこの汚れた霊に立ち向かうのです。それには大変なエネルギーがいります。叱り飛ばすことは、大変です。でもそれはその相手に本当に向き合っているからこそ、叱り飛ばすことができるのではないでしょうか?

 

叱り飛ばすこと、これだけを見たら、何とイエスさまは激しいと思われるかもしれません。でもそれほどに相手に向かっていくということは、イエスさまが本気だからです。適当にしません。本気だから、だから本気で向き合っていきます。でもそういう形であっても、そこにイエスさまの愛があります。イエスさまにとって、あなたは大切だという思いを、イエスさまは叱り飛ばしてでも、全身で正面から向き合い、正面からぶつかっていくのです。

 

しかしその中で、取りつかれていたこの男性は、イエスさまが汚れた霊に真正面から向き合っておられたことを、どう受け止めているのでしょうか?彼の言葉はありません。ただ汚れた霊がこの男性から出て行ったとき、けいれんを起こさせました。この男性はけいれんを起こさせられ、別の意味では地面に打ち倒されるのです。ではその時彼は、イエスさまがどれほどにすごいことをしてくださったのかに、気づいているのかどうか?イエスさまの愛に気づかされているのかどうか?その言葉も、反応も何もありません。気づかずに終わってしまったのかもしれません。

 

でもそういうことであっても、イエスさまは気づいてもらおうとして、あるいは自分が汚れた霊にこれだけすごいことをあなたのためにしたのだという、してやったということは全くありません。ただイエスさまは、汚れた霊に取りつかれていた状態にあったこの男性を、解放してくださった、そのことに、正面から向き合うのです。

 

このことからイエスさまの愛ということについて、改めて受け取らせていただいています。というのは、愛というのはいろいろな形があるということです。1つではないということです。でもその1つではない、いろいろな形があるというイエスさまの愛を、そのまま素直にいつも受け取ることができるかというと、いろんなことがあると思います。

 

ある方がこんな問いをされました。愛ってなんですか? 私は親から愛されていないと思います。でも親は私を愛しているという嘘をついてきます。どう考えても愛していないし、妹の方が愛されていて、頭のなかがごちゃごちゃします。

愛していないのになぜ愛している感をかもしだすんですか?バレないとでも思っているんですか?愛される性格ではないので愛してくれてなくて結構なのですが、なぜ愛しているという嘘をついてくるのが不思議すぎます。

 

その問いに1つの語りかけがありました。

 

『愛』がなんなのかははっきり言って私にも分かりませんしおそらく誰にも正解を言うことはできません。・・・何故なら人によって何を『愛』と感じるかはバラバラだからです。『褒めることが愛だ。』と言う人もいれば、『ちゃんと叱ることが愛だ。』と言う人もいます。おそらくですが質問主さんにも自分の中で『これが愛だろ!』と言うものがあるのではないでしょうか?きっと質問主さんのご両親も『自分の中での愛』をあなたに向けてはいるのだと思います。けど先ほども言ったように人によって『愛』の感じ方、受け取り方は異なります。両親にとっての『愛』も質問主さんにとっては別のものに感じられるのかもしれません。

 

これが愛だと受け取れるかどうかは、人によって、時と場合によって様々です。定義があるようでなかなかこれということが言えない言葉であり、内容だとも言えるでしょう。

 

イエスさまがしてくださったことに対しても、それは同じです。イエスさまが私の事を思って、私のためにしてくださったと理解できるかどうか?それは分かりません。事実この男の人も、汚れた霊を追い出していただいて、分かったのかどうかは分かりません。でもこの男性も含めて、こちらが分かったかどうかということに、イエスさまは左右されないお方です。こちらの都合とか、気持ちとか、もちろんそういうことに寄り添われるお方が、しかしそれだけでなく、それ以上にイエスさまは、今必要なこと、今しなければならないことを、こちらが分かるかどうかというよりも、今これが必要だと判断されたことを、そのままストレートに、正面から向き合って、ぶつかって来られるんです。それが神さまであるイエスさまのなさることなのです。

説教要旨(1月23日)