2021年10月24日礼拝説教要旨
神の結び合わせ(マルコ10:2~12)
松田聖一牧師
自由という言葉があります。その字のごとく、自由です。自らが由とすること
を決めて、選んで、それに向かって行くということです。自由ですから、何でも
いいわけです。ところが、何でもいいよ、どんなことでもいいよということは、
のびのびとできる!という感覚と同時に、難しいことでもあります。何でもいい
よ、どういうことでもいいよということを、自分で決めないといけないので、そ
こには責任が伴いますし、自分で決めたことに基づいてあれこれしていきます
から、結果の責任も伴います。どれにするか決めるということだけではなくて、
どうなっていくかということにおいても、責任が出てきます。
ファリサイ派の人々が、イエスさまに尋ねた「夫が妻を離縁することは、律法
に適っているでしょうか」という問いの向かう先もそうです。というのは、夫が
妻を離縁することは、神さまの律法に適っているでしょうかという、この問いの
意味は、夫が妻を離縁することは、自由であるかどうか、勝手であるのかという
意味だからです。つまり、夫が妻を離縁することは、神さまの律法に合っている
のか、合致しているのかという問いではなくて、夫が妻を離縁するのは、本人の
自由にしていいのでしょうか?自由でしょうか?本人の意志で勝手にできるの
でしょうか?という問いであるからです。そこに、神さまの律法をかけて「適っ
ているでしょうか」という問いになっているのです。さらに言えば、「律法に適
っているでしょうか」に当てはまるもともとの言葉はありません。律法にと訳さ
れた言葉に当てはまる原文はなくて、ただ自由ですか?勝手ですか?許されて
いるのですか?だけです。しかしファリサイ派のイエスさまに対する質問です
から、「律法に適っているでしょうか」となるのです。
それは彼らのイエスさまを試そうとしたという問いなので、夫が妻を離縁す
ることは、夫の自由であり、夫の勝手であることも、律法に適っているかどうか
ですから、答えとして、イエスさまから、律法に適っているという答えであれば、
神さまは夫が妻を離縁すること、自由だ、勝手にしていいんだ!ということを、
イエスさまが認めたということになります。あるいはそれは律法に適っていな
いと答えたら、イエスさまは、どんなことがあっても、離縁はだめだと律法に定
められているということになりますから、離縁状を書いて離縁することを許し
ましたということと、違うことを答えていくことになります。
つまり、彼らの問いの目的は、夫が妻を離縁することは、夫の勝手であり、自
由であるかどうかということよりも、それを神さまが認めているのかどうかと
いうことと、神さまがおっしゃられたことと同じことを、イエスさまがどう答え
ていくかということです。しかも、イエスさまが適っているか、適っていないか、
どちらを答えても、イエスさまには不利になりますから、彼らの問いは非常に巧
妙です。そして律法に直接当てはまる言葉を彼らは使っていませんから、夫が妻
を離縁することについての問いに、神さまの律法を紛れ込ませていくことで、表
向きは、夫が妻を離縁することが、律法と照らし合わせてどうかという問いに見
えても、実は、離縁が、自分の勝手にできること、自由であることを、神さまは
認めているのかどうかという問いに変えて、イエスさまに迫っていきます。
しかしイエスさまは、彼らが、夫が妻を離縁する問題に、神さまの律法を巻き
込んでいこうとすることに対して、「モーセはあなたたちに何と命じたか」ファ
リサイ派の人々が、自分たちの生きる基盤としているモーセの律法には何とあ
るかということと、その律法はあなたたちに何と命じたか、と問い返されます。
それはイエスさまがファリサイ派の問いに答えたくないとか、答える必要は
ないとか、自分が試みられていることも知っていましたら、その手には乗らない
という意味で問い返されたのではなくて、彼らが、どうしてこんな問いをするの
か、問おうとする彼ら自身にある、夫婦となること、夫婦であることの位置づけ
が、どこから来ているのかを、彼ら自身に気づかせるために、彼らの口から答え
ていくようにと、イエスさまは導かれます。それがこの答え「モーセは離縁状を
書いて離縁することを許しました」です。この「モーセは離縁状を書いて離縁す
ることを許しました」とは、申命記の24章に定められていることですが、モー
セの時代も含めて、彼らは、当時夫婦であった夫から、一方的に、正当な理由が
なくて、勝手に、自由に離縁できるということがありました。妻から夫に対して
ではなく、夫から妻に対して、一方的な離縁が突き付けられたときには、どんな
いきさつがあろうと、夫婦解消となっていたのです。
では、どんな理由からそうなるのかというと、例えば、料理を妻がしておられ
て、その料理をこがしてしまった、料理が焦げてしまったということだけで、夫
が妻を離縁するということがありました。こんなことで離縁を突き付けられた
ら、大変です。おこげが出来たらどうなるのでしょうか?魚を焼く時に、焦げ目
がなかったらどうなるのでしょうか?生焼けのような感じになりますね。焦げ
てしまったらもうあなたと別れますとなったら、そういう妻、奥さんが、山のよ
うに出てきます。他にも理由として夫の勝手で、好き勝手で離縁していたのです。
それは夫の勝手な解釈です。それでその夫と結婚された妻は、苦しみ続けていた
と思います。やってられないという中でも、逆に自分から別れたいと言うことは
妻からはできませんでした。どんなに身勝手に、自由に、勝手にあれこれと言わ
れていても、妻からは切り出せません。そんな夫からの暴力的なことに苦しみ続
けている、妻を助けるために、「モーセは離縁状を書いて、離縁することを許し
ました」という意味があります。もちろん離縁を自由にしていいということでは
ありません。嫌いになったから、料理を焦がしたら、離縁していいという意味で
ももちろんありません。そういうことではなくて、夫から妻への暴力など、理不
尽なことをされていた妻が、離縁できない状態にあった時、妻であったその彼女
を助け、救うために、あるいは夫の暴力から守るために、セイフティーネットと
して与えられたのが、離縁状であり、それをモーセは許しましたということです。
でもこの時イエスさまを試みようとして、言っている彼らの中には、本来のモ
ーセの離縁状の意味で、言っているのではなくて、夫が妻をいつでも、どんな些
細なことでも、好き勝手に、自由に離縁できるというところに立っているんです。
イエスさまは、そういう勝手な、自由に、一緒になったり、離れたりというこ
とが、結婚ではないということと、そもそも2人が結婚するということ、すなわ
ち夫と妻になるということは、そういうことじゃないのに、勝手にできる、自由
にできるというそのことをさして、「あなたたちの心が頑固」と言っているんで
す。
頑固というのは、人の言うことを聞かないでいるとか、かたくなさということ
ではありますが、自分の身勝手さ、自分の自由が、何でも自由ということに凝り
固まっていることによって、本来神さまが与えて下さった律法の意味から、離れ
ていることに対しても、頑固だとイエスさまはおっしゃっているのです。
そうはいっても、誰しも自分の物差しがありますし、わが道を行く、ゴーイン
グマイウェイがあることは確かですよね。そうせざるを得ない事情があったか
もしれません。だからこそ、イエスさまは、そこから正しい道へと導いてくださ
るのです。神さまがおっしゃっていることは、こうだと正しい道を示して、与え
てくださるのです。
それはどうやったら離縁できるか、についてではなく、2人の結婚の意味は何
かということ、神さまが男性を女性とを「お造りになった」意味から、イエスさ
まはおっしゃられるんです。それが彼らのよって立つところと違うから、「しか
し」と語られます。だからではなくて、「しかし」と語られて、「天地創造の初め
から、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻
と結ばれ、2人は一体となる。だから2人はもはや別々ではなく、一体である。
従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」つまり、
結婚とは神さまが最初から、私たちに与えておられるお恵みであること、父母を
離れて、二人が一緒になり、一体であること、そこから人が人として生まれてい
くこと、神さまの祝福が、人を通して次の代次の代に与えられ、引き継がれてい
くことを、神さまが最初から決めて、最初から与えておられるから、神さまが結
び合わせて下さった2人であり、神さまが結び合わせてくださったものを、人は
離してはならないとおっしゃられるのです。
それは夫から妻からだけではなくて、妻から夫への離縁においても同じです。
ただし個別には、離縁状を書いて離縁することを許しましたという事情もある
ことは確かです。しかしそれは夫や、妻が、自由に、勝手にできるということで
はなくて、そうせざるを得ない事情があってこそのことです。いずれにしても、
神さまが結び合わせてくださったことで、夫婦となった二人です。その結び合わ
せは、結婚だけに留まりません。人との出会いもそうです。人と出会い、人との
つながりが生まれることも、それはたまたまというよりも、神さまの結び合わせ
によるものです。神さまが出会わせてくださり、神さまが結び合わせてくださり、
神さまが繋げて下さったものです。だからそれは神さまの手の中にあることな
ので、人がどうこうすることではないし、できないものです。そしてその出会い
がずっと続くかどうかは、結び合わせて下さった神さまの手の中にあることで
す。人がどんなに離れたいと思っていても、神さまがそうではないと判断された
時には、それはそのまま繋がっていきます。反対に、人がいつまでも繋がってい
たい、いつまでも一緒にいたいと思っていても、それとは違う判断をされること
もあります。
でもそのいずれであっても、天地創造の初めから人を創造され、人を人とされ
た神さまは、見えるところにおいては離れ離れになってしまったとしても、神さ
まの手の中では、いつまでもつながり続けています。そのつながりは人がどうこ
うすることはできません。神さまがつなげてくださった出会いは、ずっと神さま
の手の中でつながり続けています。そしてそのつながりは、天地全てのものを創
造された神さまを中心につながっているつながりであり、それはいつまでも続
きます。
一人のおばあさんが東京の下町におられました。身寄りもなく、小さな家に住
んでおられました。戦争で子どもさんを失って、近所の方々の世話を受けながら、
希望もないままに、時に死なせてくれるのを待つだけの暮らしでした。病気がち
で、寝たり起きたりしていたおばあさんでした。そんな彼女がある日の夕方、ふ
らっと教会の門をくぐりました。教会といっても、普通の家で、8畳くらいの板
の間に7,8人の人が集まっていました。迷い込んできたようなおばあさんに、
一人の若い方が、「おばあさんはいすよりも、この方がいいでしょう」と、奥か
ら赤い座布団を持ってこられました。そこにおばあさんは座られましたが、牧師
先生の説教はさっぱり分かりませんでした。聖書も初めて。手にしたこともあり
ませんでした。集会が終わるとおばあさんは、すぐに教会を飛び出しました。教
会で親しく語り合っている人々を見ると、自分だけがよそ者だ、ここにも自分の
居場所がない、自分だけが締め出されていると感じてしまわれて、泣き出したい
くらいに心細く感じていました。それから、教会にはいかないまま過ごしていま
したが、3カ月ほどたって、その近くを通りかかった時、おばあさんはちょっと
覗いてやれと、開け放たれた玄関からそっと中をのぞきこみました。やはり、7,
8人の方々が礼拝をささげていました。赤々と燃えるストーブがありました。そ
してそのそばに、赤い座布団が置いてありました。おばあさんは、はっとしまし
た。教会の方々は、たった一度きりの、どこの誰だかわからないおばあさんがい
つ来られてもいいように、3カ月の間、礼拝のたびに、赤い座布団を出しておら
れたのでした。
それを見た時に、彼女はす~と中に入り、赤い座布団の上に座りました。彼女
はこうおっしゃいました。「ここにだけは場所があった!牧師先生のお話は難し
くて分かりませんでした。でもイエスさまがなくなられる前に、わたしたちのた
めに場所を用意しにいくとおっしゃいました。イエスさまの復活の昇天はその
ためだというような話でした。その時、あの赤い座布団が、私のために神さまの
そばにもちゃんと置かれているのだ!」そのことに気づかされたのでした。そし
て「今は、神さまのそばに召される日を楽しみに待っています」そうおっしゃっ
ていました。
出会いは、すべて神さまが出会わせてくださった出会いです。結婚も含めて、
神さまが結び合わせてくださった出会いです。その出会いの中で、出会ってから、
いろいろなことがあります。離れてしまうこともある、つかず離れずといった関
係もあるでしょう。二度と会えなくなった出会いもあるかもしれません。でもそ
れは人が意図的に離そうとして、離れた出会いという面もあるかもしれません
が、それ以上に、神さまがその出会いを、ここまでと判断された出会いです。し
かし同時に、私たちからは、離れたかのように見えるものも、またずっと一緒に
ある出会いも、すべて神さまが天地創造の初めから人を男と女とにお造りにな
られた、神さまの手の中にずっと離れずにあります。だから私たちにとって、離
れた出会いも、実はいっときのことだけであって、神さまの側では、人がどうこ
うすることとは全く関係なく、ずっと繋げ続けておられます。そのためにイエス
さまは場所を用意しておられます。