2021年7月11日 礼拝説教要旨

表も裏もあるから(マタイ7:15~29) 松田聖一牧師

 

表看板に書いてあることが、本当にその通りかどうか?それは表看板の内容以上に大切な要素です。一般的にはインターネットを使って表看板のその情報を先に取っていきます。その情報を何となくいいなと感じて、興味を持たれて、その場所に行ったとき、アップされている情報通りであったら、いいね!になりますが、そうではなかったら、反対のマークがつきますし、二度とそこには行きません。

それは表と裏とが違うからです。表向き言っていることと、実際が違うからです。そのように、表看板と実際との関係は、表と裏の関係であると言ってもいいでしょう。そもそも表と裏ですから、お互いに矛盾している関係でもあります。そしてその関係は、人そのものにもあることではないでしょうか?人と人との関係の中で、表と裏をそれぞれ出したり、引っ込めたりしていくのではないでしょうか?

それはイエスさまがおっしゃられる偽預言者も、同じです。表向きと、裏向きと言いますか、表と裏があります。表は、羊の皮を身にまとっている姿であり、内側、裏は、貪欲な、すなわち強欲、奪取(奪い取る)姿、欲の塊の姿が、表には出ていないけれども、内側にある狼だとイエスさまはおっしゃっておられます。強欲だけでもすごいですが、それが狼である、ということですから、とんでもなくすごいですね。こういう格好はどうすればできるのでしょうか?そもそも狼が羊の皮を身にまとうことは、出来るものなのでしょうか?

具体的な姿はどんなものなのかは分かりませんが、ともかく内側にどんなに強欲があっても、羊の皮、衣服、着物を身にまとって、強欲がない、狼でないかのようにして「あなたがたのところに来る」のです。そこに矛盾があります。内側にあるものと、表に出ているもの、が違います。それは、茨とぶどう、あざみといちじく、良い木と悪い実、悪い木と良い実という関係もそうです。なぜかというと、茨からぶどう、あざみからイチジクが「採れるだろうか」いや採れないという通り、茨とぶどう、あざみといちじくの関係は成り立たないということになりますから、お互いがここで関係しているということ自体、矛盾した内容です。さらには、良い木が悪い実を結ぶとか、悪い木が良い実を結ぶこともできないとイエスさまがおっしゃられるのも、ただできない、というだけではなくて、そもそも悪い木は、腐った木と言う意味ですから、腐った木が良い実を結ぶことなんてできません。もう腐っていますから、腐った木からそもそも良い実を結ぶには至りませんし、実そのものができるのでしょうか?

つまり、イエスさまは、実という見える結果において、矛盾を抱えている、矛盾があるということだけをおっしゃっているのではなくて、そもそも、茨からぶどう、あざみからイチジクと言った実ができないということも含めて、矛盾があるとおっしゃっておられるのです。本当にちぐはぐです。でもそういう矛盾、ちぐはぐが、一人のその人の中にあるのではないでしょうか?それを自身ではどうすることもできないものでありながら、抱えているのではないでしょうか?同時に、自分自身が茨なのか、あざみなのか、良い木なのか、悪い木、腐った木なのかといった、状態を、知らないでいることもあるのではないでしょうか?腐った木であれば、悪い実どころか、実を結ぶことがそもそもできないことなのに、それをできると思っていくことそのものにも、矛盾があるのではないでしょうか?そういう矛盾、表裏があること、表と内側、見せかけの姿と内側が違う、ということが(21)以降の言葉、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うだろう。」にもあるのです。

つまり、イエスさまに向かって「主よ、主よ」と言っていることと、やっていることの矛盾、そして大勢の者がイエスさまに言う「御名によって、神さまから預かった言葉を伝えること、悪霊を追い出したこと、奇跡をいろいろ行ったことも、そもそも人にはできないことです。人にできるものでは全くなくて、それらのことは全部、神さまがして下さらないと、何もならないし、何も動いていきません。それなのに、これをしました、あれをしましたと言うことは、それ自体が矛盾です。成り立たないことです。もちろん、神さまがしてくださったこと、与えて下さったことへの、感謝や、神さまのご用のために、と願ってされるものがあります。でもそれは、神さまがまずしてくださったこと、神さまがまず与えて下さったことへの応答としてです。神さまよりも先に、神さまを差し置くような形で、これをしました、あれをしましたということは、そもそも成り立ちません。でもそういうことを言っていくのではないでしょうか?自分がしたこと、あれをしました、これをしましたということを、そのしたことに対する評価をまず求めようとするんです。

その時、イエスさまは「わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない』えらい言葉ですね。全然知らないというのは。しかし、この「あなたたちのことは全然知らない」とおっしゃられる意味は、私たちのこれまで積み上げてきた実績、あれをしました、これをしました、ということが、永遠にずっと形となって残り続けるものか?人々の心に、記憶に留まり続けるものなのかというと、難しいということです。例えばバブル景気というのが今から30年前にありましたが、若い方々にとっては、何それ?です。ああ、教科書に載っている!くらいのものです。つまり、時が経てば、忘れられていきます。実績の記録が残り続けても、それを覚えている人がいなくなったら、それらのことは、だんだんと忘れ去られて、消えていきます。もちろんそういう実績というのは、その人にとっての尊い実績です。豊かな経験でもあります。それがダメということではなくて、そこに自分の生き方の土台を置いても、やがては忘れられ、なくなっていくものに置いていることになるのではないでしょうか?だからこそ、それらのやがては消えていく、なくなっていくものを、自分の生き方の基、土台とし続けることよりも、なくなっていかないもの、動かない不動の土台、イエスさまと言う動かされない岩を土台とすれば、それは素晴らしい土台となり、自分にとって、変わることのない、忘れ去られることのない土台を、生き方の基とできたという、素晴らしい生き方への転換となっていくのではないでしょうか?その方向へと向きを変え、新しい土台を、自分の生き方の基として確立できるように、イエスさまは、そこに導いてくださるのです。

そういう意味です。「あなたたちのことは全然知らない」と言う意味は。そこからイエスさまが、あれをしました、これをしましたという、わたしたちを、知らないというのではなくて、むしろ、自分がしてきたこと、あれをしてきました、これをしてきました、あなたたちではなくて、イエスさまにとって、何かをしてきた、あなたたちではなくて、実績を積んできたか、何をしてきたかどうかということよりも、何よりもただ、あなたたちを、知っている、わたしたちを知っている、あなたを知っている、わたしを知っているということなのです。

そこに私の土台を置くこと、これまでの実績、あれをしました、これをしましたということをこえて、わたしを知って下さっているイエスさまに、自分の生き方の基、土台を置くことです。

イエスさまをわたしの生き方の土台とする意味は、あれこれ考えたり、あれをしました、これをしましたということに基づいて、イエスさまを土台としていくのではなくて、そして自分がしてきたことによるのではなくて、自分ができなかったこと、やろうとしなかったこと、してきたことの中にある矛盾も含めて、それらの私のしたことから、解き放たれていく生き方が、イエスさまを信じるという生き方からスタートしていきます。それはまさに行いによって、救われるのではなく、ただ恵によって救われるということです。

私たちは、その与えられた神さまからのお恵みを、ただ受け取るだけです。受け取らせていただいて、そこから新しい一歩が動き出します。その時もうすでに、イエスさまが私たちの土台となってくださっているのです。

説教要旨(7月11日)