2021年5月16日礼拝説教要旨

祝福(ルカ24:44~53) 松田聖一牧師

ゆうちょ銀行や一般の銀行で定額貯金というものがあります。5年とか、10年間預けるものがありますが、その1つ、10年定額預金は、10年間預けてその10年の間に利息が付くということと、半年複利ということで利息が半年ごとについて、その利息もあわせて、もともと預けたその金額にまた利息が付いていくというものです。もちろん10年以内におろすこともできますが、10年間預けますと満期を迎えます。この意味は、10年という期間、10年という時が満ちるということです。時が満ちる、満期を迎える、その意味と同じ言葉が、イエスさまがおっしゃられた「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩篇に書いてある事柄は、必ずすべて実現する」の「実現する」という言葉でもあります。ということは、イエスさまについてモーセの律法、預言者の書、詩篇、すなわち旧約聖書全体において、イエスさまについて書いてある事柄は、一部ではなく必ずすべて、全部、満期を迎えるということです。時が満ちるのです。それはこれからという未来のことではなく、イエスさまがおっしゃられたこの時、今イエスさまが十字架の死から三日目復活されたこの時、満たされ、満期が完成されたのです。その年月(としつき)は10年どころではありません。それこそ何千年もの間、それ以上に、神さまが人に、そして、私たちも含めて命を与えられたその時からの年月が連綿と続いています。そのことをイエスさまは、「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」イエスさまは、弟子たちと3年もの間一緒にいたころに、もうすでに言っておいたのです。

言っておいたのだったら、ここで改めて言わなくてもいいのではないか?敢えて言わなくても・・・と思われるかもしれません。しかし、それをイエスさまは復活された後、彼らの目の前で焼き魚を一切れ食べられた後、まさしく、本当に生きておられるということを目の当たりにした弟子たちにもう一度おっしゃられるのは、彼らはまだ分かっていなかったからではないでしょうか?彼らの理解が聖書全体の中で、イエスさまの十字架の死と復活という意味には、まだ及んではいなかったからではないでしょうか?

というのは、イエスさまは言っておいたことであるとおっしゃられ「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」言われたということは、この時点では、彼らの「心の目が閉じていた」ということです。聖書全体の中でまだ分かっていなかった、心の目が閉ざされていたと言えるでしょう。一般的にも、その人の心が閉じている時、その人の心が閉ざされている時には、聖書のことだけではなくて、こちらから相手のその人に向かって、どんなに語りかけても、それがどんなに正しくて、どんなに理屈に適ったことであっても、その人には、何にも入っていきません。やりとりが成立しません。相手の心が閉ざされているからです。それはどんなに近い関係であっても、起こりうることです。それがいいとかどうとかということではなくて、心が閉ざされることが、ないのではなくてあります。

それがこの時の弟子たちです。イエスさまが十字架にかかられ、亡くなられ、葬られたことを目の当たりにし、自分たちはイエスさまを守ることができなかったという事実の中で、彼らは自分たちもいつどうなるか分からないという恐れで、隠れるようにして過ごしていました。そこにイエスさまが来られ、復活され、生きておられることを証明するために、目の前で焼き魚を食べても、それでも彼らの心はまだ閉じていました。だからこそイエスさまは「彼らの心の目を開いて」彼らの心を開けて下さるのです。こじ開けようとして開けるのではない、無理やりに理解させようとするのでもない、ただ聖書全体に、救い主メシアが苦しみを受け、三日目に死者の中から復活すること、罪の赦しを得させる悔い改めが、イエスさまの名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられるということが、聖書全体にあること、聖書の中心はそれだ!ということを、彼らの心の目を開いて、彼ら自身が理解できるように、その理解力を開いて、説き明かしてくださるのです。

弟子であっても、分からない時には、分からないのです。でも、分からない状態である彼らのために、分からないという彼らを、何で分からないのかと責めるのではなくて、彼らの心を開いて、理解できる力を与えて下さって、そして聖書全体において、イエスさまが、私たちの罪を代わりに受けてくださり、十字架の上で死んで葬られ、甦られたのは、「私のためだった」ということが分かるように、分かるようにできる力も与えてくださるのです。

その中でイエスさまは「罪の赦しを得させる悔い改め」とおっしゃいます。罪の赦しを得させる悔い改めとは、何でしょうか?悔い改めとは、反省ということではありません。あるいは遺憾に思うというものでもありません。そういう意味ではなくて、イエスさまが十字架にかかられ、十字架の上で死なれ、そして三日目に甦られ、今も生きておられるのは、何のためか?誰のためであったのか?ということを受け取ること、理解して受け取ることから始まります。具体的には、弟子のペテロという人が、イエスさまがとらえられ、裁判にかけられているときに、お前はあの男と一緒にいたということに対して、イエスさまなんて知らない、イエスさまなんて関係ないと、イエスさまを完全に否定します。3回否定するのですが、知らないという言葉を見ると、イエスさまを知らないということを3回繰り返したということではなくて、1回の知らないという言葉に彼は2回もイエスさまを否定しています。つまり3回否定した、という言葉には、それぞれ2回ずつ否定するという内容がありますから、合計で彼は6回もイエスさまを完全に否定したことになります。関係を完全に否定するということは、愛するという関係を、完全に否定したということです。ただ単に知らないということではない。あの人は、もうわたしと関係が全くない、無関心ということを通り越えて、完全に関係を切るということを、誓ったのです。イエスさまは、知らない関係ないと関係を完全に切られたことで、十字架にかけられました。イエスさまなんて知らないと関係をペテロが切ってしまった、そのことに抗わず、その知らないと関係を切られたことも、そのまま受け取られて、十字架につけられました。つまり、罪というのは、愛するということの全く反対、無関係になる、関係を切るということですし、その罪がイエスさまを十字架につけたという意味はそういうことです。知らない、関係ないと言ってしまったこと、そのことをイエスさまはまともに、全部受けていかれたところに、十字架があります。そのことを受けて下さったイエスさまが、十字架の上で殺されたのは、誰がしたからなのかというときに、他人事ではなくて、ペテロだけの問題でもなくて、私がしたんだ、ということを理解できるようにしてくださったとき、それでも赦してくださり、十字架の死と共に自分のしたことを帳消しにしてくださって、甦られて生きて、私たちのところにイエスさまが来てくださったのです。赦して来てくださったのです。そして一度完全に否定し、完全に関係を切ってしまったのに、それでもなおイエスさまは、イエスさまの方から手を離さずに、関係を切らずにいてくださり、もう一度彼らに、「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」ともう一度彼らに使命を、ここで託してくださるのです。

あなたがたはこれらのことの証人となる、その時彼らは、自分たちのしてしまったことも語らずにはおれなかったでしょう。そして同時に、そんなことをしてしまったけれども、それでもイエスさまは赦してくださり、もう一度やってごらんと新しい使命を与えて下さったこと、心の目まで開いて、理解できるようにまでしてくださったイエスさまに向かって、もう一度歩みをスタートし始めていくのです。そういうことまでしてくださったイエスさまのことを話さずにはおれなくなるのです。そういう生き方へと変えてくださることを、もう一度イエスさまから受け取りなおしていくこと、それが悔い改めとなっていくのではないでしょうか?

弟子たちは、生きておられるイエスさまに出会った時、もう一度都エルサレムに帰りました。それまでは恐れに満ちていました。けれどもイエスさまに出会ったとき、彼らは大喜びでエルサレムに帰り絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえ、復活のイエスさまに出会った彼らは、イエスさまに出会った喜びに満たされていました。その時彼らにはイエスさまからいただいた祝福がありました。その祝福は彼らにとって都合のよいものが与えられたからということでは必ずしもありません。しかしそれ以上に、甦られ、今も生きておられるイエスさまに出会えた喜びが祝福そのものでした。

イエスさまは今日も祝福を与えて下さっています。それは私たちの側で、また私たちにとって、良いと感じるものが祝福で、そうとは感じられないものが祝福ではないということではありません。こちらがどんな状態にあったとしても、赦して愛して出会ってくださるイエスさまが共におられるという祝福です。そしてもう一度やってごらんと促されて、それぞれのところで神さまを賛美できる喜びが与えられ、広がっていきます。そして、それぞれのところでイエスさまが私にしてくださったことを、受け取っていくのです。

説教要旨(5月16日)