2025年3月2日礼拝 説教要旨

逆風の中で(マタイ14:22~36)

松田聖一牧師

 

高校3年生になったばかりのある日のことです。友達が私にこう言いました。「今度昼休みに、生徒会室に一緒に来てくれ~」どうもその友達は、生徒会に立候補するつもりだったようで、きっと応援かなにかをしてくれということなのだろうと、昼休みにその友達と生徒会室に行きました。そこで彼は、立候補するための手続きを、いろいろしていましたが、その時に、またこう言いました。「お前も立候補してくれ!」有無を言わせぬ雰囲気で、最初はえっ!となりましたが、結局、説得されて、そうせざるを得なくなり、立候補させられることになってしまいました。正直、これはえらいことになった・・・大変なことになったと思いました。その後、選挙があり、その結果、当選してしまいました。ところが、私を誘った友達は落選してしまい、強引に引っ張りこまれた私が、選ばれてしまいました。それからというもの、どうしたことか・・・と戸惑う暇もなく、受験勉強どころではなくなり、文化祭、体育祭の準備に取り掛かることになってしまいました。そうこうするうちに、ラジオ体操第一を、全校生徒の前で模範演技させられることになってしまい、ラジオ体操の特訓が始まりました。また高校野球部が出場する甲子園の県予選で応援団に入らされ、今まで着たこともないような学ランを着て、赤いタスキをまいて、応援の練習に駆り出されることになってしまいました。そんなこんなでようやく終わってから、10月くらいだったかと思いますが、やっと本格的な勉強に取り掛かることができるようになったのですが、今振り返ると、無理やりさせられたことも、最初は大変だと思いましたが、たくさんの友達と出会い、一緒に、1つのことを作り上げる経験と喜びを一緒に味わうことができたことなど、得難い経験でした。

 

私たちにとっても、やりたいとは決して思っていなかったことを、させられてしまうということがありますね。それは、正直大変なことです。でも大変だと感じることではあっても、でもこの「大変」という漢字の通り、大きく変わるという、チャンスでもあるのではないでしょうか?大変は大変です。けれども、その大変だということを通して、何かが大きく変わっていくんです。

 

それは、イエスさまの弟子たちにとってもそうです。というのは、弟子たちが舟に乗り、向こう岸に行ったのは、舟に乗って、向こう岸に行きたかったからではなくて、またその必要があったわけではなくて、イエスさまに、無理やり、強いられ、強制的に、舟に乗せられ、向こう岸へ先に行かせられたからです。でも、強いて、とあるこの言葉には、無理やりさせられると言う意味以外に、「必要なしから必要ありとする」と言う意味もあるんです。つまり、弟子たちにとっては、無理やりであり、強いられたことであっても、またその必要はないことであっても、イエスさまにとっては、弟子たちを舟に乗せ、向こう岸に先に行かせることが、必要ありだからです。それではこの時、弟子たちは、その必要あり、が分かったのかというと、分からなかったのではないでしょうか?

 

その理由の1つは、このすぐ前に、5000人以上の人々に、イエスさまが、パン5つと魚2匹しかないというところから、祝福して、分け与えることができたという出来事から見えてきます。その時、弟子たちも、その場に居合わせていましたから、彼らも、食べて満腹した喜びの出来事の中にいました。だからその場所は、弟子たちにとっても、群衆にとっても、良いところですし、安心できます。だから、そのままそこにいたら、また食べる物が与えられ続けていくのではないか?という期待も、彼らの中に、生まれてくるのではないでしょうか?ですから、そのまま群衆と一緒にいたくなるというのも、自然なことです。

 

しかし、そもそもお腹がいっぱいになるというのは、いつまでも続くものかというと、そういうわけではありませんね。時間が経てば、またお腹がすくのではないでしょうか?

 

今週伊那ケーブルテレビから、伊那谷FMに出てほしいということで、伺います。普段教会でどんなことをしているのか?牧師の仕事って何?という質問などに、答えていくインタビュー形式とのことですが、前もって、ラジオ局から「こんな内容を伺います」ということで、この他にも、こんな内容でいただきました。「イベント、告知あれば」「これから挑戦してみたいこと」「趣味特技」「力を入れて取り組んでいること」に続いて、その他という項目に、「給食の思い出」このことも聴きたいということでした。それで思い出したことは、小学校時代、給食の時間になるまえに、お腹が空いて、4時間目の授業よりも、時計が気になって仕方がなかったことでした。通っていた学校では、12時20分に授業が終わって、給食の準備が始まるのですが、もう12時前くらいから、お腹が空くんです。それでも授業を受けていながら、「早く終わらないかな~」と思ってしまうんです。お腹が空くと言うのはそういうことですね。朝お腹いっぱい食べても、お昼には「お腹が空いた~」です。そのことはラジオでお話することはありませんが、食べて満腹しても、時間が経てば、お腹は空くんです。

 

群衆や、弟子たちもそうです。みんなお腹が空くんです。その時、弟子たちが、5000人以上の食べ物を用意できるのかというと、同じことを何度も繰り返せるものではありません。その結果、お腹が空いた5000人以上の群衆は、お腹をすかせて、食べ物を求めようとします。でも食べる物が何もないと、どんな行動に出るか分かりません。食べ物がなくなった時の、人間の行動は、極端に言えば、動物的と言いますか、本能が丸出しになってしまいますから、イライラしてしまうだけではなくて、場合によって、群衆同士で、争いなどが起きかねません。そうなると、弟子たちは、もはやコントロールできなくなってしまいます。それは丁度、火が広がってしまった山火事のようです。そうなってしまうと、手の打ちようがなくなってしまいますから、弟子たちにも危険が及びますし、群衆同士も危うくなります。だから、イエスさまは、その場からすぐに弟子たちを、強いて舟に乗せ、向こう岸に先に行かせようとして、彼らをそこからある意味で、避難させようとしたのではないでしょうか?そしてその間に、群衆を解散させられたということではないでしょうか?

 

しかし弟子たちにとっては、喜びの食事の場所から、無理やり引き離され、引き裂かれることですから、大いに抵抗を感じ、無理やりにイエスさまは、自分たちを引き離したと、受け止めてしまうことでしょう。それでも、イエスさまは無理やりに、強いて、舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせるのは、イエスさまとって、弟子たちのために必要なしではなく、必要だと判断したからです。

 

だからこそ「それからすぐ」弟子たちを舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせるんです。その間に、イエスさまは、群衆を解散させられたのですが、それはただ単に、イエスさまが、群衆を解散させられたという出来事だけではなくて、弟子たちが、イエスさまに、「群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」と願ったことを、群衆が食べて、満腹した後で、実現させてくださったということなんです。

 

ということは、弟子たちの願ったことを、イエスさまはすぐにしてくださっただけではなくて、弟子たちを群衆から、必要ありと、引き離した後で、してくださっているんです。

 

私たちにも、イエスさまにしてほしいという願いがありますね。そのために祈ります。でもすぐに聞かれるかというと、必ずしもそうではありません。むしろ、祈っても、願ってもなかなか聞かれず、時間ばかりが経ってしまうこともあると思います。そんな時には、聞いて下さっているのですか?もう聞かれないのではないか?と思ってしまうこともあるのではないでしょうか?しかも、その中で、私たちには必要ないと思っていても、無理やりにさせられることがあると、ますます、祈りはもう聞かれないのではないかと受け止めてしまうのではないでしょうか?そして祈ることを諦めてしまうこともあるのではないでしょうか?しかしイエスさまは、私たちが、どんなに、必要なしと受け取っていたとしても、イエスさまにとっては、必要ありがあるんです。

差があるということなんです。しかもそこには、無理やりに、強いて、群衆から引き離していくということがあり、それは私たちにも同じです。イエスさまは私たちにも、必要ありと判断されることがあります。その時、私たちも、必要ありと受け取っているかというと、必ずしもそうではありません。むしろ必要ないとしてしまっていることもあるのではないでしょうか?

だからこそ、イエスさまは、私たちにも強いて、無理やりにでも、群衆から離れさせるために、向こう岸へ先に行かせられるんです。そして、その間に、私たちがこれは必要だということで、イエスさまに訴えていたことを、私たちが必要なしと受け取っていた中で、必要ありに変えて、実現させてくださっているんです。

 

そして、イエスさまは「祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」夕方まで祈るためにひとり山に登ったのではなくて、「夕方になっても」まだ山におられたんです。そこで、「ところが」と続きますが、そもそも「ところが」とあるという意味は、前を受けて、次に進む時に、ところがと言えること、ところが、と思ってしまうことがあるということです。

 

では、このところが、は、何に対して、ところが、なのでしょうか?1つは、夕方になっても、ただひとり山におられ、祈っておられるイエスさまから、行かせられた舟は、まだ向こう岸についていないということなんです。その理由は、逆風のために、「波に悩まされていた」ということですが、

 

その波について、どうして波が起こるのか?という問いに、こんな説明がありました。この時の波は、海に起こる波を指していますが、「答えは風です。風が強いから波が大きくなるのです。ところが、まったく風のない日でも海の波なみはなくなりません。これは、波がとても遠くまでつたわる性質があるからです。波打ぎわに風がふいていなくても、海の上のどこかでは、必ず風がふいています。そこでできた波が岸までつたわってくるのです。海の上をふく風によって水面に凸凹(でこぼこ)ができて、それが波になるのです。」

 

つまり、波が起こるというのは、海であれ、湖であれ、どこかで風が吹いているからです。その風が強ければ強いほど、波は高くなり、波は力強くなります。そして、その風の吹いている方向から、波が打ち寄せて来ますから、弟子たちの舟が向こう岸に向かうと言う時、その風も、またその風によって引き起こされた波にも、立ち向かっているということではないでしょうか?別の見方をすれば、彼らにとっての、風、波は、向こう岸に行くと言う方向とは、反対の方向から吹き、向かって来ています。ということは、彼らにとっては、逆の方向からですから「ところが」と繋がってくるのではないでしょうか?

 

その「ところが」は、波や、風だけではありません。何かの教えや、思想の風もそうです。だからその教え、思想の風が、強くなればなるほど、波も強くなり、高くなります。その風が、自分たちのいるところでは吹いていなくても、遠く離れたところで吹いていても、その力は、本当に強いです。波で言えば、うねりとなって、ものすごいスピードで、水の中で動き、向かってきます。つまり、その教え、思想の風、波は、周りを巻き込み、また私たちをも巻き込んでいくこと、巻き込まれてしまうことでもあるのではないでしょうか?

 

そんな巻き込まれると言うことで言えば、例えば、みんなという表現がありますね。みんなでしようとか、みんなそう思っているとか、みんなそうだよ~とか、良く言われる言葉ですが、果たして、その時、本当にみんな、なんでしょうか?時と場合によって、あるいはその内容によっては、「わたし以外のみんな」と受け止めている人も、もっとストレートに言えば、私がしなくても、誰かがしてくれる、わたしには関係ないという、人がいるのではないでしょうか?しかしそのみんな、が、良きにつけ、悪しきにつけ、みんなという1つの思想、教えの中で、強くなっていく時、私は違うとはっきり言えるかというと、いかがでしょうか?みんなという風が吹いている時、みんなという波がたっているとき、それが強ければ強いほど、私は違う、そうではない、そうは思わないという私が、そのみんなという風と、波に、立ち向かう格好になるんです。でも、自分の中では、みんなと違う、立ち向かえる、とどんなに思っていても、それは、その時にならないと分からないですね。

 

そう言う意味で、弟子たちの乗った舟が、「逆風のために波に悩まされていた」ということは、彼らが、風に、また波に、立ち向かっているということなんです。しかしそうせざるを得なかった始まりは、イエスさまが、無理やり、向こう岸に先に行かせようとしたということです。しかし、一旦舟に乗った彼らは、イエスさまが、向こう岸へ先に行けということを、そのまま受け止めて、イエスさまのされた通りにしようとしているのではないでしょうか?

 

そこにイエスさまが、湖の上を歩いて来られたんです。でも、弟子たちは、イエスさまを、『「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。』のは、この時、彼らにとっては、自分たちのところに来られたお方は、イエスさまではないという風が吹き、波が起きているからではないでしょうか?そこでイエスさまは「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」わたしだ、わたしがあなたの神さまだ!とおっしゃってくださったことで、ペテロは、安心するんです。そしてイエスさまに、湖の上を歩いて行こうとするのですが、「しかし、強い風に気が付いて怖くなり、沈みかけ」るのも、強い風に心を奪われ、巻き込まれているからなんです。でもペテロは、イエスさまから「来なさい」と言われた、その言葉に従いました。来なさいと言われたことを、そのまま受け取って、イエスさまのところに行こうとした中で、強い風に気が付いて怖くなったんです。

 

そう言う意味で、この一連の弟子たちには、何度も何度も、「ところが」が入って来るんです。しかし、ところが、が彼らの心を支配してしまうんです。その連続であるとも言えるでしょう。しかし、イエスさまは、どんなに、ところが・・・が続いていても、そのところが、のところに、来てくださって、ところが、のところで怖くなっていたとしても、手を伸ばして、ところが、に巻き込まれてしまっている、その手を捕まえてくださるんです。捕まえてぎゅっと握ってくださるんです。それはペテロだけではなくて、弟子たちが、もうこれ以上、ところが、に振り回されないように、動かないように、捕まえて下さるんです。そして助けて下さるんです。

 

おぼれかけたとき、救助に向かう方々は、おぼれかけている人を、後ろからがんじがらめにして、動けなくさせます。国際ルールでも許されていますが、おぼれかけている方が、じっとできない時には、場合によっては、気絶させてもいいんです。動けなくさせることで、助けることができるんです。それは道に迷った時、遭難しかけた時も同じです。動いてはいけない。じっとして動かないことです。そこに救助隊がやって来た時、動かなかったことで、体力を保つことができます。

 

私たちにとってもそうです。ところが、にとらわれてしまうと、どうしても、無駄に動いてしまいます。あたふたします。しかし、イエスさまは、私たちが、動けないように、動けなくさせるために、捕まえて下さるんです。そして安心しなさい、私だ、イエスさまが神さまだということが、分かるように、助けてくださり、捕まえて下さるお方が、神さまだと言うことが分かるようにしてくださるんです。それに気づかせてくださるのです。そしてイエスさまが、捕まえてくださった私と一緒に、同じ舟に乗り込んでくださった時、風は静まったのです。

 

風に立ち向かっている時、逆風の中にある時、それは、イエスさまに従っていること、イエスさまのおっしゃられた通りにしようとし、イエスさまの言われたことに応えようとしている証拠です。

 

祈りましょう。

説教要旨(3月2日)逆風の中で(マタイ14:22~36)