2025年1月19日礼拝 説教要旨

恵みが増し加わっていく(マタイ4:18~25)

松田聖一牧師

 

茨城県の霞ヶ浦というところに、魚を取る網を作る大工さんがおられます。網大工と呼ばれますが、その網大工さんについて、その町のホームページにこう説明されていました。

 

「一シロ、二モック、三テブシ」という言葉があります。これは漁に必要な条件を挙げたものです。シロとは漁場、モックは漁具、テブシは腕っぷしのことを指しています。漁師にとって二番目に大事なものはモック(道具)だったんです。網と帆を作るのは網大工の仕事でした。船は自分の技術や体力に合わせ、さらに費用面を考慮して大きさや素材を決めます。しかし網は直接魚を捕らえる部分であり、漁具の中でも最も漁師たちが工夫を凝らす部分でした。そのため同じ網は一つとしてなくて、微妙な調整が必要なため、網大工は各々の漁師から直接注文を聞いて網を仕上げていたんです。漁師同士でも網についての工夫は秘密にすることがありました。・・網大工さんは網のお医者さんのような役割ですね。網は木綿製で貴重なものだったため、海で使用した網を船で運んでもらい使うこともありました。これを「アガリ網」といったそうです。海で使用する網は海水の塩分により腐食しにくいので、柿渋による防腐処理が行われていませんでした。これを霞ヶ浦で使用できるように柿渋を付け、形も帆引き用に網大工に作り直してもらったそうです。そんな網大工も霞ヶ浦町には1軒残っているだけとなってしまいました。「網大工は良く魚が獲れる網を作らなければ見向きもされなくなる」と網大工の苦労を語ってくれました。網大工は網の修理もしていました。修理の依頼は漁師から「けがした(破れたの意味)」や「イセキンツみてくれ(調子をみてくれ)」と頼まれ、網大工が直接漁師の家に出向き、庭先にムシロを敷いてその上で行ったそうです。たいてい漁が終わった後に頼まれるので夜の作業になり、冬などは寒くて辛い作業だったといいます。

 

このように網大工さんによって、同じものは1つとしてないほどに、極めて綿密に網が作られたということ、また漁師たちにとって、その網は、最も工夫を凝らす部分であり、大切なものであったからこそ、網大工さんは、その修理と整備を欠かさなかったということが言えるのではないかと思います。なぜならば、その網が破れたりして、使えない状態になってしまったら、漁師たちは、魚をとることができないからです。そうなってしまうと、生活できなくなってしまいます。そういう意味で、その網は漁師たちにとって、命の綱であると言えるでしょう。だからこそ、網大工さんは、1つ1つ丁寧に網を作り、網の手入れ修理をし続けていました。そういう意味では、魚を取るために、網を打つ漁師と網大工がいてこそ、漁ができると言っても過言ではありません。

 

だから、ガリラヤ湖で網を打って、漁をしているペトロと呼ばれるシモンと、その兄弟アンデレと、また「舟の中で網の手入れをしている」すなわち、網の修理、修繕をしているヤコブと、ヨハネ、そしてその父親のゼベダイとが、1つのチームとなって、ガリラヤ湖での漁を担っているということでもあるんです。その結果、お互いに助け合い、支え合って、生計を立て、生きていたということではないでしょうか?

 

お互いに支え合うということ、それは、仕事だけではなくて、いろいろありますね。「お互い様~」という言葉、挨拶がありますが、いつも一緒に何かをしている相手に何か不都合があった時には、周りでカバーし合うということがあります。

 

バイオリニストに、五嶋みどりさんという方がいらっしゃいます。世界的なバイオリニストですが、お若い少女時代に、タングルウッドというところでのコンサートでオーケストラと一緒に、コンチェルトをされる機会がありました。その時の指揮者が、バースタインという方でした。そして本番を迎え、素晴らしい演奏をなさっていた時に、バイオリンの弦が切れてしまいました。バイオリンの弦が切れてしまうということは、珍しいことではないのですが、そういうことが起きた時には、コンサートマスターのバイオリンを借りて続けて演奏します。じゃあバイオリンを渡してしまったコンサートマスターは、どうするかというと、自分の後ろに座っておられるバイオリンの方から、その楽器を借りて弾き続けます。その方も、そのまた後ろに座っている方から、バイオリンを借りて、演奏を続けていきます。最終的に、一番後ろに座っているバイオリンを弾かれる方は、どうするかというと、舞台に予備の楽器がちゃんとありまして、それで弾き続けられるんですね。もちろん本番ですから、音がなくなってはいけませんので、音がなくならないように、うま~くされるわけですが、そういうハプニングが、この時起こったので、そういう対応をして、五嶋みどりさんも演奏を続けるのですが、借りた楽器も大きさが違うので、大変だったと思います。ところが、それで無事に終わったかというと、代わりの楽器を弾き始めたその直後、また弦が切れてしまいました。またさっきと同じことを繰り返しながら、最後まで素晴らしい演奏をされたのでした。オーケストラの方々からも、お客さんからも拍手喝さい、指揮者からもハグをされながら、よくやった!というねぎらいの言葉がありました。2度も弦が本番で切れたということは、そうあることではありませんが、そういうハプニングの中でも、周りでカバーし合い、助け合うんです。一人で抱え込むのではなくて、支え合うんです。

 

だからペテロ、アンデレ、ヨハネ、ゼベダイの子、ヤコブ、ヨハネも、ガリラヤ湖での漁を、お互いに支え合っているんです。ペテロたちが湖で打っていた、網が破れたら、ヤコブたちが修理をするんです。そしてまた漁に出かけることができるんです。

 

そういう関係であることを、イエスさまは分かっておられたからこそ、網を打っていたペテロとアンデレにだけ、「わたしについて来なさい。人間を取る漁師にしよう」と言われたのではなくて、網大工として、漁師の網を打つという働きを、支えていた、ゼベダイの子ヤコブと、ヨハネをも「お呼びになった」のです。

 

そして、ペテロ、アンデレは、イエスさまから「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた時、「2人はすぐに」「網を捨てて従った」「すぐに」即座に、たちどころに、直ちに、網を捨てて従ったのです。どうしてすぐに、直ちに、漁師として生きる糧を得るための大切な道具であり、命の綱でもある網を捨てることができたのか?その具体的な理由は、ここには現れていません。しかし、この「捨てて」には、ただ単に捨てて、後はゴミになるということではなくて、その網を、確かにこの2人は捨てたけれども、網は、網として残っているんです。そしてその網は、また他の漁師たちに引き渡され、引き継がれて、ガリラヤ湖で魚を取るために、用いられて行くんです。

 

そして捨ててという言葉は、舟と父親ゼベダイを「残して」という言葉と、全く同じ言葉なんです。つまり、イエスさまから、ヤコブとヨハネが呼びかけられた時、舟と父親ゼベダイとを、単に捨てて、後はもう知らないということではなくて、舟と父親とを引き受けてくれる相手を、すぐに見つけて、その人に渡していったということではないでしょうか?

 

そしてイエスさまに従っていくんです。ただこの4人の気持ちと言いますか、内面は、後に任せる人がいるから、何も思わないのか?というと、そうではないと思います。また父親ゼベダイにとっても、息子2人がいなくなってしまったということと、一緒にもう網大工としての仕事はできないということですから、相当ショックだったと思います。それでも、彼らが、イエスさまに従ったのは、網を打つ漁師としての仕事も、網の手入れをするという網大工としての仕事が嫌で、それらを捨て、残したということではなくて、イエスさまの「わたしについてきなさい。人間を取る漁師にしよう」と呼び掛けて下さった、イエスさまに従うということが、彼らにとって、もっと大切なことだということが、この先何が起こるから分からないなりに、分かったからではないでしょうか?

 

でも、具体的に、これから何があるのか?これからどうなっていくのか?網を捨て、舟と父親を残してイエスさまに従っていくことで、何が起こるのか?網はその後どうなるのか?網大工としてやってきたことが、誰に引き継がれていくのか?父親ゼベダイは、大丈夫なのか?それは彼らには分からなかったことです。不安もあったことでしょう。しかし、それまで大切にしてきたものを、自分たちの手から手放して、他の人に任せていくことを通して、もっと大切な、なくてはならない働きが、これから与えられていくことを、分からないなりにも受け取っていったのではないでしょうか?

 

それが、ガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒された、イエスさまについて行くことで、彼らもまた、イエスさまと共に働くことができたということに繋がっていくんです。弟子とされた彼らは、それまでの魚を取るという漁師、網の手入れをするという網大工として、出会った出会いを遥かに超えて、沢山の方々と出会い、イエスさまに導かれ、イエスさまに癒されていく、その人々を見ることができたんです。それは網を捨てた時、また舟と父親とを残した時には、分からなかったことです。そうであっても、イエスさまは、彼らのこれからのことを、誰よりも考えてくださり、これから先、彼らにとって、一番必要なこと、イエスさまと共に歩み、イエスさまと共に働くということを与え、そこへと繋げていかれるんです。

 

その時、彼らがそれまで大切だと思っていた、網を打つこと、網の手入れをすることよりも、はるかに大切な働きがあるということに、イエスさまが、出会わせてくださっているんです。

 

かつて少年院で過ごした方が、開業医として働いておられた父親のように、医師になろうとして、医師になられた方がいます。少年院を出られてから猛勉強され、何度目かの受験でようやく金沢にある医科大学に入学され、卒業後医師として研修を積まれ、父親の後を継いでいます。でも問題を起こした時には、学校も中退でしたから、少年院で、医師になりたいと言い出した時には、周りの方々の多くは、相手にしませんでした。でもその中で、少ないながらも、この方を、心から信じて、応援し続けてくれた方々がいました。その中のお一人は、この方のかつての保護司の方でした。医師になりたいと言った時、「医者になれ!そして俺の死亡診断書を書いてくれ!」と応援し続けてくれました。そのたくさんの支えの中で、その病院での働きを始めた時、保護司だったその方が病気になられ、今度は、患者として、見ることになりました。そして、死亡診断書を書いてくれ!と頼まれたその通り、医師となったその先生が、その診断書を書くことになったのでした。後に、ご自身の経験を、いろいろなところで講演していかれましたが、ある時、通信制の高校に、いじめや不登校など、いろいろなことを経験し、いろんな思いを抱えて学んでいた若い方々に、こうおっしゃられたのでした。

 

「少年院に入って、医者になるって言って、夢がかなえられたのは、多くの方が応援してくれたから。次は応援する立場になろうと思いました。みんなもあれもしたい、これもしたいと迷っている方がいたら、自分の中でいろいろ捨てて行ったら、大切なものが残る。医者になりたいという思いが1個だけあったら、そういうのを1個見つけられたらいい。」

 

捨てていくこと、残していくことは、何も残らないのではありません。ゴミのように粗末に扱うことでもありません。そういうことではなくて、捨てて行った時、何もかもなくなるのではなくて、捨てたものを必要としている方に、届けられ、必要としている方が、ちゃんと受け取っていくんです。その結果、捨てたその人にとって、大切なものが、残るんです。その大切なものを、与え、残すために、イエスさまは、「わたしに従いなさい」と呼びかけて下さるんです。その時、1個でいいんです。1個だけでいいんです。それを与えて下さる、イエスさまがいらっしゃること、そのイエスさまに、従っていくという、大切なことがあるということを、イエスさまは、私たちにも与えておられます。

 

祈りましょう。

説教要旨(1月19日)恵みが増し加わっていく(マタイ4:18~25)