2025年1月1日 元旦礼拝要旨
永遠の喜び(イザヤ61:1~7)
松田聖一牧師
新しい年を迎えました。皆さんにとっても、昨日と今日とは、また違った思いになっておられるのではないかと思います。教会にとっても、昨年は、創立140年の節目を迎え、記念礼拝などが無事に守られたことでした。そういう年の暮れ、年末の風物詩の1つとして、毎年、良く演奏される曲があります。それは、ベートーベンの第9です。この曲は、喜びの歌、歓喜の歌とも呼ばれます。この喜びの歌の歌詞も含めて、シラーという方の詩を元に作曲された合唱付きの曲が第9です。実はこの曲、本場ドイツよりも、日本の方が、演奏される機会がはるかに多いです。その第9について、ある歌手の方が、こうおっしゃっています。
名のある家庭に生まれたわけではなく、耳が聞こえないという障害をもち、偏屈者とも呼ばれ、常に腹部に病気がちであった彼が、辛酸をなめながら、才能の限りを尽くして長く芸術の場で闘ってきたことにより、深い精神性が培われ、人びとを励まし、安らぎを与える偉大な作品を生み出す結果になったと思う。彼の精神的な苦悩は、ハイリゲンシュタットの遺書の中によく表われている。しだいに孤独に落ち入り、自殺を考えるまでになる。しかし命を絶ち切れず、最後に神に救いを求め祈りを捧げる。「神様がもし私に生きる力を再び与えてくださるなら、才能の全てを人びとのために捧げます。才能の全部を使い果たすまで、どうぞ生かさせてください。」夢中でそう祈ったとき、不思議に自ら死の淵から這い上がっていたというのである。・・・「第九」が最後の交響曲になるという予感のもとに全身全霊を捧げようとしたとき、いちばん強く思ったのは、目の前に展開している人と人との争い、国と国との戦争のことであった。せっかく長年の王侯貴族の独裁政治から、大衆が市民権を獲得したにもかかわらず、再び反動勢力に右往左往している姿であった。本当に人間が、人間らしく自立するにはどうすればよいのか、それが課題〈テーマ〉になった。シラーの詩もそこを強調している。全篇から特にテーマに合う部分を取り出し、思いを込めて旋律をつけた。特に山場になったのは、神〈主〉の表現であった。「星空のかなたに、神〈主〉は住んでおられるに違いない。」「人間の心の中には、善と悪の両方が存在する。常に悪に打ち勝ち、善に向かうには、自分よりももっと大きな力〈神〉に依るしかないのではないか。」彼はハイリゲンシュタットでの経験をもとに、神の表現に力を注いだ。
この曲のテーマである、喜びは、喜べることがあったから、喜びを表せたのではなくて、喜べないことばかりの中で、喜びの歌が生まれたということです。不思議なことですね。ベートーベン自身、耳が聞こえなくなり、精神的な苦しみによって、喜べないような中にありました。また人と人とが争い、悪がはびこるような中にありました。しかし、そんな決して喜べないような中で、喜びが生まれてくるのは、人を越えた、大きな存在である神さまに、頼るしかないと言うことを知ること、神さまにしか頼れないことを、受け入れていくこと、受け入れるしかない、そこしかない、ことを通して、神さまから与えられていくのではないかと思います。
それは、今日の聖書の御言葉にも、あらわれています。イザヤと言う人が、神さまの言葉を頂いて、神さまから遣わされて、人々に、「打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には解放を告知するために」と語った時、喜べるようなことが具体的にあったのか?打ち砕かれた心が包まれるような、また自由や、解放が実際に、目に見える形で、与えられたのか?というと、全くありませんでした。ですから現実に、そういうことを感じられませんから、喜べません。自由になった、解放されたとは、思えません。だから、どうしてそんなことを言われるのか?と、疑問に思われるでしょう。しかし、神さまは、その喜びが、与えられると語るのは、そのことを全く感じ取ることができないような中にでさえも、神さまが与えて下さる喜び、自由、解放が、もうすでに、そこに与えられているからです。
それは、社会とか、歴史と言う、大きなところにおいてだけでなく、身近なところにおいても、与えられているのではないしょうか?
昨年教会創立140年を迎え、山畑先生ご夫妻をお迎えし、140年を支え、導いて下さった神さまに感謝のひと時が与えられた時のことです。そのために、いろいろな準備をする中で、ハンドベルもすることになっておりました。ところが、9月、10月と、皆さんの体調や、いろんなことが重なって、練習が8月31日の夏のキャンドルコンサート以来、全く出来ない状態になってしまいました。私も内心、これはどうなるかな?と思っておりましたら、そう言う中で、11月23日に、先生ご夫妻と一緒に、夜、お食事の場で、その翌日のハンドベルの話題になりました。口々に「ハンドベルはもうできない~何にも練習できていないから・・・明日はダメですね~」と、できないできない~と、少々下を向きながら、おっしゃられた時に、「それじゃやめましょう」という言葉は、出てきませんでした。ふんふんとうなずきながら「明日決めましょう~明日何とかなりますよ~」と答えている自分がいました。それで翌日、進行される司会の方とも相談しないと思っておりましたら、すっかり忘れてしまっておりまして、司会進行される方は、やるもんだ~と思っておられ、礼拝の後、ハンドベルが出されて、並べられていました。かたや台所におられる方々は、もうやらないつもりでおられたことでしょう。ところが、できない、できない~と思われていた方も、やることになっているという流れが出来てしまっていた結果、前に出られて、本当に、ぶっつけ本番で、素敵なハンドベルが奏でられたと思います。本当に本番はすごかったと思いますし、終わった時には、拍手喝さいでした。後から、その映像を見ましたが、やったできた!と、嬉しそうにされていたことも、うれしくなりました。強いられた神さまの恵みというのは、実は、そういうことなんです。喜べない中で、喜べるように、神さまは、喜びをもうすでに、私たちにとって、喜べないことばかりであっても、与えてくださっているんです。そしてその喜びは、その時だけでなくて、後から追いかけてくる喜びでもあります。しかもこの時、神さまの教会が完全に破壊され、これからどうやっていけばいいのか?全く分からないような中にありました。しかし、神さまが、この約束を与えて下さった後、人々に喜びと希望が与えられ、教会を再建する工事に積極的に参加していくんです。
もちろん苦しみも、悩みもありました。それが2倍あったとおっしゃられることも、その通りです。しかし、神さまは、苦しんで、悩んだことが、2倍あっても、喜びも2倍にしてくださるんです。苦しんだ分、それを同じ喜びを、神さまはちゃんと与えて下さり、苦しんだり、悩んだりしたことを、その2倍の喜びで覆ってくださるんです。そのしるしとして、神さまは、「主が輝きを現わすために植えられた正義の樫の木」木を与え、その木を通して、またその木を見ることによって、もう一度、立ち上がらせてくださる力を与えて下さるんです。
星野富弘さんの、いのちより大切なもの、という本の中に、「小さな花からのメッセージ」と題して、東日本大震災のあった時のことを、こうおっしゃっています。
東日本大震災のあった2011年3月11日、ベッドから車いすに移って庭を眺めていた時だった。ほとんどクッションがない車いすは、いつもながら地震の揺れをもろに感じる。しかし、あの時はいつもと違った。揺れがだんだん激しくなり、車いすごと倒れる恐怖に駆られた。しばらくしてテレビをつけると、家々が次々と津波にのまれていくすさまじい光景と叫び声、CGを駆使した映画の一場面のような映像。「こんなことが本当にあっていいのだろうか」と瞬きを繰り返した。しかしそれは今まさに、同じ日本の中で起きている現実だった。心の奥に積み上げてきたものが、次々となぎ倒されていくのを感じた。以来私も、津波にのみこまれてしまったかのような毎日が続いた。家は壁にひび割れができ、棚の上の物が落ちた程度だったが、あの圧倒的な自然の力を目の当たりにした時、自分が書くものなど、あまりにもちっぽけで何の意味もないように思えて、何も手が付けられなくなってしまった。今までも、創作の生みの苦しみから逃げ出したいと思った時がよくあった。しかし今回は少し違った。細々とつながっていた創作意欲の根元までさらわれてしまったかような気がしたのだ。
そんなある日、津波にさらわれて家の土台しか残っていない、どこかの街の跡がテレビに映っていた。続いてがれきの間に、枝が折れて倒れそうになって曲がっている1本の木が現れた。しかし、その木の折れ曲がった枝先には、なんと花が咲いているではないか。木の周りには、津波で両親や家を失くしたであろう人たちが、まるで希望の光を見つけたように佇んでいた。その情景を見た時、何もできないでいた私に、「もう一度やってみよう」という気持ちが湧き上がって来た。「今まで花を描いてきてよかった。小さな私だけれど、あのように人の心に希望をもたらしてくれる花を、これからも描いていこう」と思った。思えば、枝が折れてボロボロになってしまった期は、24歳の時、大けがをして病院のベットの上で虚ろ(うつろ)に天井板を見つめていた、かつての私自身の姿だった。津波の後に、幹は曲がり枝が折れて残っていた木。弱そうな木だったけれど、弱いから折れないで生き残ったのかもしれない。
もう一度やってみよう、神さまは、何度も何度も倒れたとしても、その度に、立ち上がらせてくださいます。それは、その時だけではなくて、いつまでも続く、永遠の喜び、神さまと共にある、これからもずっと続く喜びが、神さまから与えられているからです。そしてその喜びによって、下を向いていた、その心が上を向くようになり、もう一度やってみよう!という思いへと変えられているのです。
祈りましょう。