2024年1月28日礼拝 説教要旨

わたしと共にいてくださる(ヨハネ8:21~36)

松田聖一牧師

 

この頃雪について、こう思うようになりました。それは、雪は遠くから眺めるものだ~雪は近くにあるものじゃない~それは私自身が感じたことですが、理由があります。去年の2月でしたが、大雪が降りました。金曜日からどんどん雪が積もって、積雪が、この辺りでは40センチくらいになったと思います。辺り一面真っ白になりました。道も、駐車場も、地面もすっぽり雪に覆われました。いつも雪が積もると思い起こされる聖書の言葉があります。「あなたの罪が誹のように赤くても、雪のように白くなる」私たちの神さまを知らないでいる罪、神さまに従おうとしないでいる罪が、どんなにあっても、それを全部雪で覆ってくださるように、真っ白に覆ってくださるということを、その度毎に思いますが・・・しかし、その時は、道から駐車場に入れないほどに雪が積もってしまいましたので、何とか、車が入れるようにと雪かきをしようとしました。ところが、重たい雪のために、駐車場全部の雪かきは到底できません。それでも何台か入れるようにと、一緒に手伝っていただきながら、捨てた雪の上に、どんどん雪を積み重ねていくのですが、そんなに高いところまではなかなかできません。そしてその雪を持って行く場所と言いますか、捨てる場所を探しながらになってしまいました。あまりの雪の多さに、その捨てる場所がないようなことというのは、初めての経験でした。その時、雪かきは大変だということを身に沁みて思いました。

 

それ以降は雪が降っても積もるということはありませんでしたから、その時だけのことでしたが、毎年大雪の降る所では、雪かきは大変な作業だと思います。そして、その雪を捨てる場所がないと、どんどん雪が道路をふさぎ、生活するのにも大変になってきます。そのために、雪捨て場を決めて、そこに捨てるようにとお知らせをする町もあります。でもいくら雪捨て場があるからと言っても、そこに雪を運ばないといけません。雪の量が多ければ多いほど、雪捨て場まで何度も往復しないといけなくなります。でもそもそも雪は、雪なので、どんなに多く積もっても、やがてはとけてなくなるものです。しかし、なくなるものであっても、その時には、捨てないといけないのです。

 

その捨てるという言葉が、イエスさまの言われた「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」の「死ぬ」という言葉の意味でもあるのです。そしてこの「死ぬ」という言葉には、捨てるという意味の他に、脱ぎ捨てるとか、片づけるとか監禁するという非常に強い意味があります。さらには、この言葉は、命令の形ですから、あなたたちは、自分の罪のうちに脱ぎ捨てよ、片づけなさい!捨てなさい!ですから、自分の罪のうちに、あなたたちは脱ぎ捨て、片付けて、捨てなさいということになります。では捨て、脱ぎ捨て、片づけるのは、あなたたちなのかというと、あなたたちを、であれば、あなたたちを、自分の罪のうちに捨てよ、です。でも、あなたたちを、ではなくて、あなたたちは、ですから、捨てるものは、あなたたちではないのです。

 

では誰を捨てるのでしょうか?何を捨てよとイエスさまはおっしゃられるのかというと、それは、「わたしは去っていく」とおっしゃられたイエスさまを捨てよということなのです。そのために、イエスさまは、あなたたちの自分の罪の中に、去っていくのです。そして、この「去っていく」というこの言葉には、死ぬという意味もあります。つまり、イエスさまは、わたしは去っていく、死ぬとおっしゃられるその時、それはイエスさま自らが死ぬということに向かっていった結果、「死ぬことになる」のではなくて、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬということに向かって、イエスさまが、その罪のうちに、去っていくのです。しかし、それはイエスさまがいなくなったということではありません。そうではなくて、あなたたちは自分の罪のうちに、イエスさまを捨てることによって、自分の罪のうちに、イエスさまを迎え、受け入れることになるのです。それによって、イエスさまが、あなたたちの罪のうちに、生きるようになるのです。

 

そういう意味では、捨てるというのは、捨てられたそのところで、捨てたものを受け入れているということがあって初めて、捨てるということになりますね。最初に触れました雪を捨てるということも、そうです。捨てた雪を受け入れてくれる場所があるから、受け入れているという事実があるから、そこに捨てることができます。

 

その捨てたところで、イエスさまがしてくださったこと、それは、あなたたちの罪のうちに、すなわち罪の中で、あなたがたが、イエスさまを捨てたところに立てられている十字架の上で、あなたたちの神さまを知らないで生きてきたこと、神さまを信頼しようとしないで、自分自身を信頼してきた、その生き方を、イエスさまは、全部十字架の死と共に完全に滅ぼし、私たちを、罪のないものとして赦して、受け入れてくださっているのです。そして、死から甦られ、生きておられるイエスさまが、神さまの赦しを、あなたたちがイエスさまを捨てたところ、あなたたちの罪のうちに、与えておられるのです。だからイエスさまを捨てよとおっしゃられるのです。

 

それがイエスさまのおっしゃられた真理なのです。イエスさまはおっしゃいます。「真理はあなたたちを自由にする」と。神さまの赦しは、あなたたちを自由にするのです。自由にするということは、それまで何かに束縛され、何かに捕らわれていたということです。その束縛され、捕らわれていたところから、わたしたちを解き放ってくださるということなのです。

 

国立国会図書館という、日本国内で発行されたすべての出版物が収められている図書館が、国会議事堂のそばにあります。一度だけ、資料を捜しに、国会図書館に行ったことがありました。青春18きっぷを使って、岐阜県の大垣から東京に向かう、夜行の普通列車に乗って、初めて東京に行ったことを思い起こします。車内は満員御礼で、寝たのか寝ていないのか分からないうちに、早朝の4時台に東京駅について、開館時間まで待って一日探し物をしていたことでした。ただそれだけのためでしたが、国会図書館の中に、食堂があって、そこでお昼を食べたことや、一日中マイクロフィルムとにらめっこして、必要なものを捜しまわったこと、疲れましたが、それでも探していたものが見つかった時には、発掘調査ですごいものを見つけたような、あった!という感覚になりました。うれしい瞬間でした。その国会図書館には、「真理がわれらを自由にする」という言葉が銘板として掲げられています。同じ言葉が、1948年、昭和23年に制定された国立国会図書館法という法律の前文にもありますが、その言葉は、「真理はあなたたちを自由にする」という聖書のこの言葉が用いられているのです。この言葉を選んだ羽仁五郎さんという方は、「この言葉が,将来ながくわが国立国会図書館の正面に銘記され,無知によって日本国民が奴隷とされた時代を永久に批判するであろうことを,ぼくは希望する」と述べていますが、おそらく二度と愚かな戦争を起こさないために、真実を知る場所を作ろうと、そう強く思われたからではないかと思いますが、この「真理はあなたたちを自由にする」という言葉に続いて、奴隷という言葉が何度も出てきます。この奴隷と言う言葉は、あまりなじみがないかもしれません。また今は奴隷制度そのものがありませんから、身近ではないと思われるかもしれません。

 

けれども、私たちは私たちで様々なものの奴隷になっているのではないでしょうか?例えば、ラインというものがありますね。それは、誰かに何かを伝えようとする時に、使われるものです。ラインに繋がっている方から、何かのお知らせなどがあると、私はボリュームを大きくしていますので、すごい音がします。その音がすると、誰からかな?と思います。そして、すぐに返事をしないと・・・と思っていますから、出来るだけ早く返事をしようと思いますが、文字を打つとき、本当に遅いです。

 

そういう点では、若い方々は本当に早いですね。手が早いです。片手でスマホを持って、指1本で、ちゃちゃ~とされますが、どうしてそんなに早くできるのとついつい思ってしまいます。でも、本当はすぐに返事しなくても、返事できる時に返事をしたらいいわけです。ところが、着信があると、すぐに返事をしないと・・・とどこかで思ってしまうのは、すぐに返事をしないといけない、という思いに、縛られ、捕らわれているからではないでしょうか?これも1つの奴隷ですね。

 

それは、ラインだけではありません。お金もまたそうです。ある方が、イギリスのスコットランドで仕事をしていた時、休日も返上してあくせく働くある日本人に、こう言いました。「なぜ日本人はそんなに働くんだい?」それに対して、「そりゃ、お金を貯めるためさ」と、答えますと、「なるほど。じゃ、お金を貯めて引退したら何をするんだい?」とまた聞かれたそうです。でもそれに対して、その方は、答えることが出来ませんでした。「自分はお金を貯めて一体何がしたいんだろう?」彼が答えられなかったのはお金を貯めることが自己目的化していたからでした。これも1つの奴隷です。

 

このように私たちは、自分では気づかないけれど、色んなものに縛られています。その理由の一つにあるのは、実は私たちは縛られることが好きだからではないでしょうか?言い換えれば、縛られた方が自由だと思うことがあります。例えば、制服の方が私服より自由だと思うことも同じです。毎朝、今日何を着ていったらいいか迷ってしまうと、私服は、その人にとって、とても不自由なものになります。だから制服がある方が、自由になれるわけです。つまり、自分のことを自分で決められない人にとっては、人に、こうだ!と決めてもらう方が、とても楽ですし、自由になれるのです。

 

ということは、ラインとか、制服か私服かというだけではなくて、私たちは何物にも縛られないで生きることは不可能です。またその反対に、縛ること、束縛しようとすることも、私たちにはあるということではないでしょうか?

 

人を縛ること、束縛すること、それは、人を支配しようとすることでもあるでしょうし、支配ということを使わなくても、人を自分の思い通りさせたい、人が自分の思い通りに動いてほしい、自分の思い通りになってほしいという思いもあると思います。そういう縛ること、束縛することからも、私たちは、縛られ、束縛されているのではないでしょうか?

 

そんな縛られ、縛ることが、わたしたちのうちにありながらも、それでも、真理はあなたたちを自由にすると、イエスさまがおっしゃってくださるのは、わたしたちがわがままで、人に迷惑をかけても、人を傷つけてもいい、というのではなくて、それらも含めた罪から、イエスさまは、解き放って自由にしてくださるのです。

 

その命、生き方、生きる道を私たちにくださる、イエスさまを、神さまがひとりにしてはおかれないというのは、神さまとイエスさまとの関係だけではありません。わたしたちにも同じように、向けられ与えられています。神さまはわたしをひとりにしてはおかれません。「わたしと共にいてくださ」います。それはただ一緒にいるだけではありません。わたしを信頼して、共にいてくださるのです。

 

あるお父さんが、子どもさんに自転車の乗り方を教えた時のことです。補助輪を外した自転車にまたがって、ペダルをこぎ出す前に、お父さんにこう言いました。「いい、お父さん、ちゃんと後ろ持っててね!でないと僕、倒れちゃうんだからね!」お父さんは「わかったよ」と答えると、その子は安心してペダルを漕ぎ出しました。またその子は聞きました。「お父さん、後ろ持ってる?」「うん、持ってるよ」――こう声をかけ続けながらお父さんは、その子のそばに一緒にいました。そのうちに、お父さんは、そっと自転車から手を離したんですね。でも、その子は一人で自転車を漕いでいました。お父さんは、自転車からその手を離しました。でも、その子は、お父さんが一緒にいてくれて、自転車の後ろを持っていてくれていると、信じていました。だからお父さんが手を離しても、自分でペダルをこいで、自由に自転車に乗ることができていました。

 

私たちと神さまの関係も同じです。神さまが一緒にいてくださって、ちゃんと支えていてくださいます。私たちを、縛る方法ではなくて、私たちを信じて、しっかりと支えてくださいます。だからこそ、私たちは安心して最初のペダルを踏み込むことができ、安心して自転車を漕ぐことができているのです。その時こけたらいけないから~と自転車から、手を離さなかったら、その子は、自転車を自由に漕ぐことはできなくなりますね。神さまが共にいてくださるというのは、そういうことではなくて、手を離してもなお、私たちを信じて下さるということです。

説教要旨(1月28日)