2023年9月3日礼拝 説教要旨

あなたは幸いだ(ルカ14:7~14)

松田聖一牧師

 

ピアニストのお一人で、亡くなられて久しい、クラウディオアラウさんという方がおられました。世界的に著名な方ですが、ご本人はインタビューが嫌いでなかなか受けてはくれなかったそうですが、最期の日本公演のために来日された時、インタビューに応じられ、その中で若い演奏家の方々にひと言ありますか?という質問に、こんなことを答えておられました。

 

演奏家は虚栄心から身を守らなくてはなりません。演奏家には成功をおさめ喝さいを受けたいという気持ちがあるものです。しかしそれは時として、音楽の本質から逸脱する危険性があります。必要以上の速いテンポで演奏したり、ヴィルトゥオーゾ的な演奏で、喝さいを受けようとする人がいますが、音楽を正しく伝えようとすることをしないで、名を売るようなことはいけません。若い演奏家には特にこのことを忠告しておきたいと思います。

 

演奏家には成功を収め、喝さいを受けたいという気持ちがあるものです・・・本質的なところを、はっきりとおっしゃっておられるように思います。喝采を受けたい・・・それは演奏家だけのことではないですね。誰もがどこかで思っている気持ちではないでしょうか?それはそうですね。褒められたらうれしいですし、喝さいを受けたら、いい気持になります。けれども、それのみを求めていくと、自分の名を売る事ばかりになり、本当に伝えなければならないこと、本当に必要で大切なことから離れていってしまうのではないでしょうか?

 

ではどうしてそうなってしまうのか?それは誰もが、自分を認めてほしい、人から認められたい、その立場を自分のものにしたい、という思いがあるからです。もちろん、そう思うこと、願うことが、すべてダメだということではありません。私たちが、いろいろなところで何かをする時には、人から認めてもらわないと物事が動いて行かないということがありますし、自分自身の立場がしっかりと守られた形にならないと、不安になります。例えば、それまで会社などでバリバリやっておられた方が、定年と共に退職をされると、それまであった肩書とか、立場が、一度に何もかもなくなってしまいます。それとの関連で、ある方が、退職に際して、こんなことをおっしゃっていました。「退職するとね~何にもなくなる~。」「退職するまでは、退職したら、あれもしたい、これもしたいと思っていましたので、退職した直後は毎日日曜日がうれしく思ったのですが、3カ月たつと、することがなくなってしまう・・何をしていいか分からなくなるんです~」

することがなくなってしまう・・・自分が、何をしたらいいのか?というのも、周りから認められ、受け入れてもらえる自分の立場、あるいは居場所を求めていることの裏返しではないでしょうか?

 

それが「招待を受けた客が上席を選ぶ様子」に出ているのです。というのは、招待を受けた客が、上席を選ぶ様子とある、この言葉は、招待を受けた客が、その上席という立場、椅子にしがみついているということなのです。しかし、そこには矛盾があります。なぜかというと、そもそも上席というのは、相手の上司、上役という立場、椅子のことです。招待を受けた側である自分たちの上司、上役ではありません。ですから、その立場や椅子を招待された側が選ぶということはできません。それなのに、その相手の上席を、招待を受けた側の方々が、選ぼうとし、その立場、椅子にしがみつこうとした、姿が、上席を選ぶ様子ということなのです。

 

そして、この上席を選ぶということは、選ぼうとするその本人だけのことではありません。上席を選ぼうとする、その人を取り囲む周りの人も、上席を選ぼうとする人を作り上げてしまうこともあるのではないでしょうか?

 

ヘロデ王という王さまがいました。お父さんも、その息子たちもヘロデ王と呼ばれていましたが、使徒言行録というところにも息子さんのヘロデ王が出てきます。そのヘロデ王が、あるところで演説をしようとしたとき、そこにいた人々がヘロデ王の演説を、神さまの声だと絶賛するのです。ところが、その時、ヘロデ王は神さまから命を取られてしまうのです。それはヘロデ王自身が神さまにとって代わる立場に立とうとしたことと、そのところに人々がヘロデ王を担ぎ出したからです。その瞬間に、王は打たれ、その命が終わるのです。こんな出来事になったのは、王だけの問題ではありません。王を神さまと同じところに、担ぎだそうとした人々の問題でもあるのです。

 

つまり上席を選ぶ様子には、実際に選ぼうとした人もいれば、その上席に担ぎ上げようとした人もいるということです。けれども、上席を選ぶ、しがみつくということ以前に、そもそも招待を受けたということ自身が、素晴らしいことではないでしょうか?婚宴に、どんなに自分から行きたいと思っても、どうぞいらっしゃいと、招待を受けなかったら、そこには行けません。そういう意味で、お客となることができたこと、いらっしゃいと招かれたということは、本当に素晴らしいお恵みです。それなのに、それで満足できなくて、上席を選ぼう、しがみつこうとした様子を見て、イエスさまは、彼らに(8)婚宴に招待されたら、上席についてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、「この方に席を譲ってください」と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。

 

とおっしゃられるのは、婚宴に招待されたら、上席を選ぶことではなくて、その婚宴に招かれたことを、そのまま受け取ること、とにかくどこででもいい、招かれたところで、その席に座ることです。自分から上席にしがみつかなくてもいいのです。それでも、上席ということしか頭になくて、その席に着くことができたとしても、『この方に席を譲って下さい』と必ず言われるのです。その人にとって、それは思いがけないことであるしょうし、納得しがたいことでもあるかもしれません。そして恥をかいて末席に着くことも、またその末席ということに対しても、いろんな思いを抱くかもしれません。招かれたことよりも、末席ということに思いがいってしまうかもしれません。そういうことがあっても、ずっと末席にいるわけではなくて、招かれたその場所で、末席から「さあ、もっと上席に進んでください」と言われることが、必ず来るのです。

 

渡辺和子さんというシスターの書かれた本の中に、「置かれた場所で咲きなさい」という本があります。その本の中に、こんな言葉があります。

 

置かれたところこそが今のあなたの居場所なのです。咲けない時は、根を下へ下へと降ろしましょう。人はどんな場所でも、幸せを見つけることができる。結婚しても、就職しても、子育てをしても「こんなはずじゃなかった」と思うことが、次から次に出てきます。そんな時にも、その状況の中で「咲く」努力をしてほしいのです。どうしても、咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には、無理に咲かなくてもいい。その代わりに根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。思い通りにいかない時こそ、自分らしさを、輝かせる道がある。時間の使い方は、そのままいのちの使い方なのですよ。

 

人はどんな場所でも、幸せを見つけることができる・・・たとい思い通りにはならないこと、こんなはずじゃなかったと思ってしまうことがあっても、招かれたことに気づくことができなくても、そこで根を下へ降ろして、根を張ることができるのです。そして根を張ったらそれで終わりかというと、それで終わりではありません。「むしろ末席に行って座りなさい」と言われ末席に行ったそのところで、「さあ、もっと上席に進んでください」と、あなたを招いた人が、必ず言ってくれます。末席から、招かれた上席、進んでくださいと言われたその上席で、あなたを招いた方の前で、より大きく、より美しい花が咲くのです。

 

その招きの中で、イエスさまは、招く側と招かれる側との関係について、友人、兄弟、親類、近所の金持ちという方々を挙げて、その方々を「呼んではならない」とおっしゃいます。その理由について「その人たちも、あなたを招いてお返しをするかもしれないからである」ということですが、この中で、兄弟、親類、近所の金持ちといった方々には、それぞれに「あなたの」という言葉があるのです。あなたの、と言う意味は、あなたという一人の人の、所有格ですから、兄弟、親類、近所の金持ちといった方々は、あなたとの関係のある方々いうことと、それ以上に、「あなたの」所有物と言いますか、一人の人を、一人の人格を持った人でありながら、あなたの人、という一人の人をどこかで所有しようとして、どこかで縛っているということが、この「あなたの」という言葉を通して見えてくるのです。

 

具体的に、あなたの、というヒモが付いていますと、つけられたその人は、あなたの、ということが重く感じてしまっているかもしれませんし、自分の思い通りに、思いっきりやりたい!それこそ、置かれた場所で花を咲かせたい!とどんなに思っても、どこかで縛られているような、不自由さを感じていることもあるのではないでしょうか?

 

そういう関係になると、招く側と招かれる側の関係の中で、招いてくれたから、お返しをするということが必ずあるとおっしゃられるのは、それは自然なことだと思います。招かれたその人にとっては、自分たちはいつも、その人にとっての「あなたの」もの、あなたの所有ということを感じていますから、そういう関係の方から、招待されたら、何かしないといけない、お返しをしないといけないということが、ついてくるのではないでしょうか?イエスさまは、そういうギブアンドテイク的な関係を求めておられるのではなくて、あなたの、ということから、解き放って、その人がその人らしく、神さまと共に、イエスさまと共に歩めるように、導いてくださるのです。そのために、その導きの中で出会う、わたしといろいろな方々との関係の中に、「あなたの」ということを入れない関係へと新しく導いてくださるのです。

 

そういう意味で、兄弟、親類、近所の金持ちには、それぞれに「あなたの」がついているのに対して、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人には、「あなたの」と言う言葉はないのです。あなたの、と言う言葉がないということは、この方々は、あなたの手を離れている人たちということになります。でも実際に出会い、関わるという時には、貧しい人、すなわち、ちぢこまり、うずくまり、圧迫され、誰かの助けに頼らなければ生きていけない、それこそ神さまの助けなくしては生きてはいけない方ですし、体、足の不自由な人というのは、毎日の生活の中では、誰かの助けが必ずいります。具体的に助ける時、本当に、体を使って、助けていきますから、非常に密接なつながりになります。そして目の見えない人との関わりもそうです。手とり足取りになることもあるでしょう。声をかけ続けます。そういう関わりは、非常に強い繋がりになります。でも、それらの方々は、あなたの、もの、あなたの、所有、あなたのしばる、人達ではないということなのです。一時的には、本当に強いつながりにはなっても、それによって、あなたの、所有する人にはなれないのです。べったりにはなれないです。それは当然です。と同時に、一時は、本当に強い繋がりであっても、いつか、どこかの時点では、あなたの手から離れていくということも言えるのではないでしょうか?

 

もちろん、離れたからと言って、関係がなくなるということではなくて、私たちに与えられた関係に置き替えれば、お互いに祈りをもって支えていきますね。お互いに祈り合える関係はずっと続きます。なぜならば、それぞれ、お互いに、同じ招待を受け、招かれているからです。それは神さまが与えて、招いてくださった神さまの恵みの、赦しの宴会、赦しの場所への招きです。それは、たといあなたの手から離れたとしても、神さまのもとに、そこにお互いが、招かれているのです。その時、お互いの手が、お互いの手から離れていますから、「その人たちはお返しができません」お返しはできない関係になっていても、イエスさまは「あなたは幸いだ」とおっしゃってくださるのは、あなたの手から離れても、イエスさまと共に、その方々も、神さまの赦しの中にあること、それまで握っていたつもりだった、自分自身から離れても、神さまの手の中にあること、神さまがしっかりと握っていてくださること、神さまがしっかりと赦して、その赦しの手の中に招いて、一緒にいてくださることへと、あなたの手から離れたことによって、また新しく受け取れる幸いがあることに気づかせてくださるのです。

 

かつて、教会学校や、中高生会で一緒に礼拝をささげ、キャンプなどをして楽しく過ごした子どもたちは、今全国に遣わされ、散らされています。いろいろな出会いを思い起こしますが、その中の一人の子は、学校から帰るとき、必ず教会に立ち寄りました。家に帰る前に、教会に寄って、なかなか家に帰らないのです。ある時も学校帰りに、教会に寄ってくれました。玄関から入るなり、浮かない顔をしているのです。「はあ~面白くない!」ため息をつくのです。「どうしたの?」と聞くと、学校であった、彼にとっては面白くないこと、をあれこれ話してくれるのです。そのうちに、しかめっ面がだんだんといい顔になってきて、最後に聖書を読んで、一緒にお祈りをしてまたね~と別れるということが良くありました。別の子は、ピンチになると、飛んで来ました。そして一緒に祈って、また送り出していきました。そんな子たちが、学業を終え、それぞれのところに飛び立っていきましたが、そういう時というのは、送り出すわけですから、今までのように会う機会がなくなります。少し寂しい気持ちになります。そんな祈って、送り出していきますから、同じ顔触れで、一緒に顔を合わせるということは、これからあるのかどうか?というと、分かりません。でも一時であっても、教会に神さまが招いて下さり、一緒に聖書を学び、楽しく過ごした、そのひと時を通して、神さまのお恵み、神さまが招いて下さったことが、残り続けていると信じています。そしてそれぞれのところに神さまが遣わしてくださって、その遣わされたところ、神さまが招いてくださったところで、花を咲かせて下さるんだ、ということを思うと、これでいいんだと思います。いつまでも、一緒にいることも、これもまた神さまのお導きです。同時に、自分の手から離れていくことも、これもまた神さまが、与えて下さったところで、与えて下さる導きがあり、お恵みがあることへと、お委ねできるお恵みがあります。そこで神さまが、本当に守ってくださり、お恵みを与えて下さっています。そのことを信じて送り出すことができること、委ねることができることは、何と幸いなことではないでしょうか?

 

そういう意味で、イエスさまが出会った、招待を受ける客、そして譬えの中に出て来る、婚宴に招待を受けるというのは、何よりも誰からの招待であるか?誰が招いて下さっていたのか?ということを確認しましょう。この招待、招きは、神さまからの招待です。神さまからの招きです。その招きの中で、人として関わりながら、しかしそれはずっと続くものではなくて、最終的には、関わったその人の手を離れて、神さまとその人との関係の中で、神さまが本当によくして下さる事、その時、そのことを神さまの方が一番知っていて下さいます。

 

「球根の中には」という讃美歌がありますね。その讃美歌の歌詞の最後には、こんな言葉があります。「その日、その時を、ただ神が知る」神さまが知っていて下さいます。私は知らなくてもいいのです。私が知らなくても、知らないところで、ただ神さまが知っていて下さることを、信じて、祈っていけることが、どんなに幸いなことでしょうか。あなたは幸いだ!それは神さまにお任せすることを通しても与えられる幸いでもあります。その幸いは、自分の手に握りしめておくことではなくて、神さまに任せていくことで与えられていきます。

説教要旨(9月3日)