2023年7月16日礼拝 説教要旨

赦されること(ルカ7:36~50)

松田聖一牧師

 

子どもが孤独(ひとり)でいる時間(とき)という本があります。エリーズボールディングと言う方の書かれた本ですが、その本の「はじめに」の中で、この本について次のように書かれています。

 

わたしたちは、ふつう子どもと孤独を結び付けて考えようとはしません。孤独と聞いてまず感じるのが淋しさであり、孤独の意味するものが身寄りのないこと、仲間がいないこと、人から離れて孤立していることであってみれば、わたしたちは、出来る事なら、子どもをそのような状態に置きたくないと感じます。ところが、この小さな書物では、著者は、ひとりでいることに別の角度から光をあてて、その積極的な意味を探ります。そして大人同様、子どもにとっても、生活のどこかに「ひとりでいるとき」を持つことが必要だ、と説くのです。それは、自由であること、内へ向かうこと、自分自身を発見することにために欠かせない条件であり、人間にはひとりでいるときにしか起こらない、ある種の成長があるのだ、と。

 

つまり、ひとりでいること、とは孤独や、独りぼっちといった、否定的なことではなくて、むしろ、ひとりでいるときにしか起こらない、ある種の成長が起こるという、積極的な意味も持つということです。でも、どうしてそう言えるのか?というと、そもそも私という一人の人間は、私しかいませんし、私以外の私はいないということであるからです。例えば、自分の将来のことについて、考える時を例にあげましょう。私の将来のことは、誰のことはというと、もちろん私のこれからのことです。私のことです。だから、私以外の人は、そこに立ち入ることはできません。自分の人生は、自分の人生、私の人生ですから、他の人が代わってあげることはできませんし、私に代わって決められるものではありません。また、他の人が、私の人生を決めてはいけないものです。その中に、他の人が立ち入ってしまったら、自分が自分でなくなってしまいます。自分の人生、自分のこれからを、他の人に決められてしまったら、自分自身が大きく揺さぶられることでしょう。

 

だからこそ、ひとりでいるときが必要です。ひとりでいること、ひとりになることで、自分がどういうものであり、どこに向かっているのか、どこに向かって生きるのか?を知るかけがえのないチャンスになるのです。もちろん普段は、仕事などでいろんな方と一緒にしながら、またその中に属しながら、その中の一員になっています。でもそういういろんな方々と一緒にいる時の、自分だけが、自分ではなくて、そこから離れて、ひとりになることを選び、そこに身を置くことも、こどもであれ、大人であれ、時には必要ではないでしょうか?そのときを通して、自分の考えをまとめたり、自分自身で考えて、行動し始めるようになっていきます。その時、それまでいた集団から一旦離れます。いつも何から何まで一緒にいたところから、いい意味で距離を取っていくということです。

 

その視点で、ファリサイ派のある人は、大変思い切った決断と行動をしているのです。というのは、「あるファリサイ派の人が一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた」とある、この一人のファリサイ派の行動は、ファリサイ派の人々の中で、ある人が、イエスさまと一緒に食事をしたいと願ったので、イエスさまはハイ分かったといって、彼の家に入り、食事の席に着かれたということだけか?というと、見た目はそうかもしれませんが、実はとんでもなく挑戦的な決断と行動です。

 

なぜがというと、彼一人のこの行動は、イエスさまを敵対視していた、それまでいたファリサイ派の集団から離れて、違う行動をとったというだけではなくて、ファリサイ派の他の方々からは、独りだけ勝手に、イエスさまと食事をしようとしたということで、破門に近いこと、仲間ではなくて、敵だ!と評価されてしまうからです。そういうことになると彼も分かっていたでしょう。もう同じファリサイ派の人々の中には、戻ることはできないという覚悟もあったかもしれません。それはこの一人のファリサイ派の人にとって、それまで共にいた人たちを失うという、喪失体験にもなるのではないでしょうか?

 

そうであっても、彼は、イエスさまと一緒に食事をしてほしい!と願い、乞い求めるのは、彼自身が、自分の土台になるものをイエスさまに求めていたからではないでしょうか?だから単独行動になるのです。その彼の願いに、イエスさまは答えて、一緒に食事の席に着かれたのです。

 

それは、一人の罪深い女もそうです。彼女は「イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持ってきて、後ろからイエスの足元に近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」という行動は、彼女自身が、イエスさまに近寄りたい、イエスさまのそばにいたい!という一途な思いからの行動です。でも、この時、彼女はファリサイ派のこの人から、この食事の席に招かれていないのです。それなのに、彼女は、ファリサイ派の家の中に入り、自分のために、香油の入った石膏の壺、これはローマングラスと呼ばれる、大変高価な壺に、これまた更に高価な香油、ミルラーと呼ばれる香料、香水を運んで持って来るのです。そしてイエスさまに近寄り、「泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」のですから、イエスさまを食事に招いたこのファリサイ派の人にとっては、とんでもない行動をしたと、なるでしょう。それでも彼女は、いろんなことを思われようとも、何を言われようとも、イエスさまに近づきたかったのです。

 

ただその時、彼女は、イエスさまの正面からではなくて、「後ろから」足元に近寄っていくのです。なぜ後ろからなのか?なぜ足元になのかというと、この時イエスさまは寝そべって、肘をついて食事をしていますから、イエスさまの背中側から近寄るということになります。背中側から、ということは、イエスさまの顔を見ることはできません。そして足元に近寄り、泣きながらその足を涙で濡らし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスさまの足に接吻して香油を塗った時にも、イエスさまの足は伸びた状態ですから、顔を直接見た格好にはなりません。

 

と言う意味は何かというと、彼女には、後ろめたい何かがあったからではないでしょうか?イエスさまの顔を見られない何か、同時に、自分もイエスさまから見られないようにしたいという何かが、彼女の中にあったのです。それは彼女だけのことではないですね。誰かとの関係の中で、後ろめたい何かがあると、顔をしっかりと見ることはできませんし、目を合わすことはできなくなりますね。だから彼女は、イエスさまの顔を見ないように、そして自分自身も見られないような行動をとったのではないでしょうか?

 

しかし、そうであってもイエスさまに近寄り、涙でぬらしたイエスさまの足を、自分の髪の毛でぬぐい、イエスさまの足に接吻して香油を塗ったその時、彼女自身が用いた石膏の壺も、香料も、彼女が手に入れ、彼女自身のために、自分のために使おうとしていたものでありながら、イエスさまのもとに持ってきた時、それはイエスさまのために用いられるものとなっているのです。理由があります。それはイエスさまのところに石膏の壺を持ってきた、の中にある「持ってきた」と言う言葉には、自分のために手に入れたと言う意味もあるのです。つまり、石膏の壺も、香料も、最初は、自分のために手に入れたものです。しかしそれをイエスさまのところに持ってきたとき、イエスさまのために用いられるものに変わっているのです。また涙も、彼女の目から出た彼女の涙であり、ぬぐった髪の毛も、彼女の髪の毛です。しかしそれらが、イエスさまの足をぬぐう時には、その涙も、髪の毛も、イエスさまのために用いられるものとなっていくのです。言い換えれば、壺も、香料も、涙も、髪の毛も、そしてそのために使う手や足といった、今彼女にあるもの、持っているものが、イエスさまのためにささげられたものとなっていくのです。

 

そこからささげるということに繋がるのです。礼拝の中で、献金の時というのがありますね。それは教会の入場料でも、講演料でもありません。神さまから与えられ、今持てるものを、神さまのために、使っていただきたいという思いで、神さまにお返しすることです。それは礼拝の中でのことだけではなくて、私たちの生き方、生活すべてにおいて同じです。なぜならば、神さまのためにささげ、お返しするのは、自分に与えられたものでありながらも、同時に、それらのものはすべて、神さまのものだからです。その神さまのものを、神さまは私たちの必要に応じて、必要な分、与えて下さっておられ、その中から、取り分けて、持てるものを神さまの御用のために、どうぞお使いくださいとささげるのが、ささげるということの基本です。それが具体的に献金と言う形で現わされていくのです。

 

彼女がイエスさまに対してしたこともそうです。彼女にないものではなくて、持てるものをイエスさまに差し出したのでした。でもその時、イエスさまを招待したファリサイ派の人は、これを見て、とありますが、彼女を見てとか、彼女がイエスさまに対してささげたことを見てではなくて、彼が見ているのは「これ」なんです。ということは、彼女がイエスさまのためにささげた、この行為と、そこにあった彼女の思いも、彼にとっては、これ、ですから、眼中にないということでしょうか。むしろ、『この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに』と思った、言ったではなくて、思ったこの一人のファリサイ派にとっては、私が、招待したイエスさまとの食事なのに・・・という思いと、イエスさまが、罪深い彼女をどうして受け入れているのか?受け入れたらいけないでしょう!という思いが、彼の中にはあるのではないでしょうか?さらには、食事の席に割って入るようなことをした彼女を、自分以上に大切にしているように受けとっていたのではないでしょうか?見方を変えれば、私が、イエスさまを食事に招待したのだから、もっと私を見てほしい!彼女以上に、私を大切に受け入れてほしいという思いもあるのではないでしょうか?

 

ではイエスさまは、彼と彼女を比較しているのか?というと、いいえそんなことはありません。彼を、一人の人として受け入れておられるのです。それがこの呼びかけにあります。(40)「シモン、あなたに言いたいことがある」イエスさまは、一人の律法学者を、律法学者としてではなくて、シモンという一人の人として、受け入れ、その名前を呼び、そのシモンに、「あなた」と呼んでおられるのです。つまり、イエスさまにとって、シモンは、私にとってのあなたになり、イエスさまにとってかけがえのないあなたとなっているのです。そのあなたであるシモンを、受け入れているのです。そして「あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言ったことに続くイエスさまは、500デナリオンと、50デナリオン借りた借金を、金貸しから帳消しにしてもらった譬えを引き合いに、「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶をしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。」とおっしゃるのは、彼女がイエスさまに対してしたことと、シモンとを比べておられるのではなくて、彼女が、人と比べるということからも離れて、自分からイエスさまにさせていただきたいんだというその行為、涙で足をぬらしてくれたこと、髪の毛でぬぐってくれたこと、足に接吻してやまなかったという、彼女の、イエスさまへの持てる物を精一杯に、イエスさまのために使っていただきたいと、差し出したことが、どんなにイエスさまにとって、大きなことであったかということを、示しているのではないでしょうか?

 

確かにシモンの家に、彼女がした一連のことは、食事の席に割って入るようにしたことです。その一方でシモンが、イエスさまに対して、足を洗う水をくれなかったこと、接吻の挨拶をしなかったこと、という、彼がしなかったことも確かに、その通りです。けれども、それをしなかったから、シモンはだめだとか、この罪深い女と比べて、何もしていないということを言っている言葉が、何一つないという意味は、イエスさまが、シモンも、そして彼女も受け入れ、赦して下さっているからです。しかもその赦しは、自分で自分を判断し、自分と他人とを比べるということを越えた赦しだからです。その時、自分でこれだけのことをしたのだから、他の人と比べて、自分がしたことを赦しの条件にするものではなくて、ただイエスさまが、与えて下さった、赦しをただ受け取るだけです。その時、自分が、どれだけ多く赦されたか、どれだけ多く愛されたかを、自分の物差しで見る必要はありません。人と比べる必要もありません。イエスさまが、わたしに示した愛の大きさでわかるとおっしゃる時、多いか、少ないかということで、比べているのではなくて、他の人と比べることからも、離れられるように、そして一人のあなたと、わたしとの関係の中で、イエスさまは、ただ「あなたの罪は赦された」赦しを与えてくださるお方であるのです。

 

ある一人の方が、生まれてから40日目に小児麻痺となりました。それから右足に麻痺が残りました。物心ついてから、人とすれ違った時に、いやだったことがありました。それは自分の歩き方を見られること、それでいじめられるんじゃないか、という大きな恐れがありました。だから人とすれ違う度に、その人が、自分を振り返るのではないか?自分の歩く姿を見て、いろいろ思うのではないか?そのことに全神経を集中させていました。そして振り向かない人には、この人はいい人だと、心の中で、賛辞を送り、振り向かれると、曲がらくてもいい曲がり角を曲がってしまうのです。夢の中で、自分の歩き方でいじめた友達に対して、自分がスーパーマンになってやっつけていく、そんな夢も見る毎日の中で、なぜ自分だけが、こんなに体のことで悩まなければならないのか???将来、自分に職場が与えられるのか?結婚できるのか?いつも不安でした。深い劣等感がありました。同時に、バランスをとるためか、驚くほどの優越感も持ち合わせて、心の中で、それがシーソーをするので、毎日緊張の連続でした。いつも人の目を気にして、人と比べて、正直に自分の思いをしゃべることができずに、相手に気にいてもらえそうなことばかり、しゃべっていました。20歳前後の頃は、窒息状態のようになっていました。そんな中で、教会に通うようになったのですが、そこで語られる聖書の言葉「人間は罪人である」ということが、どうしても分かりませんでした。こんなに立派な私が、と本気で思っていましたから、なぜ罪人なのかと、猛反発しました。そんなある日、道を歩いていて、はっとさせられました。それは1人の人とすれ違った時、ふと振り返っている自分に気づかされたのです。小さい頃から、「どうか誰も振り向かないでほしい」と願っていたのに、その同じ自分が、無遠慮に振り返っている!どこか歩き方が違っていたのでしょう。その人を振り返った自分に気づかされた時、自分の心の冷たさ、傲慢さ、罪というものを、いやおうなしに向き合わされ、認めずにはおれなくなりました。その時から、自分の救いを真剣に考えるようになりました。小児麻痺という暗いハンディが、たましいの明るい夜明けへと導くものになりました。「自分は正しい」とずっと思い続けてきたことが、「自分は間違っている」ということに目覚めたのです。その時、この私の罪のために、イエスさまが十字架にかかり、全部背負い、赦してくださったことへと導かれたのでした。

 

多く赦されたかどうか、多い少ないを、自分と誰かとを比べるものではなくて、またそれを自分で判断するのではなくて、どういう行為であっても、そこにどんな動機があったとしても、自分は間違っていたということに気づかされた時、私を、もうすでに赦してくださっていたことを、ただイエスさまから受け取るだけです。その時、自分自身が、イエスさまから本当に多くの罪を赦されたことが分かり始めてくるのです。

説教要旨(7月16日)