2023年7月9日礼拝 説教要旨

もう泣かなくともよい(ルカ7:11~17)

松田聖一牧師

 

ある老人ホームには、人に寄り添う犬がいます。文福(ぶんぷく)という名前で、みんなに可愛がられていました。一人の97歳の方は、本当にその犬をかわいがっていました。膝に乗せたり、何をする時にも、文福は一緒でした。その方が弱られても、ずっと一緒にいました。顔をなめたり、ひざに乗ったりしながら、ずっと一緒でした。ご本人はもとより、ご家族も、どんなにか力づけられたことでしょうか。そしてその犬は、本当にかわいがられ、大切にされたことで、ますますその方に寄り添っていきました。そんな犬が、その人に寄り添うことができるのは、なぜかということについて、次のように語られています。

 

人に愛されることを知っている犬は人の心に寄り添い、癒す力を発揮できるようになるのです。飼い主さんから伝達された「辛い、悲しい」という感情を、飼い主さんとのふれあうことで分泌される「オキシトシン」で解消したい、そして自分が飼い主さんのぬくもりを感じることで満たされた気持ちが、飼い主さんの心に伝わり、飼い主さんも幸せな気持ちになれるよう、愛犬は優しく寄り添ってくるのではないでしょうか。

 

つまり、寄り添うことができるのは、ただ寄り添いたいと思うからだけではなくて、寄り添いたいと感じる犬が、寄り添いたいと感じるその人から、それまでずっと愛されてきた、大切にされてきたことを知っているからだということなのです。それはその人と犬の関係ではありません。私たちのお互いの関係も同じです。誰かに寄り添いたい、何もできないけれど、ただ寄り添っていこうとする時、寄り添おうとするその人から、あるいはそのご家族も含めてからかもしれない、自分自身が大切にしてもらったということが、あるからではないでしょうか?だからその人に、何か悲しい出来事があった時には、その人から本当に大切にしていただいて、助けていただいたからこそ、その人に、何かさせていただきたいという思いに、なっていくように思います。

 

それは、ナインという町で、一人息子さんを亡くされ、悲しんでいたこのやもめに付き添っていた大勢の町の人々の姿でもあります。この時、町の人々が息子を亡くした母親に付き添っていたのは、ただ付き添いたいからという思いだけではなく、その背後には、この町の人々が、やもめであるこの母親から、あるいはこの亡くなった息子さんからも、愛され、大切にされてきたから、ということがあったからではないでしょうか?だからこそ彼女が、大切な一人息子さんを亡くされた時、彼女に、町の人々は付き添い、寄り添っていたのです。それは息子さんの納められた棺(ひつぎ)が担ぎ出されようとする、その時もずっと寄り添い続けているのです。

 

それはそばにずっといるという物理的なことだけではなくて、彼女の悲しみにも、また一人息子を亡くされ、ご主人にも先立たれて、本当に一人になってしまったということにも、そして、彼女のこれからの生活のことにも、付き添っているのです。この時、何ができるか?何をしたらいいか?それは召されたその只中では、お互いに、描くことができないでいたかもしれません。その余裕もないかもしれません。また、付き添ったことで息子さんが元気になるわけではありません。そういう意味では、付き添っていても、母親に対しても、亡くなられた息子さんに対しても、何もできないと言ってもいいでしょう。それでもなお付き添い、寄り添う時、何もできない自分自身、何も助けてあげられない自分自身にも、向き合うことになるのではないでしょうか?

 

何年か前に、あるお母さんの息子さんが、意識不明の状態で病院に運び込まれた時のことです。知らせをいただいて、病院の集中治療室に駆けつけた時、息子さんは、人工呼吸器に繋がれていました。もちろん意識はありません。いつどうなるか分からない中にありました。そこで祈るのですが、祈ったらむくっと起き上がるわけではありません。何か具体的に、出来る事は何もありません。でもその中で、1つの慰めとなったことがありました。それは、聖餐式をしてほしいということで、ぶどうジュースをつけたパンを、寝ている彼の口元に付けた時に、祈った祈りを通して、イエスさまの赦し、イエスさまがこの子をしっかりと守り、支え、神さまの手の中で守られていることを信じていけるんだ、いや信じるしかない、ということを、改めて受け取らせていただいたのでした。

 

その時の祈りが、毎回守られる聖餐式での祈りです。「私たちの主イエス・キリストのからだと、その尊い血とは、信仰によって、あなたがたを強め、守り、永遠のいのちに至らせてくださいます。」神さまが「あなたがたを強め、守り、永遠のいのち」神さまと共にある命に「至らせてくださ」ることを、信じていいんだということ、神さまがどんな状態、どんな時にもいつも付き添い、いつも共にいてくださるということを、信じられるようにしてくださるお恵みが、神さまから与えられるという祈りであるのです。

 

その祈りを通して、与えられる約束が、私たちには何もできない、なすすべがなくても、そんな私たちに代わって、神さまは、一人のその命をしっかりと支え、お守りくださり、そしてその命に、神さまであるイエスさまはずっと寄り添い続けていてくださるのです。

 

その姿が、イエスさまの、この息子のひつぎが担ぎ出されようとしていたその時、そのひつぎに「近づいて手を触れられる」ということなのです。というのは、手を触れられるという言葉は、ただ単にひつぎにイエスさまが手で触ってくださったということではなくて、そのひつぎに手をくっつけ、ひつぎをつかみ、その手を、ひつぎから離そうとしないのです。それはそのひつぎが町の外という、亡くなられた方が葬られる墓地に運び出すこと、またこの一人の若者、一人息子が、たった一人でそこに向かうことを阻止しようとしただけではなくて、イエスさまは、その命を、イエスさまご自身の手の中に、しっかりとつなぎとめようとしておられるのです。命に寄り添い、命と共にあり続けようとして、イエスさまは、棺に手を触れられるのです。

 

その時、ひつぎを担いでいる人たちは「立ち止まった」のですが、その意味は、ひつぎを担いだまま、そこに立ち止まっただけではなくて、彼らがもうこれ以上、息子をおさめたひつぎを背負う必要がないようにしてくださるんです。旧約聖書のイザヤ書46章4節の御言葉にこうあります。「あなたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう。」「なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って救い出そう」つまり、この一人の息子を、神さまが背負い、運び、背負って救い出そうとしておられるからこそ、その約束を、イエスさまは実現するために、それまで死と葬りのために運ばれようとしていた、この息子の命を、死から神さまと共にある命へと運び出そうとしておられるのです。

 

たとい、今もう死んでしまった、亡くなってしまっている状態の命であったとしても、その一人の命は、神さまが背負い、救い出そうとしておられる命であり続けるのです。なぜならば、1人のその命は、その1人の息子の命でありながら、またその母親の一人息子の命でありながらも、同時にその命は、神さまのものであり、神さまから与えられた命であり続けているからです。その命は、神さまからの喜びの贈り物、喜びそのものであるとも言えるでしょう。

 

私たちもそうです。神さまの喜びそのものが、私たちです。ですからお互いに、神さまの喜びそのものなのですから、お互いに、大いに喜び合えるのです。お互いに、神さまの喜びそのものだということを認め合って、受け入れ合っていけるのです。その喜びを神さまは。この母親にも与えて下さっているんです。

 

でも彼女は、一人息子を失った中にいますから、そのことに気づくことができないでいたことでしょう。そんな母親を見て、イエスさまは「憐れに思われる」んです。この憐れに思うという言葉は、はらわたが動く、内臓が動くという意味です。はらわたが動く、内臓が動くというのは、すごいことです。

 

そのことの関連で、はらわたを腸に置きかえてみましょう。こんな出来事がありました。それは2014年のこと。ビートルズメンバーの一人、ポールマッカートニーさんが来日予定でしたが、体調不良のため来日ツアーを全てキャンセルせざるを得なくなったことがありました。その来日ツアーをキャンセルしてしまうほどの体調不良の原因は「腸捻転」と呼ばれる病気でした。この「腸捻転」とは、その漢字の如く、腸が捻じれるのです。そして腸がねじれることで、締め付けられるような激しい痛みが起こるのです。それは腸がねじれることで、ねじれたところの腸が壊死、死んでしまうという危険性がある怖い病気でもあります。激しい痛み、苦しみが襲いますから、大変な状態です。それが来日できなかった理由であったのですが、

 

イエスさまの内臓が揺れ動くほどになったその時、腸だけが揺れ動いただけではなくて、内臓が揺れ動くという大変な痛みと苦しみが、全身を襲ったことでしょう。そしてその痛みは、イエスさまが生身の人間として背負い味わう、痛みということだけではなくて、この母親に寄り添う痛みでもあったのではないでしょうか?さらには彼女に与えられた一人息子の命は、神さまから彼女に与えられた、神さまの命、神さまの喜び、神さまからの贈り物であるということに気づかせるための激しい痛みではなかったでしょうか?

 

そんな想像を絶する苦しみの中で、イエスさまは、「もう泣かなくともよい」とおっしゃられるのです。それはただ単に泣くなではなくて、泣きたいときには泣いてもいいのです。悲しい時には悲しみを泣いて出したらいいのです。そのことを悲しみと苦しみをイエスさまも抱えながらも、イエスさまは、命を持ち運ぶお方は、神さまであること、神さまがその命を司り、神さまがその命を支えておられること、神さまがその命を喜んでおられる命を、この世に生きるものとして、命を与えてくださった神さまだからこそ、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と、イエスさまは、その命に向かって、ひつぎに横たわる命ではなく、立ち上がる命、復活の命を与えて下さるのです。そして起き上がった若者、その息子の命を、イエスさまは、もう一度その母親に、神さまからの喜びの贈り物としてお返しになったのです。

 

その時、母親は、神さまからのお恵みそのもの、喜びそのものを、もう一度受け取りなおし始める、始まりになったのではないでしょうか?神さまからのお恵み、喜びだという言葉は、この母親にはありません。しかしそうであっても、一人息子の命は、この母親の所有物でも、親の持ち物でもなく、神さまからの贈り物、神さまの喜び、お恵みそのものだ!ということに、少しずつでも、導かれていくのではないでしょうか?

 

ある方の証しをご紹介させていただきます。

 

「イエス・キリストと共に歩むときにも、信じがたい出来事に出会って、一瞬にして不信仰に突き落とされることもあります。14年前最愛の息子が突如天に召された時、その死を受け入れるのに、とても時間がかかりました。26歳という若さで夢と希望に燃え、これから実社会に船出しようとしていた息子の無念を思い加えて、親としてどれだけの面倒を見て来たかと、責めと後悔で、心の中は悲しみの涙で一杯でした。人々からの慰め、励ましの言葉も空々しく、時には憎らしいと思う自分が哀れで、悲しく今まで信じて来たことは、何だったのか?神さまは、なぜこのようなことをされるのか、このことが時にかなって、なぜ美しいのか?何度も何度も神さまに不平不満を言い続けながら、重い足を運びながら、礼拝に行きました。この心の重荷を軽くしていただきたい、この苦しみから救い出してほしい、あの十字架の御業の愛をなして下さった、神さまからこの試練より助け出して頂こうと祈りました。」

 

その試練から少しずつ導かれていくきっかけとなった御言葉がありました。詩編39:12~13「私の祈りを聞いてください。主よ。私の叫びを耳に入れてください。私の涙に、黙っていないでください。わたしはあなたと共にいる旅人で、私のすべての先祖たちのように、寄留者なのです。わたしを見つめないでください。私が去って、いなくなる前に、私がほがらかになれるように。」

 

そのみ言葉を通して、召されたその時から、少しずつ平安をいただきながら、時を経ての言葉が続きました。

 

「息子は私たちの子どもである前に、神さまが形つくってくださったのだ。26年間持病による、毎日の不安、将来の社会生活に関わる苦しみも取り除いて下さって、愛し続けて下さる息子を悪くされることはないと。心の中で未だ息子を思うことはありますが、今、天国にあることを喜びとし、会える時を楽しみに信仰のはせばを歩み続けます。あのゴルゴタの丘に建てられた十字架も麗しく輝けると讃美するように、主の成して下さる素晴らしい御業は、すべて時にかなって美しいと心からほめたたえます。」

 

1人のその命は、神さまからの贈り物です。神さまからの喜びです。お恵みそのものです。そういう贈り物なのですから、神さまは決して悪いようにはなさいません。たとい、その命とお別れしなければならなくなったとしても、さようならではないのです。神さまからの贈り物であり続けるのです。そのことを、少しずつであっても、行きつ戻りつであっても、私たちに分かるように、イエスさまは導き続けておられるのです。

 

讃美歌に「神共にいまして」という讃美歌がありますね。その讃美歌は19世紀、アメリカのワシントンで牧師をされていたランキン先生という方の作詞されたものです。その讃美歌、神共にいましてには、1つの思いが込められていました。それは「神さまがあなたと共におられるように」です。神共にいましては、さようならの讃美歌ではありません。神さまがあなたと共にずっとおられるように!の讃美歌です。

 

神共にいまして。行く道を守り、あめの御糧もて 力を与えませ。荒野を行く時も、嵐吹く時も、行く手を示して、絶えず導きませ。御門にいる日まで、いつくしみ広き、みつばさのかげに、たえずはぐくみませ。また会う日まで、また会う日まで、神の守り、汝が身を離れざれ。

 

神さまがあなたと共にあるように。それはさようならではありません。神さまが共にいて、神さまの守りの中にいつもある命が、1人の息子、そして私たちです。その命を、母親に、家族に、神さまは与え続けてくださっているのです。その命は、失われたり、奪われることはありません。神さまの手の中で、ずっと神さまと共にあり続けるのです。だから与えられた「もう泣かなくともよい」が、本当に、その通りだったと受け取れる時が、やがて必ずやって来るのです。

説教要旨(7月9日)