2023年4月30日礼拝 説教要旨

くださいと言えること(ヨハネ6:34~40)

松田聖一牧師

 

「人間を返せ」という映画がありました。これは広島長崎に落とされた原爆によって、壊された町、そしてケガなどをされた方々を、当時のアメリカ軍が撮影したフィルムを買い取って、それを映画にしたものです。その買い取る運動が、テンフィート運動と呼ばれました。それは1980年(昭和55年)から始まった草の根運動の一つです。第二次世界大戦での広島市・長崎市への原子爆弾投下直後に、アメリカの米国戦略爆撃調査団が広島、長崎の原爆記録フィルムを撮影したことから、このフィルムを日本が買い戻して記録映画を製作するために、このフィルムを、市民1人1人からの3000円ずつの募金により10フィートずつ買い取ることが、その運動の名称の由来となっています。そうして出来上がったその映画、「人間を返せ」を、小学校6年生の時、卒業式が終わった後でしたが、上映されるというチラシを見た時、担任の先生に、「こんな映画あるんだけど~」と話しましたら、先生が、これは大切な映画だ、是非クラスみんなで見に行こうということになり、クラスみんなで見に行きました。映画を見た時、本当に愕然としました。「人間を返せ」という叫びがそこにありました。それはまた壊された町、壊された自分自身、壊された家族を返してほしい!返して!私たちに、もう一度元の通りにして返してほしい!悲痛な叫びと共に、フィルムを買い戻したい!という思いに繋がっていたように思います。

 

その返せ!という叫びは、イエスさまが、天からのまことのパンを与えること、そしてそのパンは、神さまから、天から、降って来て、世に命を与えるものだと言われた時に、弟子たちが、イエスさまに言ったこの言葉「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」のくださいにも、現れているのです。というのは、ください、という意味は、返して!返せ!支払え!という命令の言葉でもあるからです。

 

そしてその「ください」には、返せ、支払え以外にも、与えよとか、任せよとか、委ねよ、そして奇跡を行え!という意味もありますから、彼らはイエスさまに、そのパン、神さまのパンを、私たちに与え、委ねて、返せ!支払え!奇跡を起こせ!ということを言っているのです。

 

イエスさまに対して、命令することもすごいですし、その命令の内容が、神さまのパンを、いつも私たちに与えよ!いつも返せ!いつも支払え!ということですから、彼らは、よっぽどそれが欲しかったのか?あるいは、イエスさまがおっしゃっている天からのパンを、そもそも自分たちのものだと思っていたからなのか?あるいは、よっぽど、彼らは、そのパンを必要として、それを取り戻したいと思っていたからでしょうか?そして先に、5000人以上の人々にパンを与えることができた奇跡がありましたから、それをいつも私たちのためにも起こしてほしい!という願いもあるのでしょうか?いずれにしても、彼らが、返せ、支払え、与えよ、奇跡を起こせ!とまで言わせるのには、イエスさまが、このパンは、「世に命を与えるもの」とおっしゃったことだからです。

 

「世に命を与える」このことを聞いた彼らが、自分たちにその命がほしい、命を返してほしい!とイエスさまに命令するほどに、しかもいつも返してほしい、いつも与えてほしい、いつも支払ってほしい!と願うのは、逆に言えば、彼ら自身がいつも、命を失う危険、いつ何時命を失い、命がもうない、という出来事が起こりかねないことに、直面し続けていたからではないでしょうか?見方を変えれば、自分の命の終わりを、いつも意識していたからではないでしょうか?

 

というのは、イエスさまを神さまの子として信じ、従っていくということは、いのちの危険を伴いました。いつ何時どうなってしまうか分からない、それと隣り合わせの日々は、緊張の連続です。それがいつもあるわけですから、想像を越えます。

 

戦場カメラマンで渡辺陽一さんという方がいます。世界中で起きている戦争を、その戦場に行って、現地の方々を尊敬しながら、寝食を共にして信頼を得て、撮影をし続けています。「戦場報道とは生きて帰ること」とおっしゃっていましたが、そんな渡辺さんに、こんな質問がありました。「戦場カメラマンとして一番願うことはなんですか?」そうしたらこんな答えでした。「仕事を失うことです」戦場カメラマンとして仕事を失うことは、戦争がなくなるということ、平和になるということです。でも現実はそうではありません。命の危険と隣り合わせの仕事です。いつどうなってしまうか分からないという中にいます。

 

だからこそ弟子たちもイエスさまに、いつもください、いつも与えよ!と訴えていくのです。でもその時、イエスさまは、わたしが命のパンであり、そのパンを与えるとおっしゃっておられません。与えよ、返せ!と言われたことに対して、わたしのもとに、わたしに向かって来るように、そして、わたしを信じるようにと、それはわたしの中に信じるように、わたしの中に信頼するようにとおっしゃられるのです。

 

いきなり、イエスさまは、私を信じるようにとおっしゃっているのではなくて、まずは、「わたしのもとに来る」こと、私、イエスさまに向かってくることをおっしゃっているのです。イエスさまに向かってくること、それは、イエスさまに立ち向かうことです。イエスさまに、反発し、反抗するかのようです。でも反発し、反抗するということを、イエスさまは、認めて、受け入れておられ、イエスさまに向かってくるものは、「決して飢えることがない」と、反発し、反抗することを通して、決して飢え渇くことがない、渇望することがないと宣言くださっているのです。

 

不思議なことです。立ち向かい、反発し、反抗するということで、飢え渇くことがないとは、どういうことか?反発しているとき、反抗している時ということを考えてみましょう。そういう時は、反発と反抗、それ一色です。いわゆる戦う姿勢ですから、それはすごいものです。立ち向かう時のみなぎるエネルギーたるや、大変なものですね。お相撲の立ち合いは、それと似ています。最初のはっきょ~いのこった!で、両力士が、土俵の上でバ~ンとぶつかり合います。火花を散らすかのようです。それくらいにぶつかり合う時というのは、逆に言うとその時、立ち向かい、反発、反抗することによって、お互いに体と体、心と心とをぶつけ合いながらも、お互いに、受け入れ合っている姿ではないでしょうか?ぶつかり合うという、エネルギーに満ち溢れている姿ではないでしょうか?

 

そういう意味で、立ち向かうということで、相手の胸を借りながら、ぶつかっていけることは、確かに反発、反抗ということであっても、ものすごく相手を信頼しているのではないでしょうか?当たり障りのないことではなくて、立ち向かうという形で、ものすごい信頼をしているのです。

 

それをイエスさまは、認めて、受け入れておられるのです。だからこそ与えよ!返せ!にハイ分かったと、すぐに安易に応じるのではなくて、彼らがイエスさまに、立ち向かうことを受け入れながら、こちらに向かってこい!と言わんばかりに、弟子たちに、返していかれるのです。

 

そういう意味で、「しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」彼らの姿、見ているのに信じないということを、前にも言ったでしょ。前にも言ったことなのに、信じない、ぶつかって来ていないということを、「しかし」と、はっきりと語るのです。その根拠は「しかし」と言う言葉の始めが、大文字で書かれているからです。小文字ではなくて、大文字ということは、それくらいに、イエスさまも、「しかし」信じないと言って、返しているのです。しかしそれはまた、信じないと言い返したその相手である弟子たちを、イエスさまは、それでも信じて、それでも信頼している姿ではないでしょうか?

 

それにしても、なぜそこまでされるのでしょうか?なぜ信じないと言いながらも、信じ続けているのでしょうか?それは彼らがイエスさまにぶつかりながらも、まだ彼らがイエスさまに出会う前の途上であり、そして自分に出会う途上だから、あるいは中途半端だからです。ぶつかっている時には、まだ自分がどれほどイエスさまを信頼しているか、そしてイエスさまがどれほど信頼してくださっているかが、まだ分かっていないのです。まだ途上であり、中途半端なのです。だからこそイエスさまは、「わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。」神さまの意志、神さまの思いを、行うために、イエスさまはぶつかって来る彼らを信じ続けてくださるのです。そしてその神さまの意志、思いは、イエスさまに向かってくる人を、イエスさまに与えて下さった人として受け入れ、まだ途上だからこそ、中途半端だからこそ、そういう一人の人だから、一人の人も失わないで「終わりの日に復活させること」子、すなわちイエスさまを見て信じる者が皆永遠の命を得ることのために、ぶつかり続けてくださっているのです。そしてやがては復活、立ち上がらせてくださるのです。倒れたままじゃない、中途半端なままじゃない、やがては必ず立ち上がらせてくださるのです。

 

議論ということが、この3週間ほど礼拝で取り次がせていただいている聖書箇所の1つのテーマになっていますね。議論とはぶつかり合いです。お互いに時には火花を散らすかのように、ぶつかっていける関係を通して、大変なことではあるけれども、実は、本当に信頼出来ている証拠がそこにあります。そういう人を、イエスさまは、「わたしは決して追い出さない」と追い出し、投げないと約束しておられるのです。たといどんなにイエスさまに立ち向かおうとも、イエスさまは、だからこそ立ち向かってくれることを喜んで受け入れ、立ち向かってくれるその人を信じ続けてくださっているのです。

 

そして、そういう姿を、見るということを通して、イエスさまは受け入れて下さっていること、信じ続けてくださっていることが、分かるように導いてくださるのです。

 

敬和学園高校に入学した一人の男の子がいました。彼は、中学時代、校長先生から、「人に当たらず物に当たれ」と言われたほどに、学校で、何が憎らしいのか、いろいろなものを壊していきました。物を何度も何度も壊すほどに暴れた彼は、高校でも何回も停学になりました。彼のために担任の先生は、どれほど時間を割いたことでしょうか。本当に彼と向き合いながら、彼自身もそうですが、担任の先生、学校の周りの先生も生徒たちも、傷つきながら、ぶつかり続けた日々でした。でもそういうことを繰り返すうちに、だんだんその子が変わり始めていきました。それは高校3年生の夏ごろだったでしょうか・・・秋の修養会で夜、キャンドルサービスがありました。その時彼は立ってこう話し始めました。「先生たちは俺のことを、何言ってんだ?と言うかもしれない。でも俺はみんなの前でひと言、言いたい。俺は変わったんだ。この学校に来て変わりました。前の俺は気に入らなかった。かっとなって自分を止められなかった。人を殴ったり、物を壊したりしていた。でも今は、止められる。自分のことばかり押し付けないで、一歩下がって人のことを考えられるようになった・・・。」そんな彼が卒業を前にしたとき、誰にも何も言わずに学校に来て絵を描き始めました。イエスさまが十字架にかかっている絵です。その絵をずっと描き続けたのでした。そしてその絵を卒業式の時に、校長先生に、僕の絵をもらってください。と差し出したのでした。みんなからも歓声が上がりました。校長先生も本当にうれしくなって、熱いものがこみ上げてきました。

 

そんな彼が卒業文集に次のように記していました。

 

「二回目の停学で心身ともにズタズタになった。そして石川先生の前で泣いた。イエスの復活のごとく俺の人生が始まろうとしていた。日がたつにつれ、いらだつ心が消え、短期がのん気へと変身し、人の心が読める虫眼鏡を手に入れた。だから見えない神がおれにははっきりと見えてしまった。榎本校長が語った99匹と1匹の羊。自分はその迷い出た1匹の羊であったことを誇りに思う。迷惑かける奴ほどかわいがってくれるものだ。みんなと同じ授業料で人より多く学んだスペシャルコースにして良いのではないでしょうか。」

 

ぶつかっていくということ、それは人と、そして自分との戦いと言ってもいいかもしれません。そういう人とぶつかり、物にも当たるというだけではなくて、そういうぶつかっていくということを、誰もがしているのではないでしょうか?それは自分が、自分となっていくための戦いであるのかもしれません。そしてそれは自分が自分となる途上の出来事であり、そういう意味では、人が人となっていく時にある、中途半端がそこにあります。中途半端だからこそ、ぶつかりながら、向き合いながら、何回も何回も失敗を繰り返していくのです。でもそういうことをしながらも、それでもそこにイエスさまが立っていて、ぶつかっていく私たちをも、しっかりとぶつかりながら、受け止めて下さり、受け入れて下さっているんです。そして自分を見つけ、自分に出会っていけるのです。

 

人は、ぶつかってもなお受け入れてくれる出会いを通して、信じるということに出会っていけるのです。そのような居場所を、イエスさまは、ぶつかりながら、向き合いながらも、用意してくださっているのです。だからこそ「ください」と言えること、与えよ、返せ、ということがイエスさまに言えるようになっていくのです。そこには、イエスさまへの信頼と、それ以上にあるものがあります。それは、イエスさまのあなたへの信頼です。それが神さまの意志です。神さまの考えです。そしてイエスさまは、その神さまの意志を行うために、来られたお方であり、その人を神さまがイエスさまに与え、イエスさまが受け入れているその人だからこそ、「一人も失わない」とはっきりおっしゃっておられるのです。

説教要旨(4月30日)