2023年4月23日礼拝説教要旨

主は生きておられる(ルカ24:36~43)

松田聖一牧師

 

恐れについて、ある大学の先生が、恐れとは何かという定義と、その恐れが生じた時に、人が取る行動を次のように述べています。

 

恐れとは、外的あるいは内的な特定の危険、あるいは、危険と判断したことに対して誘発される嫌悪的な感情。特に、その危険の発生を自分で制御できず、対処が十分にできないと認知した時に生じる。恐怖刺激があると、その時に行っていた行動を停止し、目の前の脅威となるものから逃げる行動、あるいは、筋肉を緊張させるすくみ行動をとる。切羽詰まりどうしようもない状況であれば脅威の対象物に対し闘争する場合もある。また、同種の強者(強い者)からの脅威といった社会的な脅威の場合、服従の姿勢、なだめ行動をとる場合もある。恐怖刺激により意識を消失することもある。

 

つまり、自分にとって、怖い!と恐れを感じるとき、またその恐れを感じさせるものに対して、危険だと判断することにあります。危険だと思ったら、自分の身を守ろうとします。そのために、逃げたり、緊張したり、戦いを挑んだり、あるいは反対に、従う姿勢を取ったり、死んだふりをする、意識がなくなってしまうことも、自分の身を守ろうとして取っていく行動なのです。

 

それが、「こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」時、の「恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」彼らにも現れているのです。でも不思議です。この時、イエスさまが来て、彼らの真ん中に立っておっしゃっているのは、「あなたがたに平和があるように」あなたがたに平安があるように!です。恐れさせるような言葉は、何一つありません。ところが、彼らは、恐れ、おののいて、身の危険を感じているのです。

 

せっかくイエスさまが、生きて彼らのところに来てくださったのに、恐れおののいているというのは、どういうことでしょうか?甦られて、生きておられるイエスさまが来てくださったんだから、お目にかかることができたんだから、ああまた会えた!お目にかかることができた!と素直に喜んだらいいのに、彼らは、何を恐れているのでしょうか?恐れおののいている理由は何でしょうか?

 

それは、弟子たちやその仲間たちの中に、イエスさまに対して、到底許されないことをしてしまった、という負い目が、ずっとあったからではないでしょうか?彼らは、イエスさまに呼びかけられ、イエスさまに招かれ、従ってきた弟子たちでした。だからどこまでもイエスさまに従い、イエスさまのおっしゃられることを、その通りにしようとするということが務めでした。でも、それができなかったのです。それどころか、イエスさまを裏切り、イエスさまから逃げてしまい、イエスさまを見捨ててしまったのです。イエスさまが、一番助けを必要としていた時に、助けようとしなかったし、どうすることもできなかったし、そこから離れていったのです。この行為は、弟子として許されないことです。だから、そういうことをしてしまったという、負い目をずっと抱えているからこそ、イエスさまが、自分たちの所に来てくださっても、喜ぶどころか、イエスさまに顔を向けることが出来ない状態にあったのではないでしょうか?あるいは、今度は、自分たちが、イエスさまから何をされるか分からないという恐れに変わっていたのではないでしょうか?だからそこにおられるのが、本物のイエスさまだとは認めたくない、ということから、「亡霊を見ているのだと思った」となっていくのです。

 

ただですね。この弟子たちの姿は、見方を変えて見たとき、健全だとも言えます。イエスさまに対してしたことについて、何も感じないのではなくて、恐れおののくほどに、大いに感じているわけですから、健全です。何も感じなければ、恐れることも、おののくこともないでしょうし、自分のした許されないことにも、鈍感なままです。

 

そしてそういう恐れというのは、単にびくびくしているということだけではなくて、恐れないように、恐れることから逃げられるように、自分自身を周りに過剰に合わせすぎているという姿も、そこにはあるのではないでしょうか?というのは、周りに自分を合わせすぎてしまうと、逆の反動が起こるからです。例えば、最初は周りにペコペコしていたと思いきや、自分がある程度のポジションにつくと、無意識のうちに、自分の部下を道具のように使ってしまい、気に入らないことがあると、激昂して、攻撃的になったりするというのも、1つのパーソナリティについての、学問研究として確立しているものです。そういう意味では、この弟子たちの姿は、恐れのままで終わらない恐れ、そしてその恐れから、逆の攻撃的なことに繋がっていくものを彼らも持っているということです。そしてその姿は、弟子たちだけのことではなくて、どなたにもつながる可能性があるということではないでしょうか?

 

だからこそ、イエスさまは、彼らのところにだけでなく、私たちのところにも来てくださるんです。それは、イエスさまが、その恐れは、抱えたままでは良くない!どこかで取り除かれなければならない、そして恐れなくてもいいんだという、安心が、その人のその中に必要だということを、誰よりも知っておられるからこそ、「あなたがたに平和があるように」と開口一番におっしゃってくださるんです。そういうことを言われたのも、ちゃんと意味と目的があるんです。

 

そうであっても、彼らの中に依然として恐れがあるし、自分たちのできなかったこと、しようとしなかったこと、逃げたことという、負い目、罪責感はあり続けているのです。あるいは私たちの中にも、それはあり続けることです。イエスさまに呼びかけられ、イエスさまに、いらっしゃい!わたしについてきなさい、わたしに従ってきなさい、私を信じてついて来なさいと言われて、信じて従うということの中で、イエスさまに対してだけではなくて、一番助けを必要としていた時に、助けなかったこと、助けられなかったこと、そばにいてやれずに、離れてしまっていた出来事が、少なからずあるのではないでしょうか?

 

ある農家のご家庭でのことです。そこには、小さな子どもさんがおられましたが、農繁期になると、家族中が、田植えだ、草取りだと、寝る暇もないくらいに忙しくしておられました。そのために、小さな子どもさんに十分に相手ができないことがしばしばでした。でもお母さんは、その子のために、いろいろと一生懸命になさっていましたが、忙しくてなかなか家に帰ることができません。ある時、畑から帰って来た時、そのお子さんは、玄関に寝ていました~見ると、涙を流した後が残っていました。家に誰もいないということで、泣いて泣いて、泣きじゃくって、泣き疲れて寝てしまっていた涙の跡でした。それを見た時、お母さんは、ああかわいそうなことをした~起きた時、誰もいなくて、捜しまわって、泣いていたんだ~と自分が本当に悪いことをしたと思いました。そのことを振り返って何度もおっしゃっていました。そして一言おっしゃいました。「今でも、私の中で、傷になっています~本当は傍にいないといけなかったのに、そばにいてあげられなかった・・・それを何十年経っても、思い出すたびに、心がずきんと来ます」そうおっしゃっていました。

 

そんな負い目は、どなたにもあります。しかし、そんな負い目を負って過ごしていた彼ら、私たちのところに、イエスさまが来てくださるのは、責めるためではありません。恐れていることが何であるかを知っておられるイエスさまが、そのことを聞いて、しっかりと、受け止めようとしておられるのです。

 

だからこそ、イエスさまは、「なぜうろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」とおっしゃるのです。その意味は、彼らが恐れおののき、うろたえたり、心に疑いを起こすことをするな、ではなくて、彼らが恐れ、おののき、おびえ、うろたえ、かき乱されていること、そして、疑っていることは、何なのか?どんな疑いがあるのか?と尋ね乍ら、同時に、イエスさまは、疑っている彼らの中には、疑いながらも、限りなく信じようとしている姿でもある、ということも知っておられるのです。でも恐れがある彼らに、彼らが恐れているものは何か?どんな恐れがあるのか?どういうことで、そうなっているのか?そうさせているものは何か?ということを、彼らの心の中、思いを知っておられるイエスさまは、そういう彼らであることを受け入れながら、ただそれを彼らから聴こうとしておられるのです。

 

そのために、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」とおっしゃられる中で、「触ってよく見なさい」と言う言葉は、手探りで見つけなさいという意味なのです。ということは、イエスさまが責めるために来られたのではないということも、パッと分かりなさいではなくて、手探りでいいから、見つけなさい、なのです。

 

手探りというのは、真っ暗な中で、物を探す時のようですね。私たちの生活の中でも、手探りということがありますね。物がどこかに行った時、どこにあるか?どうなっているか?を、手で探りますから、すぐに何もかも分かるわけではありません。分からないままのこと、なかなか見つからないこともあります。けれども、そういう手探りでいいから、よく見なさいとおっしゃってくださるイエスさまは、無理やりに彼らから、すぐに恐れを締め出そうとしているのではなくて、彼ら自身に、手探りでいいからイエスさまが、恐れなくてもいいお方であること、責めるために生きて来られたのではない、あなたがたに平和があるようにと、平和、平安を与えるために来られたお方だということを、手探りでいいから、よく見なさいとおっしゃっておられるんです。

 

ということは、急がなくてもいいということではないでしょうか?すぐにパッと答えを出すようにというのではなくて、時には、時間をかけて、遠回りをしながら、紆余曲折、行きつ戻りつの、時には揺れ動く歩みの中で、迷いながら、恐れ乍ら、疑いながらと言うことも、イエスさまは、認めて受け入れておられるのです。その上で、急ぐことばかりじゃない、ゆっくりでいいから、しっかりとイエスさまが、生きておられることを、よく見なさい、よく見るようにと、手探りということを通して、分かるように導いてくださるのです。

 

だから弟子たちは、イエスさまが、手と足を見せてくださったとき、すぐにわかったわけではありませんでした。「喜びのあまり信じられず、不思議がっている」んです。手探りがまだ続いているのです。まだ信じられないでいるのです。でも彼らのその心は、手探り状態の中で、恐れから、喜びに変えられているのです。それでもまだ不思議がっているのです。

 

そこでイエスさまは「ここに何か食べる物があるか」と言われたので、弟子たちは、「焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」焼き魚を一切れ、弟子たちが差し出した焼き魚を、イエスさまは受け取って、彼らの前で食べられたのです。

 

それはイエスさまが、ただ焼き魚一切れを彼らの目の前で食べたということだけではありません。というのは、イエスさまが、彼らから受け取った魚が指し示すことは、イエスキリストは神の子、救い主という言葉の、それぞれの頭文字が取られて、その頭文字が繋げられて、魚という言葉になっているのです。それを弟子たちが、焼いて、焼いた魚にする時には、その魚から煙が出ます。あぶる時、その魚から煙が出ます。その出た煙から、かおりがします。特に、ウナギのかば焼きは、その煙と、たれのにおい、香りをかぐということも、大きなポイントですが、その焼いて煙にするということが、実は、旧約聖書に於いて、神さまへのささげものを燃やして煙にすることで、神さまはそのけむりを、なだめの香りとして、受け取って下さるということから来ているのです。なだめの香りと言うのは何を意味するかというと、神さまが、人々の罪、神さまに背を向け、神さまに従おうとしなかったその罪を、赦してくださったということをあらわしているのです。そこから、弟子たちが差し出した焼き魚は、イエスさまを燃やしてそこから出た煙も含めた、神さまへのなだめの供え物、なだめの香りとなったイエスさまご自身です。その焼き魚そのものに現わされた、神さまの子、救い主であるイエスさまを、生きておられるイエスさまが、受け取って、そしてひと口食べて下さっているのです。

 

ということは、イエスさまが、単に魚を食べたということだけではなくて、焼いた魚を食べたということは、イエス・キリストは神の子、救い主である、お方であり、そのお方を燃やして焼いたことよって、与えられた神さまの赦しを意味する魚を受け入れ、食べたことによって、不思議がっていた彼らに、イエスさまはまことに、神の子、救い主であるということを、証明されたのではないでしょうか?

 

そこから、与えられたものをお互いに、食べるということは、赦しに繋がるということなのです。

 

ある労働組合で一生懸命にされている方がいました。労働組合の執行委員長までされていましたから、当然、経営者側とは真っ向から対立しました。賃金のこと、労働環境のことなどの、交渉の場では、それこそ火花を散らすかのような激しいやり取りがありました。そんな激しい交渉が一旦小休止となり、お昼の時間になりました。社員食堂に出かけました。その時、1つのテーブルに、さっきまで激しくやり取りしていた、その担当者の方が集まって、食事をしておられました。その同じ場所に、その方も、座ろうとしてこうおっしゃいました。「さっきはどうも!一緒にご飯を食べましょう。一緒にご飯を食べる時は、平等ですからな~」とニコニコしながら、相席で食事を、経営者側の方々と、ひと時楽しく過ごしました。そして食事が終わると、またひと言「また後ほど、どうぞよろしく。」ということで、交渉の場では、再び激しいやり取りとなりました。やり取りが激しくなるのは、立場上やむを得ないことです。お互いに。でも一緒にご飯を食べるという時には、それは全く関係ありません。交渉のあれこれを引きずる必要もありません。なぜならば、一緒に食事をする、一緒にご飯を食べるという時、それはお互いに赦し、赦されているという場になっているからです。

 

イエスさまに、赦されていること、それは一緒に食事をすることを通して、神さまの赦しをいただく場に変えられていきます。それは、赦すために十字架につけられ、甦られ、生きておられるお方が、恐れおののいていた弟子たちから与えられた神さまの赦しを食べるということを通して、イエスさまが、まことに救い主であるということ、イエスさまが本当に赦してくださったということが、与えられていくのです。

説教要旨(4月23日)