2022年7月17日礼拝 説教要旨

分かってほしい(マルコ8:14~21)

松田聖一牧師

 

1995年の阪神大震災に遭遇した時、ありとあらゆる建物が壊れ、ライフラインが止まりました。火災も発生しました。途端に水も、ガスも出ない、電気もないという、ないないづくしの中で、困ったことの1つには食べる物が、突然、何も準備する間もなく、ないないづくしになってしまいました。でもそれは、もしもに備えて食べるもの等を、保管しておくということをしていなかったからでした。もしもの時に備えるということが、なおざりになっていたからでした。それでも当日の朝、明るくなってから近くのパン屋さんの店先で、前日に売れ残ったパンが並べられて、どうぞ自由に持っていってくださいというお店のご主人がいたり、井戸水があるから、どうぞそれをお使いくださいと申し出られる方があったり、水道管が破裂して、噴水のようになっていたところがありますと、いう知らせを口伝え下さる方があったりと、まだ携帯電話がほとんど使われていなかった時でしたが、どこからともなく情報が伝わり、それぞれのところに途端に行列が出来ました。食べる物、水を求めて、あちらこちらに動き回ったことでした。

 

それ以降、備蓄とか、災害に備えてといった言葉が、出るようになったと思います。そのように、もしも‥の時に、必要になってくるものは、食べ物、水です。それらは命を維持するために、生きるために最も基本的で、必要なものです。食べる物、水があれば、何とかなっていきます。食べる物、まさに命のパンがあれば、何とか生きていけます。

 

それを弟子たちは、忘れてしまったのです。それまでに5000人以上の人々や、4000人以上の人々にパンが与えられ、全員に行き渡ってもなお、それぞれの時に12の籠一杯になったり、7つの籠になったりと、弟子たちが十分に生きることができるだけの、パンが、イエスさまから与えられたのに、それを舟に乗るときに持って来るのを忘れてしまったのです。それは単に積むのを忘れた・・・というだけではなくて、忘れたという意味にもある通り、なおざりにし、見落としたからです。それは、パンをなおざりにしたということだけではなくて、パンが意味する命の糧、命を支えるものをなおざりにしたということでもありますし、舟に乗るとき、何が必要なのか、どれくらい必要なのか、そのこれからの必要を考えずにしてしまったということでもあります。考えなかったら、気づかないままになってしまうものです。注意して見る事、考えることも、その中に含まれるかもしれません。

 

というのは、主の祈りの中に、「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」との祈りがありますね。この中で、日用の糧、日ごとの糧とも言えますが、その意味は、からだの必要を満たし、からだを支えるためのすべてものが、どんなものなのか?そのことを改めて考えさせられ、そしてこんなこともあった、あんなこともあったという気づきが与えられる祈りでもあります。からだとは何でしょう?単に肉体だけのことではなくて、心も体の1つであり、体全体でもありますね。そのからだと心を支えるためのすべてのものには、食べ物、飲み物はもちろん、着る物、住む場所、家族、財産、平和、健康、教育、良い人間関係など、ありとあらゆることが関係してくるのではないでしょうか?

 

例えば、食べる元気がないというとき、それは風邪などをひいてしまったときや、この季節、暑すぎて食べる気が起こらないということもあります。いわゆる夏バテになると、食べられないこともあります。そういう気温だけではなくて、安心して食べることのできる家がなかったら、安心できる環境になかったら、争いがあったら、食べる余裕は、なくなります。食べる気も起らないかもしれません。そういう意味で、食べ物も含めた、毎日の必要なものを、その日その日に戴けるというのは、その食べ物があるということはもちろん、その食べ物、必要な糧を受け取れる環境もなければ、いただくことができません。

 

それは陸の上から、舟に乗り込んだことでも起こる変化です。舟は陸の上にあるのではなくて、湖の上です。湖の上にあるということは、舟の周りには食べる物を調達できるお店もなければ、そこに行く方法もないということです。とにかく食べる物を得る手段が、ここに網があるとは書いていませんから、トビウオのような魚が勝手に、舟に入ってくることでもない限りは、ないわけです。それほどに舟に乗るということは、大きなことなのに、それを考えなかった、なおざりにしたために弟子たちの食べるパンがないのです。

 

ところが、誰かが、1つのパンは持ってきていたのです。「舟の中には1つのパンしか持ち合わせていなかった」とありますが、1つのパンしか持ち合わせていなかったということは、同時に、その1つのパンを、舟に乗る時には必要だと考えて、受け止めていた弟子がいたのです。しかし、1つは1つですから、その1つのパン、1つの食べ物、1つの命の糧しかなかったという時、その1つをめぐって、いろいろなことが起こるのではないでしょうか?1つしかないのです。もちろん弟子たち人数分もありません。となると、その1つをめぐって、弟子たちの間で、人の中で起こる事を、イエスさまは「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種」だとおっしゃっておられるのです。

 

そのファリサイ派、ヘロデにある共通点を見る時、そのどちらもが、権力者であり、特権階級であるということです。自分たちの持っている権力を、ある意味で自由自在に、自分の欲望の赴くままに使うことができる立場にいます。ですから何だって、しようとすればできるのです。でもそれが表に出るのではなくて、パン種のように見えないものであるけれども、でもパン種だから、最初は膨らんではいなくても、やがては大きく膨らんでいくのです。欲望もそうです。最初は小さくても、だんだんと大きくなっていくのです。それに「よく気をつけなさい」ただ気をつけなさいではなくて、気をつけなさいに、よく、がつくほどに、気をつけなさいと、イエスさまがおっしゃられるのは、1つをめぐって、そして1つしかない、自分たちは持ち合わせていない、なおざりにしたということをめぐって、欲望に関わる、いろいろなことが起こる事を知っておられるからではないでしょうか?

 

新春初売りには福袋が販売されますね。この頃は、年をあけずに年内からはやばやと売り出さるようになりましたが、ほんの少し前までは、1日か2日のお店の初売りに合わせて、福袋が販売されました。その福袋を目指して、買いに来られる方々がいらっしゃり、店によって、ものによって人だかり、行列ができることもありました。そんな行列ができるような福袋1つに向かって、開店と同時に、並んで待っていた人たちは、突進します。我先に取り合いになります。人が手にした福袋を、横から抜き取っていくこともありました。すさまじい勢いです。それが1つの福袋をめぐって起こる出来事です。我先にということは、人よりも少しでも先に、福袋のところに辿り着きたい、1つの福袋を手に入れたい、人を押しのけてでも、手に入れたいという欲望の塊になります。それが人を押しのけ、人よりも、わたしが・・・自分がということになっていきます。

 

でも普段はそんな姿はありません。でも福袋の販売の時には、その人の中にある欲望が、あっという間に大きくなっていくものです。つまり欲望のパン種、酵母が、どこかにあるのです。どこかに確かにあるからこそ、イエスさまは、人よりも、自分が何とかなれば、それでいいという思いがあるから、よく気をつけなさいとおっしゃられるのです。

 

そういう欲を持っている者同士ですから、1つしかない、持ち合わせていないということに注目して、しかない、それしかないということを論じ合っていくことによって、それしかない、ということしか考えられなくなり、どうしてそれしかないのか、とか、どうして持ち合わせなかったのか?という、原因とか、責任を、お互いに問い詰めていってしまうのではないでしょうか?なぜそうしたのか?なぜそうなったのか?ということを、いくら考えても、1つのパン以上のことは、出てこないのです。1つは1つです。それしかありません。でもその1つしかないということにのみ、集中してしまうと、それしかない、ものをお互いに取り合っていく、奪い合っていくことになるのではないでしょうか?

 

それしかないということだけに、集中し、それしかないということを論じ合っていけばいくほど、それしかない、という事柄、を越えるものが出て来るのではなくて、それしかない、ということ、以下のことしか出て来なくなってしまうのではないでしょうか?

 

そうすると、行き着くところは、できない~ということであり、できないということについてしか考えられなくなってしまうのです。そして1つをめぐって、奪い合うこと、原因と責任を問い続けてしまうしかなくなってしまうのではないでしょうか?

 

だからこそイエスさまはおっしゃられるのです。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。」パンを持っていないということは、その通りです。その持っていない、そのことは議論しても変わらないのに、持っていないことで、お互いに向かって、論じ合っても、持っていないということに就いての、議題は、それを議論しても、持っていないということからは、できないということしか出てこないことに気づいて、そうなってしまうことが分かっておられるのです。だからこそ、「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目が合っても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが5000人に5つのパンを裂いた時、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、いくつあったか。」「7つのパンを4000人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」に、それぞれ、12です、7つですと、彼らに答えさせていくのは、彼ら自身がイエスさまと共に、この目で目の当たりにし、イエスさまがそのために、何を語られ、何をされたのか、わずかなパンを神さまに用いていただくことで豊かに与えられたじゃないか、ということを、もう一度思い起こさせるためです。

 

あれほどに、豊かな祝福をいただいたのに、その時は、イエスさまは素晴らしいことをしてくださったと、受け止めていても、そのことを忘れて、1つしかないということに目を向けて、持っていないことで、議論をしてしまうからこそ、そうじゃないでしょ!豊かに与えてくださったこと、イエスさまが与えてくださったこと、十分に満たして、それ以上に、弟子たちのためのパンを与えて下さったことを、思い起こさせるために、覚えていないのか。まだ悟らないのかと、おっしゃられるのは、分かってほしいからです。ないないということに、議論を終始するのではなくて、そのパンは、誰から与えられたものか?誰が与えて下さったか?イエスさまが与えて下さったじゃないか!そのことを思い起こさせてくださるのです。

 

コロナ禍ということになって、久しいですね。コロナだから、ということから、あれもできない、これもできないという方向に、一時期強くなったことがあります。もちろんできなくなったことも多いですが、何もかもが全部できなくなったのか?というと、出来ないということの中から、これまでは必要だと思っていたことが、実は必要ではなくて、もっと必要なこと、そしてそのためにできることが生まれてきているのではないでしょうか?オンラインでの参加、オンライン会議、などなど、コロナコロナと言われる前には、想像もつかなかったことが、今、普通になりました。それによって、できなかったことが、出来るようにもなってきています。

 

ということは、しかない、持ち合わせていない~ということから、何もかもがないとか、できないということではなくて、必要なこと、そのために出来ることが、与えられていくということではないでしょうか?それもこれまで見過ごされてきた、最も必要なことが、できない、出来ないと言っている中から、与えられていくということでもあるのです。

 

一昨年の春、コロナ感染故に緊急事態宣言が全国で出された時、神戸でもほとんどの教会が礼拝堂での礼拝を閉じました。でもその中で、礼拝を休むことなくできたことは、思い起こすたびごとに、本当に感謝なことだったと思います。もちろん、心配で礼拝にはうかがえないという方もいらっしゃいましたので、それはその方々の、ご自分の判断を尊重しながら、その判断は、それぞれの方々に委ねるという形をとりました。それは教会が祈って決めた判断でした。しかし一方で、コロナだからということと、礼拝堂での礼拝を閉じるということとは問題が違うということでした。ですから仮にどなたも来られないという礼拝があったとしても、礼拝堂を閉じること、礼拝をしないという選択肢はないわけです。そうした宣言下であっても、どのような形であろうとも、礼拝は続けなければならないし、続けるものです。これは誰が何と言おうとも、安息日を覚えてこれを聖とせよと、おっしゃっていますから、それをいろいろな立場からの、ご都合で変えるということは、誰も、できないことです。そういう中で、不思議なことでしたが、次々と新しい方々が礼拝に来られるようになりました。もちろんその中で、礼拝をオンラインで中継するということ、それによって自宅で礼拝を守れる方法があるということに、気づかされ、いろんな形で礼拝が守られるということに気づかされていきました。途中、足が弱られて、教会には来れない、という方が出てきました。でも、オンラインで画面越しではあっても、一緒に礼拝のお恵みにあずかることができる喜びを受け取っていかれました。もちろん消毒、マスク、など対応できる方法が全部使ったように思います。聖餐式も、容器はいつも熱湯消毒です。熱湯消毒をして冷やすときに、どうしても容器にひびが入ったりして、だんだんに数が減っていくのです。お湯の中で、ぐらぐらと煮立たせますから、どうしてもそうなってしまいます。でもそういうことがあっても、礼拝は続けることでした。後に、飲食をしなければリスクは下がるということ、換気をきちんとすればいいということが証明されていく中で、窓を開けっぱなしにした結果、讃美歌も、説教も、何もかもが外に筒抜け状態となり、そのことがかえって、教会の礼拝が、外におられる方々にも、聞こえていくという思わぬお恵みがありました。開けっ放しにすることで、福音が風に乗って広がっていきました。

 

1つしかない、しかない、それだけしかない、ということだけから考え出すと、できないということを考え始めます。そうなると、ますますできない方向に向かっていきます。できないことについて、論じ合うと、ますますできなくなります。でもイエスさまはできないことについての議論に、ではなくて、もうすでに与えられている糧、豊かに、十分に与えられた恵み、いのちの糧があること、それを与えて下さるということに目を向けさせようとされているのです。

 

そういうことが、分からないことも多いです。けれども、こちらが分かっていようが、分かっていなくても、分からないままでも、ちゃんとその日、その日の必要な糧、いのちの糧を、イエスさまは与え続けてくださっているのです。それを受け取れるように、できないことについて、論じ合うことから、与えられていること、既に与えられたことへと目を向けさせて下さり、そこからいつも、与えて下さるイエスさまをますます信頼できるように、できないことに、ではなくて、どうしたらできるか、できるようにするために必要な物は何か?ということへと向きを変えさせてくださり、できるようになるために、必要なこと、必要な糧を与え続けて下さっています。それをイエスさまは、わたしたちにも分かってほしいのです。

説教要旨(7月17日)