2022年5月29日礼拝 説教要旨
祈られて(ヨハネ17:1~13)
松田聖一牧師
東海教区総会に先日守られて出かけて参りました。地図を書いていただいたり、諏訪インターからどうやっていけばいいかということを詳しく教えていただいたりと、恐縮することばかりでしたが、議場で紹介されたり、初めてお目にかかる先生方から声をかけていただいたり、『よく来られました!歓迎します!』と言葉をかけてくださる方やら、初めてのことばかりでしたが、良いひと時でした。その会場から外を見ると、丁度車山が見えました。その山を見た時、勤めていた小学校の職場の先生と一緒に、車山にスキーに出かけたことを思い出しました。校長先生も一緒に行かれ、新任で右も左も分からない一年目がようやく終わるときのことでした。その山を見たとき、ここまで来ていたのだということと、この近くに自分がいることを改めて思いました。そのことから、採用試験のことも思い出しました。大学4年生の夏のことです。教員採用試験を前にして、あれこれ準備していたことと同時に、丁度所属していました大学のオーケストラの演奏会が教員採用試験の翌日と重なってしまい、採用試験の2日目、逆上がりと後方支持回転、開脚前転、最後は水泳という実技の試験を終えて、そのままリハーサルに臨むというスケジュールとなりましたが、その時の演奏曲1曲が今日の午後の曲目の1つになっています。今思えば若気の至りというところでしょうか?そんな中で、採用試験初日、試験会場に行き、最後の振り返りをしようと思いまして、ノートを開けると、1つの御言葉が挟んでありました。それが「あなたの道を主に委ねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」という詩篇の御言葉でした。その時、自分がこれから受けようとしていることも、自分で何とかするということではなくて、神さまに任せること、結果はどうなるか分からないけれども、ずっと願っていた小学校の先生になることも、これからのことも神さまにお任せしようと思いました。そしてそれは、今日も続いていますが、そういう意味で、委ねるということは、今の私も、これからの私も、そしてそれに伴っての凡ての事も、神さまに任せるということです。その時、もちろん何もしないわけではありませんし、結果を出そうとして、いろいろなことを一生懸命にしているつもりでいます。しかし、最終的には、与えられた結果は委ねていくことですね。
祈りもそうです。自分自身が祈って、願ったことがその通りになるか、それは誰にも分かりません。でも、祈ったことはもうすでに神さまの側に届けられ、神さまの手の中にしっかりと受け止められています。そして結果は、私たちの祈った以上に、思いを遥かに越えた形で最高のものに変えられ、それがもう既に与えられていることを信じていくことです。
その祈りが、イエスさまのこの祈りから与えられています。この時、イエスさまは、ご自分をすべて注ぎだしていました。これからご自分が十字架に付けられること、それも神さまが与えて下さった人によって、裏切られ、見捨てられ、十字架に付けられていくというとんでもないことも、イエスさまは、神さまから受け取っていかれ、神さまに、これからのことを任せて、委ねていかれるのです。
そうは言っても、イエスさまにとって、自分が十字架に付けられていくこと、それも神さまから与えられたこととして受け取っていくことというのは、とんでもないということであり、大変という言葉以上のものです。同時に本当はあってはならないことです。なぜかというと、イエスさまは神さまであり、何にも悪いことをしていないし、何にも罪のないお方、聖なるお方です。それなのにイエスさまは、神さまに向かって、「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」与えてくださいと祈られ、そして神さまがイエスさまに「与えて下さった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました」と、イエスさまは自分がとんでもないことを受ける、その時が来ましたと受け取りながら、「父よ、今、御前でわたしに栄光を与えてください。」と、自分が十字架にかかられることを、イエスさまの方から、わたしに与えてくださいと、ご自分を差し出し、注ぎだして祈られるのです。
そこまで祈られるのはなぜでしょうか?自分のために、でしょうか?確かにこの祈りはイエスさまの祈りです。イエスさまはこれからのことを、何がどうあろうと、神さまに任せて、神さまに祈っています。これからのことを、神さまから与えられたものとして受け取っていかれるのです。それはイエスさまの為ということ以上に、「わたしに与えて下さった人々」のための祈りでもあるのです。
わたしに与えてくださった人々のために、イエスさまは祈られるのです。
それは、イエスさまに対して、良くしてくれたからか?「彼らは、御言葉を守りました」の通り、守ったからかというと、その反対です。人々は、イエスさまが十字架にかかられるその時、イエスさまを助けようとしたどころか、イエスさまを裏切り、イエスさまから離れ、イエスさまを十字架に付けていく人々です。イエスさまがおっしゃられたことを守ったわけでもありません。みことばを守ったとはとても言えない彼らです。イエスさまが、神さまから遣わされたものであることを、今、信じていない彼らです。でも、イエスさまは、「わたしに与えてくださ」った人々だから、御言葉を守った人々だから、と受け取って、その人々を覚えて祈るのです。
自分に対して、どんなひどいことをしたとしても、それでも、神さまが与えてくださった人として受け取っていくこと、どんな状態であっても、信じていくこと、これは大切なことであると同時に、こんなに難しいことはないですね。与えられた人は、神さまから与えられた人だと受け取っていくことは、わたしたちにとっても、時と場合によって、またその内容によってはとてもじゃないけれども、そうは受け取れないことがあります。
そういう出会いがありますね。出会うその人は、自分が出会ったその人です。と同時に、神さまが与えて下さった人でもあります。あるいは神さまが与えようとされる方と出会うことでもあります。「わたしに与えてくださった人々」です。でも時には、神さまがせっかく与えて下さっている人を、神さまから与えられた人として受け取れないこと、受け取りたくないことがあるかもしれません。関係を切りたい出会いであるかもしれません。
たといそうであっても、イエスさまが自分を十字架に付けていく人々を神さまから与えられた人として受け取り、その人のために祈っていかれるのは、わたしたちが祈れない出会いがあっても、そこにイエスさまが祈りをもって立っていてくださるからです。わたしたちには祈れない出会いであっても、その真ん中にイエスさまの祈りと赦しの十字架があるのです。「彼らのためにお願いします。世の為ではなく、わたしに与えて下さった人々のためにお願いします。彼らはあなたのもの、神さまのものだからです」と、祈れない時にも、祈れない私たちと神さまとの間に立って、「彼らを守ってください」とも祈っておられるのです。
そこまでイエスさまがされるのはどうしてでしょうか?それはイエスさまが、命をかけて、命をささげるほどに、私たちを大切にして、赦してくださる神さまだからです。それが十字架において現わされているのです。そういう意味で、十字架というのは、教会のシンボルであると同時に、神さまの愛と赦しが十字架を通して、あらわされ、指し示されています。教会に十字架があるというのは、そういうことです。
それは何を通して、ああそうかと分からせていただけるのかというと、聖書です。聖書全体を通して、聖書の言葉の中に、イエスさまの十字架の愛と赦しが確かにあるんだということを、神さまは与えていて下さるのです。ただですね、聖書は分厚いですよね。創世記からヨハネ黙示録まであり、ページ数では千数百ページ、2000ページ近い分量です。それぞれに人が出て来て、いろいろな出来事も記されていますが、その中心は何かというと、イエスさまの十字架の愛、十字架の赦しです。それが聖書全体を通して、貫かれているのです。その言葉を受け取らせていただいた時、私はここにいていいんだ!わたしはわたしでいいんだ!人を傷つけ、自分を傷つけ、人を受けいられず、自分をも受けいれられないでいても、そんなわたしを命をかけて、愛し、赦して下さるお方がいらっしゃるということを、与えてくださるんです。
ある牧師先生に中学の時出会いました。もうすでに80代でいらっしゃり、戦時中、投獄と尋問などを受けたことなど、伺ったことがありました。日本基督教団隠退教師でありながら、巡回であちこちの教会に招かれておられましたが、その先生が、通っていた教会に礼拝説教奉仕で何度か来られました。最初に伺った時、びっくりしました。というのは、この先生の説教は1時間をゆうに超えるんです。次から次へと語られる説教の間に、時々手を叩かれるんです。ある時、たたいた手がマイクに触れてしまって、こっちむいていたマイクがあっちをむくようになっても、そんなことを気にせずに語り続けられていました。礼拝の終わりにされる祝祷も文語でされていました。「仰ぎこい願わくば、主イエス・キリストの恵み、父なる神のご自愛、聖霊のしたしきおん交わりが汝らと共に、豊かにあらんことを!」圧倒されました。その中で、ご自分がキリスト教に触れたこと、そして信仰を持つようになったきっかけを話されたことがありました。お若いころ、いろいろな出来事の中で、自分自身が本当に情けない思いでいた時、キリスト教の集会に顔を出され、説教者を通して、聖書のお話を聞きました。その説教者から、イエス・キリストというお方は、あなたを責めるために来たのではない、イエス・キリストはあなたを愛していらっしゃる!と語られた時、その説教者の指し示した指が、自分を指さしていたこと、そのことを聞いているうちに、心がふっと軽くなったような気がして、イエスさまを信じるようになったということに触れながら、満面の笑みで、おっしゃいました。イエス・キリストは、あなたを愛していらっしゃる!ほんとですよ~とキリストはあなたを愛していらっしゃる!本当ですよ~と手を叩きながら、言われた時の、満面の笑顔を忘れることができないのです。
イエスさまは、あなたを愛していらっしゃる!ほんとですよ~そのお方は、あなたのためにいつも、本当に祈っていてくださいます。神さまであるイエスさまに祈られていること、どんなことがあっても、どんなあなたであっても、覚えて、本当に祈って下さるお方がいらっしゃいます。