2022年4月17日礼拝 説教要旨

「ない」というところから(マルコ16:1~8)

松田聖一牧師

 

悲しい時ってありますね。悲しくて、悲しくてどうすることもできない時があります。そんな時、悲しみをぬぐいたくても、ぬぐおうとしても、悲しみを乗り越えたくても、なかなかできません。あるいは悲しいという気持ちを表現することすらできないこともありますね。それでも何かの形で、自分の悲しみを表したいとも思うものです。

 

マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメというこの3人の女性も、悲しみに暮れていました。大切なイエスさまがいなくなってしまったからでした。三日前に十字架にかけられ、極刑に処せられ、その上で息を引き取られ、そのイエスさまを目の当たりにし、悲しみで胸が張り裂けそうだったかもしれません。そんな悲しみを抱えながら彼女たちが「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」のは、香料をイエスさまの遺体に塗って、自分たちの悲しみを何とか表そうとするのです。悲しみが癒されるわけではもちろんありません。でも彼女たちにとって、自分たちの抱えていた悲しみを、抱えたままだと、自分たちがどうにかなってしまうのではないか?それでいて悲しみを、自分でもどうすることもできない中で、イエスさまの遺体に塗るという行為に、自分たちの張り裂けそうな悲しみを、そこに表そうとし、そのために行動に出るのです。それが「安息日が終わると」すなわち土曜日の日没と共に、香料を買うために動き出すのです。安息日の日は日没まではお店が開いていませんが、日没と共に開店します。それで買いに行けます。しかしその香料のお値段はというと、大変高価です。一つの大きな財産になるほどの価値があります。

 

そんな香料を、イエスさまの遺体に塗るために買いに行ったわけですが、そもそもイエスさまの遺体まで行くことができるのかというと、この時点ではできないことが彼女たちにも分かっているのです。というのは、イエスさまの遺体が納められていた墓、横穴だったとも言われていますが、そこには大人が10数人かかって動かせるかどうか・・・という石が墓の入り口に置かれているからです。男性の大人であっても、それくらいの人数がいるのに、今ここには3人しかいません。女性3人で、どうしてその石を転がせるかというと、出来ません。彼女たちの手には負えません。不可能です。ということは、イエスさまのおられるところに辿り着けませんから、彼女たちが香料を塗って、悲しみを表そうとしても、表せないことになります。そうなると悲しみを抱えたままですから、せっかく香料を買いに行っても、無駄足と言いますか、何にもならないのではないでしょうか?その思いを彼女たちは、お互いに向かって「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合うのですが、それしかできないのです。お互いに、だれが転がしてくれるだろうか。だれもいない、どうすることもできない、わたしたちでは何もできない、その思いを言葉にして、出来ないという思いに、言葉を与えて、そしてそれをお互いに言い合うしかできないのです。それで解決できるわけではもちろんありません。でもできないという思いを、お互いに言うしか、ないのです。

 

「ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった」目を上げて見ると、神さまを見上げて、神さまを仰ぎ見るとき、お互いにできないという思いであった、彼女たちに与えられたのは、「石は既にわきへ転がしてあった」のでした。

 

この出来事をどう受け取ったか?神さまがしてくださったとか、神さまが転がして下さったのだ、といった言葉はありません。でも誰が転がしてくれるだろうか、いや誰もいない、だれも転がしてはくれない、という答えを出していた彼女たちに、彼女たちの答えとは真逆の答えが与えられていたのでした。

 

そのように、私たちがもうできない、わたしたちには何もできない、どうすることもできないという「ない」としか思えない、言えない時、それが私たちの出した答えです。その答えをお互いに、言い合うしか、話し合うしかできません。でも神さまがないという答えであっても、「ない」ままにはしておかれないんです。どんなに大きな石であっても、動かせないことであっても、神さまが動かして下さる時には、それは動きます。私たちにはできないことであっても、神さまが動かされる時、動くのです。ただそのことを、神さまがしてくださったとすぐに分かるようになるかというと、分からないことも多いです。むしろ、動かない、動かせない、「ない」という答えしかない中では、動いても、ただ不思議だとか、驚くしかないかもしれません。

 

そんな彼女たちに、語られたのは「驚くことはない」驚いている彼女たちに、「驚くことはない」すなわち、ひどく驚くことはない、愕然となる事はない、です。この言葉は、単に驚くな!と驚いている彼女たちを、頭ごなしに否定しているのではないのです。確かに驚くことはない、ですから、ひどく驚いて、愕然となっていることは、そんなことはないと返していますが、そうなっている彼女たち自身を、全部否定しているのでもないのです。つまり、驚くことはない、には、彼女たちが今、ひどく驚いていること、愕然としていること、をそうではないと返しながらも、そうなってしまっている彼女たち自身を全部否定しているのではないのは、そうなってしまった理由を抱えた彼女たちがそこにいるからです。

 

あるお家で、小さい子供が、家で走り回ってバタバタしていました。マンションでしたから、お母さんは、下の階に音が伝わるんじゃないか?迷惑をかけているんじゃないか?苦情が来るんじゃないかと思うとたまりませんでした。それで走り回っているその子に、ダメじゃないの~走ったらだめ~ダメ!とダメダメを繰り返しました。するとその子はますます言うことを聞こうとしなくなり、余計に走り回り、泣き出し、騒ぎ出してしまいました。それで途方に暮れてしまったお母さんですが、ふと保育に携わっておられる先生からいただいたアドバイスを思い出しました。それはその子の気持ちになってあげたら~というものでした。そこで頭を少し冷やして、こう言いました。「走るの楽しいよね!」「もっとやりたいんだよね」「いっぱい走りたいよね」「もっと早く走りたかったんだよね」と、思いつく限り、「もっと走りたかった!」というその子の気持ちを代弁してあげました。そうすると、その子は「自分の気持ちを理解してくれた!」という気分になって、泣き止み、さっさと次の遊びを始めました。泣いてたのがうそのように、ケロッとして。次の行動に移ることを始めたのでした。

 

驚くことはない。それは彼女たちを全部否定しているのではなくて、彼女たちが驚いていることは確かだけれども、その驚いているその理由、その気持ちに合わせながら、ひどく驚いていること、愕然としていることに、とどまらせようとするのではなくて、次へと繋げるために語るのです。それが「あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜している」です。彼女たちは、墓の中にいるはずのイエスさまがいないことに、愕然とし、ひどく驚きながら、イエスさまがどこに行ったのか?誰かに連れ去れたのか?どうなったのか?と思いながら、必死で捜しているのです。捜索しているのです。その彼女たちの状態に寄り添いながら、そこでとどまるようにするのではなくて、次の出来事「あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペテロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。次へと導こうとするのです。

 

この言葉の内容は、イエスさまはここにはおられない、いない、ということです。その事実を彼女たちに、御覧なさいと、口先だけではなくて、実際に収められていた場所を見せて、イエスさまの遺体が「ない」ということを見せていくんです。彼女たちはそれを目の当たりにします。イエスさまの十字架の死を目の当たりにした彼女たちは、イエスさまが墓にいない事実も目の当たりにするんです。でもいないという事実から、すぐにはできなかったけれども、彼女たちに、弟子たちとペテロに、イエスさまはあなたがたより先にガリラヤへ行かれること、そこでお目にかかれることを伝えるように、これからを与えてくださるんです。でも彼女たちは震え上がっています。正気を失っていました。恐ろしかったから、だれにも言わなかったのです。それは確かです。

 

それでも彼女たちに与えられたことは、イエスさまがいない、のではなくて、「そこでお目にかかれる」こと、ガリラヤでまた会えるという希望が与えられたのでした。

 

それまで彼女たちには、ない、ないづくしでした。しかし神さまは、ないないづくしで終わるのではなくて、またお目にかかれる、また会えるという希望が、ないのではなくて、あるんだということ、に導いてくださったのでした。もちろんこの時点では彼女たちは、分かりましたと納得しているわけではありません。墓を出て逃げ去ったくらいですから、彼女たちにとっては恐ろしかったこと、正気を失っていたこと、それしかなかったと思います。でも逃げ出した彼女たちであっても、神さまは、それまでのないないではなくて、「ない」ということの中で、イエスさまに会えるという希望の言葉が与えてくださったのです。

 

私たちにとっても、ないということばかりがあると、何もかもがない状態、希望も、これからもないという状態になります。この先、真っ暗、この先に希望はないと思ってしまいます。しかし神さまが与えてくださるのは、ないではない、ある、です。ないで終わりではなく、ないということから、ある、へと変えられていく希望が与えられていくのです。

 

教会学校でよく賛美した歌があります。それは「忘れないで」という賛美でした。ギターに合わせて良く歌いました。

 

忘れないで

忘れないで いつもイエス様は 君のことを

みつめている だからいつも たやさないで

むねのなかの ほゝえみを だけどいつか 激しいあらしが きみのほゝえみ

ふきけすでしょ だからいつも はなさないで

胸の中の みことばを

忘れないで 悲しみの夜は 希望の朝(あした)に

変わることを。 だからすぐに とりもどして

いつもの君の ほゝえみを

 

悲しみの時、希望がないと思ってしまうでしょう。しかし希望がないと思ってしまう、悲しみの夜は、悲しみの夜で終わるのではありません。希望の朝、希望のあしたに、必ず変えられます。それでも夜は確かに来ます。でも夜で終わりではなくて、夜の後には、朝がやってきます。イエスさまが甦られて、生きておられること、イエスさまとまた会えるという希望は、悲しみの夜から、希望の朝へと変えられていく、その出来事と繋がるのです。イースターおめでとうございます。復活の主は、生きておられ、私たちに絶望ではなく、夜から朝へ、よろこびの朝へつながる希望を与えてくださいます。

説教要旨(4月17日)