2021年11月28日 礼拝説教要旨

決して滅びない(マルコ13:21~37)

松田聖一牧師

私たちの身の回りには、いろいろなものがあります。そのいろいろある中で、信じていいものと、信じてはいけないものがあります。例えば、オレオレ詐欺と称する詐欺は、信じてはいけないものです。信じたらえらい目に合ってしまいます。ところが、信じたらだめですよと言われているのに、信じてしまうことが事例としてあります。でも信じてはいけないのです。ところが、信じてはいけないものなのに、信じていいと思ってしまうのが、人間の姿でもあります。

 

イエスさまは、今日の聖書の御言葉を通しても、信じてはいけないことがあるとおっしゃいます。「見よ、ここにメシアがいる」「見よ、あそこだ」と言う者がいても、信じてはならないのです。でも信じてはならないと言われても、ついつい、知らず知らずの間に、信じてしまう出来事があるからこそ、信じてはならないとおっしゃられるんです。それはその人が、ついつい信じてしまうからというだけではなくて、疑いも何もなく、ついつい信じさせてしまう、惑わそうとする者がいるからです。惑わす者は、本当に惑わします。迷わせていくのです。

 

では惑わす者とは誰を指すのか、それがどこで、どのように惑わそうとするのかというと、(1)立ってはならない所に立つ、と言う言葉にあります。立ってはならない所とは祭壇のことです。その祭壇には、神さまから正規に召された祭司しか立つことはできません。旧約聖書の中にも、神さまからあなたは祭司だと言われていない人が、祭壇に立とうとして、あっという間に神さまからだめだとされた人がいました。そのように、本来立つべき人ではない人が立ってしまうということです。

 

でも立ってはいけないところに、なぜ立とうとするのか?それは権力が欲しいからです。権力を持ち、自分のやりたい放題にしたいという欲望、全てを自分のものにしたいという強い強い欲望があるからです。そんな欲を持った権力者は、どんな手段を使ってでも、欲望を満たすために、ありとあらゆることをしようとします。ですから権力者、偽預言者と言う方にはそういう共通点があります。神さまから正式にあなたは祭司ですよと認められていないのに、自分で自称祭司とか、自称預言者と言っていくのです。

 

時々、何かのニュースになるとき、その当事者の名称が、自称何とか・・と字幕で出ることがありますね。自称というのは、自分ではそう言っていますが、周りはそうは認めていないということです。そういう自称メシア、自称預言者という人がいました。権力を持ちたいがために、周りから称賛を得、ありとあらゆるものを手に入れたいという強烈な欲望を持つ人がいたのです。それくらいに欲を持っていますから、祭壇に立って権力者や偽の預言者がそこから何か語れば、聴く側は、神さまからの言葉として聞くところから、聞く形となり、その言葉は、間違いない、信じていい言葉として聞こうとするかどうかは分かりませんが、そこに立ってはいけない人、神さまの言葉を取り次いではいけない人が、神さまの言葉を取り次ぐところに立って、そこから語るとき、神さまの言葉ではない内容であっても、欲望を満たすために語り始めると、その欲望に聞く側は巻き込まれてしまうのです。自分でも気づかないうちに、知らず知らずのうちに、巻き込まれてしまうのです。そして自分がどういうところに置かれているのかが、分からなくなるのです。そういう意味で憎むべき破壊者というすごい名称がつけられていきます。

 

では惑わせるその内容は何かというと、「見よ、ここにメシアがいる」とか「見よ、あそこだ」という言葉です。「見よ、ここにメシアがいる」とか、「見よ、あそこだ」という言葉に共通することは、目に見える事柄です。目に見えるもの、目に留まるものです。そういう目に見えるものを見よ、と言う言葉を聞かされていくうちに、聞く側は惑わされてしまいます。それは何かのしるしや、不思議な業と言う表現であらわされている内容もそうです。見えるものばかりです。この目で見て、すごいと思わせてしまうものと言えるでしょうが、それを見てしまう時、見続けてしまうと、惑わされていくのです。それも「選ばれた人たちを惑わそうとするからである」とおっしゃっている通り、神さまを信じて、イエスさまを信じている人たちを惑わそうとすることがあり、それがあるから、惑わされるのだということを、おっしゃっているのです。不思議な感じがします。もうすでに信じていたら大丈夫じゃないかと思うところですが、イエスさまは、神さまを信じて、イエスさまを信じておられる方々に向かって、惑わそうとするから、だから「あなたがたは気をつけていなさい」一回気をつけたらそれでいいというのではなくて、「気をつけていなさい」気をつけることを、継続して、ずっと気をつけていなさいとおっしゃられるのです。それはいつも気をつけていなければいけないことだということ、いつも惑わされる可能性があり、惑わす何かがいつもあるということ、一回キリではなくて、これからもあるということをイエスさまは分かっておられるので、気をつけていなさい、気をつけていなさいと、語られ、「一切の事を前もって言っておく」とおっしゃられるのです。

 

それは(24)以下にあるような出来事が起きた時にも気をつけていなさいが続きます。太陽が暗くなることも、月が光を放たないこと、星は空から落ちること、天体は揺り動かされるといったこと、と表現されていますが、それらのことが具体的にどんなものであるか、様々に言われています。日食ではないかとか、月食ではないかとか、流れ星、すい星ではないかとか、いろいろ言われていますが、それらのものも、見えるものです。見えるものとして映ります。

 

そんな見えるもの、見える出来事、見える現象が起きた時、見えるものに、心が奪われてしまうのです。惑わされてしまいます。

 

神戸の震災のことを振り返る時に、一つ惑わされてしまったことがありました。それは震災が起きたのは1995年1月のことでしたが、同じ年の秋ごろだったと思います。実家に帰った時だったか、神戸から別の所に行っていた時、車を運転中、ラジオを付けました。すると、ラジオのアナウンサーすごいテンションで、「ビルが傾いています!大きく壊れています!阪神高速が横倒しです!JRの高架も落ちています!建物が倒壊しています、火事が起きています!」といったことを、緊迫感を持ってしゃべっておられました。それを聞いた瞬間に、私は、また神戸で大きな地震が起きた!えらいこっちゃ!とびっくりして叫んでいました。どこで地震が起きたのだろう?震源はどこか???と思いながら、他のラジオ放送局を聞こうとしましたら、普通でした。変化なく、普通でした。あれ?おかしい?と思いながら、またNHKのラジオに戻りましたら、その最後に、アナウンサーがこんなことを言われました。「ただ今の放送は、阪神大震災が起きた直後に実況しましたものの、再放送でした。もうあれから数カ月たちますが、大変な地震と災害でした~」と言った瞬間に、なあんだ!という思いと、自分自身が完全に勘違いしていたことに気づかされたのでした。今起きていないのに、起こった時の実況の再放送だったのに、今起きた!今起こっている!と勘違いしていました。勘違いさせようとしたわけではありません。放送局が惑わせようとしたわけでもありません。でもこちらが惑っていました。勘違いしていました。

 

今起きているわけではないのに、起こったことが目に焼き付いていたのでしょう。それが実況を聞いた途端に思い出されて、今、起こった!となってしまったのだと思います。見える現象が起きた時、それが大きいものであればあるほど、その時だけではなくて、後々まで続いてしまうものですね。そういう側面もあります。

 

でもイエスさまは、そんな見えるものではなくて、もちろん見えるものは、見るし、見てしまうし、後から思い出して、その光景が今は何にもないのに、見えてしまうこともあるのですが、イエスさまがおっしゃっておられることは、見えるものは確かに見えるし、見るし、見てしまうけれども、それだけではなくて、見えるもの、見える出来事の背後には、目には見えなくても、確かに共におられる神さまがいらっしゃること、神さまが見える凡ての事も含めて、神さまの手の中に収めておられること、そして、いろいろな見えるものを、見てしまい、惑わされてしまう時にこそ、イエスさまが近くにおられること、それらのことを悟るように、そしてそば近くにおられる神さまから聞くように。神さまの言葉を聞くようにとイエスさまは導いてくださるのです。だからこそイエスさまは、わたしの言葉とおっしゃられ、その言葉、「わたしの言葉」を受け取るようにとおっしゃられるのです。

 

YMCAで働いておられた方の娘さんが、お父さんの召されてから2年経った後に、その時のことを振り返りながら、こうおっしゃっていました。

 

私の父はかつてYMCAで働いていました。私も幼いころからYMCAのキャンプに参加し、幼心に父の働く姿をあこがれを持って眺めていたように思います。父はまじめな人で、あまり自己主張するタイプではありませんでした。仕事が終わるとまっすぐ家に帰り、休日は家族サービス。私は父には友人が少ないのだと思っていました。

そんな父も2年前に天に帰りました。進行性胃がんでメタボ気味だった父の体はみるみるしぼみ、もともと少なかった髪も抜け、以前とは別人のようになってしまいました。

ある時、病状が悪化して危険な状態になり、YMCAの方に母が連絡をしました。するとその日から、かつての仲間たちが毎日続々と病室を訪ねてくれたのです。見舞客に会う時、父は今の自分の姿を全く恥じてはいませんでした。訪れた方々もまるで同窓会で父に会ったように親しく励ましてくれ、ときには騒ぎすぎるくらいでした。懐かしい友に会った父は、元気を取り戻し、危機を脱することができました。私は父の入院によって、これまで知らなかった父の一面を初めて知り、なんだか救われたような気がしました。

昔、私は父が洗礼を受けた理由を聞いたことがありました。父は、自分が高校時代に弟が病気で死にかけたことがあり、それがきっかけだと話してくれました。ところが教会や父に反発していた私はその理由がとても単純でつまらないもののように感じ、笑ってバカにしたのです。今から考えるとなんと傲慢なことだろうと思います。人が死ぬということ、病気になるということ、そのリアリティや本質を何も分かっていませんでした。

父は最期に、神さまは確かに共にいて必要な助けを備えてくださる方であることを証ししてくれました。信仰の友、そして孤独な夜に安心を与えて下さるイエス・キリストの存在。父の闘病を通して、私も改めてこの神さまの救いに目が開かれた思いでいます。

 

そして聖書の御言葉が添えられていました。「主の山に備えあり」

 

目の前の見える姿、見える出来事、見える変化は、もちろん私たちの目に入ってきます。その時、惑わされたり、揺れ動いたりします。見えるものだけを見続けてしまうとなおさらです。しかし、見える出来事の背後に、また見える事柄のすぐそばに、神さまが確かに共にいてくださり、必要な助けを与えてくださいます。安心を与えてくださいます。時には、山に登らなければならないことがあったとしても、辛くて、苦しい目に見える出来事があったとしても、そこにも神さまの備えがあること、神さまが必要なものを、その目に見えるいろいろなことの中で、共にいて必要を満たして下さることを与えて下さっています。それに目が開かれるように、それが分かるようにと、イエスさまは、決して滅びないわたしの言葉、聖書の言葉「主の山に備えあり」を与え続けておられます。

説教要旨(11月28日)