2021年11月14日 礼拝説教要旨

自分のことに気をつけて(マルコ13:5~13)

松田聖一牧師

 

小学校4年生の時のことです。いつものように学校に行きましたら、クラスの友達が皆大騒ぎでした。何を騒いでいるのかというと、昨日夜、気持ち悪くて大変だった~昨日食べた給食で大変だった~~と大騒ぎでした。そのうちに、他のクラスを回って来た友達がまた大騒ぎしました。「おい!あそのこのクラスは半分くらいがお腹を壊して休んでいるんだって~」昨日の夜、お腹壊して大変だった~大変だった~と口々に言っていました。その中で、私自身はどうだったかというと、給食もおいしくいただいて、お代わりまでしました。おいしい、おいしいと言って、お腹いっぱいに食べていましたが、何ともありませんでしたが、その日全校生徒の内400人くらいが、お腹を壊したということで、欠席。夜にお腹を壊したけれど、翌日は良くなったので学校に来ていた友達もいましたが、結局その日は授業になりませんでした。自分自身は何ともない、日常と同じでした。ところが周りの友達が、次々と大変だった~大変だった~気持ち悪くなった~と騒ぎ立てていく、その声を聞き続けていたら、だんだんと自分自身も気持ち悪くなってきまして、その日早退してしまいました。でも家に帰る道すがら、何ともなくなってきましたし、お腹も何ともありませんでした。おそらく周りの騒ぐ声で、何ともなかったはずなのに、それに影響されていたのだと思います。そしてその日の夜のニュースにも放映され、保健所の調査もありましたが、結局原因が全く分からないままに終わってしまった出来事でした。

 

そのように自分自身は何ともなくても、周りが騒ぎ出すと、それに振り回されるというか、影響されてしまうことはあると思います。

 

イエスさまの弟子たちも同じようなことを経験します。それは神殿の崩壊をイエスさまがおっしゃられた時のことです。その建物は素晴らしい建物でしたが、イエスさまは、それがやがて壊されるということをおっしゃられた時、弟子たちは、いつ起こるのか?どんな徴があるのですか?とイエスさまに尋ねていきます。

 

その時イエスさまがおっしゃられたのは、「人に惑わされないように気をつけなさい」です。この言葉を詳しく見ていきますと、あなたがたを惑わし、横道にそれさせているもの、人も含めての何かを、あなたがたは見るのをやめなさいという意味です。

 

しかも、横道にそれさせているもの、人も含めての何かを、あなたがたはもうすでに見ているという出来事があって、それをそれ以上に見るのをやめよという意味でもあります。つまり、人に惑わされないように気をつけなさいとイエスさまがおっしゃられる前から、弟子たちは、もうすでに彼ら自身を惑わすもの、迷わせるものを、見ているということです。もうすでに見ているから、イエスさまはそれに気づいておられて、そこから離れさせるために、あなたがたはもうすでに見ていることを、やめよとおっしゃられるのです。

 

気になる時には、気になるものを、気になっているでしょうと言われる前から、気になっています。それを見ています。では、その気になるものを見ないで、放っておけるかというと、いかがでしょうか?鶴の恩返しは、その典型ですね。見るなと言われたら、向こうの部屋で何をしているのか?何があるのか?その何かは分からないけれども、気になるから、気になるものを、もう既に見ています。だから見るなと言われれば言われるほど、余計に見たくなります。しかも今まで見ていたことであれば、その見るということをやめよと言われても、なかなかやめられないですね。そして、その見るという行為は、単に目に見えるものだけではなくて、自分自身の中にある思い、自分自身の中にある考え、具体的には、これからのことを考えて、思い描いていくこと、予想することもそうです。今まだ何も起きていないのに、それを見ることが続いているのです。

 

では彼らは何を見ていたのかというと、イエスさまがおっしゃられる通り(7)「戦争の騒ぎや戦争のうわさ」であり、(8)「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」ということです。この出来事は、神殿が壊されることと、その崩壊は、戦争によって引き起こされることです。歴史の中で、エルサレムの神殿が外国の軍隊によって、破壊されるということが繰り返されましたから、彼らはそれを知っていたことでしょう。その戦いの中で、お互いに敵対して立ち上がることも、お互いが敵味方に分かれて、戦い、傷ついていったことも知っていたでしょう。そして、地震があり、飢饉が起こるということについても、過去に地震もあったし、飢饉があり、食べ物がないという中で、大いに苦しんだ苦しみも知っていたと思います。そういういろいろで、壊されていった、神殿が壊されていくという出来事を見ていたのです。

 

そのこれから起こる、壊されていくこと、大いに揺さぶられる地震、ものが壊され、破壊されていく地震、いのちを揺さぶる飢饉といったことについて、彼らが、そのことの起こる前から、いろいろと聞く中で、起こった後のことを見てしまうのです。まだ何も起きていないのに、見てしまうことで、自分自身が迷うし、自分自身が横道にそれてしまうからこそ、イエスさまは、既に見ていることを、見るのをやめよとおっしゃられるのです。それだけではなくて、そういうことを見ている自分自身、見てしまう自分自身に「気をつけなさい」とおっしゃられるのです。

 

その目的と意味は何かというと、「これらは産みの苦しみの始まりである」つまり、新しい命をうみだす、産みの苦しみの始まりであるからとの通り、過去にあった大変なこと、大きく揺さぶられること、それだけを見るのではなくて、それらのことは産みの苦しみの始まりの、1つのプロセスとして、これからに向かうことのために、用いられているということになるのです。

 

産みの苦しみ、いのちをうみだす産みの苦しみから思い起こされることは、ウミガメが砂浜で卵を産むときの様子です。ウミガメは卵を産むとき、目から涙のようなものを流します。あれは卵を産むときウミガメが苦しんでいる証拠だと言われたりもしましたが、正確には苦しみの涙ということではないようです。でも見る側としては、沢山の卵を砂浜に産み付ける時に、涙を流しながら、痛み、苦しみながら、卵を体の外に出しているのではないかという、少し感傷的になるシーンです。それはそれとして、いのちをうみだすということは、それまで命がなかったところに、いのちをうみだすということです。それまでは命がそこにはありませんでした。でもそこに命が生み出されるとき、そこには命があり、いのちが増し加えられていきます。

 

その命を産み出す産みの苦しみの始まりが、破壊され、壊され、敵対し、揺さぶられ、いのちの危険を通らされることすべてにおいてあります。見方を変えれば壊されて、ない、なくなった、苦しみで何もかも終わってしまった、もう何もない!もう終わりだ!で終わりではなくて、それすらも、新しい命を産み出す始まりとして、用いられているということではないでしょうか?

 

確かに、それまでなかったところに、何かをおこしていくということは、ものすごいエネルギーがいることです。それこそ産みの苦しみを経験します。それは会堂を新しく建てるということにもつながるように思います。建物もなかったところに、産み出すのです。ゼロから産み出していくのには、苦しみが確かにあります。しかしその苦しみは、苦しみで終わるのではなくて、新しい命が生まれるということのための、苦しみです。

 

しかしその産みの苦しみに携われば携わるほど、自分自身が揺さぶられます。

苦しみます。とんでもないところに引っ張り出されて、傷つく経験もします。身も心も本当に傷つくのです。それだけを見たら、何の意味があり、何の価値があるのかと首をかしげてしまうし、これは価値のあることだなんて、とても言えないことです。けれどもイエスさまは、新しい命を産み出すために、弟子たちだけでなく、私たちにも、いろんな苦しいことを与えながらも、苦しみで終わらせるお方ではなくて、新しい命を産み出す出来事へと導かれる中で、「証しをすることになる」いろいろあったし、いろいろある、苦しみを経験しました、辛い所を通らされました。でも、それによって、イエスさまが証しされていくのです。イエスさまがどんなにわたしを大切にしてくださっていたか、どんなに愛してくださっていたか、どんなにつらい中にあったとしても、お守りくださっていたかということを、証しすることになるのです。

 

そういう時に、何を言ったらいいか?証しらしい言葉が出るかというと、それどころではないかもしれません。しかし、イエスさまのことを、イエスさまがしてくださったことを証しすることになるとおっしゃられる意味は、私たちにそれらしい言葉をしゃべることすらできないような中にあっても、何をどう言っていいのかわからなくても、苦しい苦しいだけの只中にあっても、何を言おうかすら考えられなくても、神さまが語ってくださいます。神さまがどんなに素晴らしいことをしてくださったか!そして今もどんなに素晴らしいことを、してくださっているか!を神さまが語ってくださいます。

 

その語られる神さまを受け取り続けることを通して、今は苦労ばかり、苦しみでしかない、それしか見えない中にあっても、やがては夜明けが来ること、必ず朝が来ること、そのことを待ち望めるように、支えてくださいます。

 

忘れないでという賛美があります。「忘れないで いつもイエスさまは きみのことを見つめている だからいつも絶やさないで 胸の中の 微笑みを。だけどいつか 激しい嵐が 君の微笑み 吹き消すでしょ。だからいつも 離さないで。胸の中のみことばを。忘れないで 悲しみの夜は 希望の朝に変わることを。だからすぐに 取り戻して いつものきみの ほほえみを。」

 

悲しみの夜は 希望の朝に、神さまが変えてくださいます。希望の朝が来ます。喜べる朝が来ます。そのことを忘れないでと、今日もイエスさまは私たちに語り与えておられます。

説教要旨(11月14日)