しるしを見せてください(マタイ12:38~42) 松田聖一牧師

 

ある年の教会学校キャンプでのことでした。夜皆で礼拝堂に布団を敷き、寝る準備をしていた時です。一人のお母さんが私に尋ねました。「あのう~十字架に足を向けて大丈夫なんでしょうか?」「十字架に足を向けて、寝てもいいんでしょうか?」十字架をご神体か何かと思っておられるようでしたから、「いえいえ、十字架はご神体ではなくて、シンボルですから、足を向けても、足を向けて寝ても大丈夫ですよ」と答えたことでした。その時気づかされたのは、十字架をご神体と思って、この十字架に向かってお祈りしたり、十字架が神さまの代わりのように受け取られる方がいるということでした。

十字架は見えます。でも十字架はご神体ではなくて、十字架を見て、十字架を通して、神さまを、神さまでありイエスさまを感じて、受け取って、イエスさまを思い起こしていく、そこにつながる1つのシンボルです。

 

一般的には、見える対象があって、それに向かってお祈りしたり、拝んだりすることの方が、わかりやすいです。人にとって、頼っている存在、よりどころとしているものが、見える対象であれば、こっちに向かってお祈りすればいいんだということにつながります。でも逆に見えない対象に向かってお祈りするということは、わかりにくいことと言えるでしょう。だからこそ、教会に来られる方々や、教会の周りの方々に向かって、なぜ十字架があるのか、なぜ十字架に向かってお祈りするのではなくて、見えないお方に向かうのはどういうことかを、礼拝だけではなくて、個人的な聖書の学びの時を持つことなどが必要になってくるかと思います。

 

それと同じことが、何人かの律法学者とファリサイ派の人々とイエスさまとのやり取りに見えてきます。彼らはイエスさまに「先生、しるしを見せてください」と願いますが、これは神さまが目の前で生きて働いておられることの記号や、象徴になっているような行為や出来事を、見せてくださいという願いです。つまりイエスさまに、神さまがおられることを、見える形で見せてくださいということと、もう一つは、イエスさまそのものが、まことの人でありながら、同時に人とは区別されたまことの神さまであるということを、見える姿で、見せてくださいという願いです。そういう意味では、彼らも、神さまというお方を見える形で、見たいし、見える姿で見て、確認したいのです。だから見せてください、この目で見えるようにしてくださいとイエスさまに願います。

 

このことから、私たちと神さまとの関係、イエスさまとの関係、出会いとつながりについて確認しましょう。第一に、神さまを見た人、神さまであるイエスさまを見た人は誰もいないということです。見た人はいません。見えないお方です。

この見えないお方であることから、2つの反応があります。それは見たいという方と、見えなくてよかった!と言われる方がいます。後者の見えなくて良かった!と言われた方に、その理由を聞いてみました。「そんなん、イエスさまがいつも顔を私に見せておられたら怖いですよ!私がどこにいくのにも、何もするのにも、イエスさまから、今日はどちらに行くの?とか今、何をしているの?とか顔を見せて私に言われたら、何もかも全部知っておられるお方には、すべてがバレバレだから、やりにくくて仕方なくなる!だから見えない方がいい」という理由でした。なるほどそれもそうかもしれませんね。私たちの毎日の生活の、その度毎に、いつもイエスさまが顔を見せて、今何をしているの?なんて言われたら、いかがでしょうか?朝起きて、顔がこのあたりにあって、「おはよう」と言われたら、どうでしょうか?

その一方で、見える姿で来てほしいという思いと、イエスさまが本当におられるということを、私のこの目で、確かめたい、この目で分かるようにしてほしいという願いもあります。それが自分の思い通りに見て分かるようになることばかりかというと、そういうわけにはなかなかいきません。

むしろ、いろいろな出来事の中で、見えない、わからないという中で過ごさなければならないこともあります。それはヨナが大きな魚の腹の中にいたときもそうです。ヨナは海に投げ込まれ、大きな魚に飲み込まれた時、真っ暗な中にいました。真っ暗な中で、ヨナは自分自身を振り返りながら、神さまに祈り続けたと聖書にあります。それが三日三晩とありますから、丸々三日間ということです。でもその当事者であるおなかの中にいたヨナ自身にとっては、いつ、真っ暗な状態から解放されるのか?三日たてばそうなるなんていうことは、全く見えないのではないでしょうか?見えない、先が見えないということは、いつトンネルから出ることができるのか?いつトンネルの先にある出口からの光が見えるのか?それがわからない状態ではないでしょうか? それはイエスさまと周りの方々との関係においてもそうです。イエスさまが十字架の上で亡くなられ、墓に葬られた時、それが三日三晩という、ここまでということが弟子たちや、イエスさまの母マリアや、他の人々が、分かっていたかというと、全くわかりませんでした。全く見えませんでした。でも今日、イエスさまは、「人の子もまた三日三晩、大地の中にいることになる」三日三晩で終わること、三日三晩終われば、過ぎたら、甦られて生きておられるということを、イエスさまはちゃんと見える形で、証しておられるのです。しかし、その真っ暗な状態、三日三晩ということが、わからない状態にある時には、この先も真っ暗

が続くと思います。なぜならば当事者にとっては先が見えないからです。

それは説教を聞くということも、見えないという点では同じですね。聞くということは、見えることとは別の世界です。聞くということとは具体的には、声を聞くことになります。声というのは、目には見えません。しかしみ言葉の説き明かしを通して、神さまから私に語られた言葉として、聞きます。見えないけれども、見えない声を聞くということを通して、見えない神さま、イエスさまが、与えられていきます。同じように、南の国の女王が「地の果てから来た」シェバの女王と言われていますが、地の果てから来るということも、目的地を見たわけではない状態、行く先の見えない中で、旅をすることになります。でも見えないけれども、この先には目的地があると信じて、旅をして、そしてやってくるのです。つまりイエスさまがおっしゃっておられるヨナのこと、ニネベの人たちが聞いた説教も、南の国の女王が地の果てからやってきたことも、見えない中での出来事であっても、しかし神さまは確かに、見えるようにされることが見えない中で既にあるということを、その人、その人を通して証ししておられるのではないでしょうか?

そのように、いつ、どうなるかわからないこと、いつ、どのタイミングでトンネルから出られるかわからない状態、見えない状態の中にあっても、見えない状態のままに置かれるのではなくて、イエスさまは見えない状態から、見えるように、イエスさまが生きておられることが、見えるように、ああ神さまは本当におられるのだ!ということが、見えるようにしてくださいます。だからこそ「見せてください」と願い続けるのです。見せてくださるお方に向かって、心のままに「見せてください」と願えばいいのです。

説教要旨(4月18日)