「インマヌエルの主」

加藤 智恵 牧師  イザヤ書 7章10~14節

 

 南ユダ王国は恐れにとりつかれる事態が生じました。アハズ王の治世の時に、アラムの王レツィンとイスラエル王ペカが同盟を結んで、南ユダの首都エルサレムに攻め上って来ました。北イスラエルとアラムが同盟を結んだという情報は、南ユダの王や民の心が、森の木々が風に揺れ動くように動揺したとあります。南ユダは小国でしたから、同族である北イスラエルがアラム王と同盟を結ぶなどというとは、考えただけでも恐ろしい事でした。国中が不安の虜となり、もう駄目だとユダヤ王アハズと民は思ってしまったのです。このような状況の中で、イザヤは主から一つの使命が与えられました。それは、イザヤは子どものシェアル・ヤシュブと共に行き、水路の外れでアハズ王に会い、言いなさいという事でした。子どものシェアル・ヤシュブの意味は「残された者は帰って来る」という意味です。この名前には、ユダ王国とイスラエルの復興を予期させる希望が感じられます。

 イザヤと子どものシェアル・ヤシュブはエルサレムの城壁の外側で、水道の点検をしているアハズ王に会見しました。水道管を調べていたのは、敵の来週に備えるためでした。常識的にみれば少しもおかしくない行動でした。しかし、アハズ王に欠けていたのは、神への信頼でした。南ユダは神の民でした。ですから、まず神に信頼し、神に祈るべきだったのです。私たちもただ事でないことが起こった時には、動揺してしまいますが、あわてるな、あせるな、まず祈れ、という言葉のように、まず神に信頼し祈る事が大切なのです。イザヤがアハズ王に伝えるべきことはこのことでした。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはありません」なぜならば神への信頼がある限り、神は必ずこの危機から救って下さる。アラムと北イスラエルは、燃え残りのくすぶっている切り株に過ぎない。これらはいずれは、消えて無くなるものでたいした事をすることはできない。アラムと北イスラエルが計画している悪巧みは、決して成功しないと主なる神は宣言されますが、肝腎なのは、アハズ王がこれを信ずるかどうかに掛かっています。神への信頼は、国に安定な状態をもたらし、不信仰は災害をもたらすのです。信じなければ、あなたがたは確かにされない。

 しかし、アハズ王には残念ながら、神への信仰がなかったのです。「わたしは求めません。主を試すようなことはいたしません。」という体裁のいい言葉で、誤魔化そうとしました。アハズ王は神よりも、目に見える現実を信じたのです。

 そこで主なる神は、イザヤを通して「ダビデの家よ、聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にももどかしい思いをさせるのか」と言われます。神はいつか人間が悔い改めて、神に立ち返ることを願い、期待されていたのです。しかし、人間の不信仰の罪は変わる事がないことを、神は知りました。もう、人間に期待するのを望まない。そこで神様は人間の罪の姿を知って、滅ぼすのではなく、犠牲の捧げ物をわたしたちのために与えて下さったのです。これが神の愛の本質です。

 イザヤは「わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、乙女が身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(14節)と預言します。イザヤの預言は2000年前に実現しました。神の御子イエス・キリストが乙女マリアからお生れになりました。この主イエス・キリストは人間の姿を取って来られましたが、この世で神の本質を現されました。彼はののしられてもののしり返さず、人を愛し、人々の本当の模範となられました。罪人のために御自らが十字架にかかって、犠牲の血を流して下さいました。この様な愛を誰が持ちえましょう。主は信じる者の心の中に住まわれる、インマヌエルの主なのです。

説教要旨(12月20日)