「新しい人間となる」

加藤 智恵 牧師   エフェソの信徒への手紙 5章11~20節

 

 肉の思いによって生きている人は暗闇の中を歩いています。そして、死に至る実を結んでいます。このような偶像崇拝者は、神の国を受け継ぐことは出来ません。パウロはエフェソの教会の信徒に、「彼らの仲間に引き入れられてはなりません。彼らが密かに行なっていることは、口に出すのも恥ずかしいことなのです。」と警告しています。当時のギリシャ・ローマの世界では、不品行な行いは罪深い行為とは見なされませんでした。ギリシャの世界では、愛の女神アフロディアの神殿には、娼婦がいたので、宗教と売春が結びついても、決して悪いこととは思われませんでした。コリントの教会のみならず、ギリシャやローマでは、ユダヤ人の律法のように、がんじがらめの生き方ではなく、比較的自由を謳歌していたようです。キリストの啓示の光に触れた者だけが、この闇の世から光の世界に移され、そうしたゆがめられた本能の欲求が、口にするのも恥ずかしいことだと理解するようになったのです。このような暗闇に対して、光はあらゆる善意と正義と真実の実を結びます。5章8節には、「あなたがたは以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて光となっています。」とパウロは言っています。新しい人間となるという事は、光の子となるということです。光の子となった者は、何が主に喜ばれるかを吟味しなさい、とパウロは言っています。闇の世にあって、「光の子」として歩むためには、不純なこの世のしきたりの中から、主に喜ばれるものをえり分け、賢く歩むことが求められています。

 光と闇は共存することが出来ません。光が闇を照らし出したなら、闇はその本体を暴露するばかりでなく、消滅してしまいます。神が自分に対して、何を望んでおられるのかを祈り求め、細かく心を配って神様の御心に添うように生きていくのが、光の子の生き方だと教えられます。試練や艱難が襲って来た時にも、霊によって、全生活が礼拝行為のように、神に向かって感謝を捧げるようになることが大事なのです。良いことがあると喜び、艱難があると神に不平を言うことは、ふさわしくありません。どの様な時にも、感謝と喜びを忘れない生活、それこそが新しく生きること、光の子として生きる生活なのです。どんな時にも感謝を忘れないで生きて行きたい、と思いを新たにしています。

説教要旨(9月6日)