「見えなかった者が見える者へと」
加藤 智恵牧師 ヨハネによる福音書 9章13~41節
主イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人をご覧になりました。弟子たちは「先生、この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか」と尋ねています。因果応報の思想です。主イエスは「この人は何の罪も犯していない。神の業がこの人に現れるためである」と言われました。イエスは地面に唾をし、唾を土でこねて、その人の目に塗りました。そして「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われました。盲人は言われた通りにすると目が見えるようになったのです。人々は「これは座って物乞いをしていた人ではないか」と言って驚きます。人々は目が見えるようになった人をファリサイ派の人々の所に連れていきました。ファリサイ派の人々は、どうして見えるようになったのかを尋ねました。「あの方がわたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと見えるようになったのです。」彼の答えは何と爽やかでしょう。主イエスを「あの方」と言っています。そこには感謝の気持ちが現れています。彼は目が見えるようになったのと同時に、心の目も開かれたのです。
ファリサイ派の人々は彼をののしって「我々はあの者がどこから来たのか知らない」と言います。すると、彼は「生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何も御出来にならなかった筈です」と答えます。彼は盲人であっても聖書の言葉を知っていました。この癒された青年とファリサイ派の人々を比較すると、青年のほうが語っていることが優っています。ファリサイ派の人たちは、心が盲目だったと言えるでしょう。
癒された青年が主イエスと出会ったら、主イエスは「あなたは人の子を信じるか」と問いかけます。彼は「その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが」と尋ねます。主イエスは「あなたは、もう人の子、救い主を見ているのだ」と言われました。すると青年は「主よ、信じます」と言って、主イエスの前にひざまずきます。それは礼拝をする行為です。彼は神がイエスの内におられ、働いておられることを認め、主イエスに対する全き信仰を告白したのです。
私たちには全てを御存知の主イエスがおられ、見ておられることを知っています。それは主イエスを信じる者にとって、大きな慰めです。ハバクク書2章3節には「たとえ遅くなっても待っておれ。それは必ず来る。遅れることはない」と書いてあります。今なにかを待ち望んでいる人々には、それは必ず来るのです。「たとえ、遅くなっても待っておれ」という言葉を信じることが出来れば、答えは必ずやって来るのです。