「預言者」と「予言者」は違うのですか?
『旧約聖書』には「預言者」が重要な存在として登場しますが、これは「予言者」とは異なります。「予言者」とは、事が起こる前に「予め(あらかじめ)」、「将来このようなことが起こるぞ!」と予告する者のことを指して言うのに対して、「預言者」は、神の言葉を「預かり」、これを人々に伝えるべく神によって選ばれた人のことを言います。 旧約の時代、神が御自身の意志を述べられる時には、それをまず「預言者」に伝え、「預言者」を通して民に御伝えになりました。「預言者」の言葉は、未来に関することも無数に含むだけでなく、過ちを悔い改めさせ、正しい選択と決断をするように迫るものでした。 また、預言者が油を注いだ者(聖別したもの)が王となりましたし、国政の御意見番として、特に、神への服従を蔑ろにし、民を苦しめ、国の行く道を誤らせるような王や政治家に対しては妥協することなく物申しました。 このようなわけで、預言者はしばしば王によって迫害され、死に至る者もありました。 旧約聖書の「預言者」とは、孤独の中でひたすら神の言葉(真理)に生きた人のことであります。

礼拝について

礼拝には何か持ち物が必要でしょうか?
特に必要なものはありません。礼拝で用いる聖書や讃美歌は教会備えつけのものを使うことができます。
礼拝の長さはどれ位の時間ですか?
大体1時間ほどです。聖餐式や洗礼式などがある時は、もう少し長くなります。
礼拝でする「献金」とは何ですか? いくらささげたらよいのですか?
献金とは神様におささげするもので、神様に自分をささげるしるしという意味があります。神様への感謝を込めておささげしますので、神さまにささげるという気持ちのない方はささげる必要はありません。それぞれが神さまに心を込めておささげするものであればよいので、金額は決まっていません。はじめての方は、特に気になさる必要はありません。
讃美歌を何曲も歌うのはなぜですか?
讃美歌は神様をほめたたえる歌です。讃美歌を歌うことで悩みや思いわずらいを神様にゆだねて、心を神様に向けることができます。また、讃美歌をうたうことは神様の御心であり、わたしたちは賛美の歌をうたうことによって神さまの前に出ることができるのです。
「感謝の歌をうたって主の門に進み、賛美の歌をうたって主の庭に入れ。感謝をささげ、御名をたたえよ。」(詩編100:4)
「後の世代のために このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された。』」(詩編102:19)
聖餐式はだれでも受けることができますか?
聖餐(パンとぶどう酒)は、洗礼を受けた人、もしくは幼児洗礼を受けた後に信仰告白式(堅身礼)をした人が受けることができます。洗礼を受けていない人は、聖餐にあずかることはできません。しかし、洗礼を受けている人であれば、どこのキリスト教会(教派)に所属している人でも受けることができます。

受難節・受難週・イースターとは?

受難節
2013年は、2月13日から3月30日までの46日間が受難節です。
教会では、復活日(イースター)に先立つ46日間を、キリストの十字架の苦しみと死(=受難)を思う時として大切に過ごしています。
わたしたちを罪と死の暗闇から救い出すために、犠牲の小羊として十字架の上で死んでくださったイエス・キリストを、教会では賛美し礼拝しています。

受難週
受難節最後の一週間(3月24日から3月30日まで)は、受難週と呼ばれます。
イエス・キリストが十字架につけられたのは受難週の金曜日で、その前日の木曜日にはレオナルド・ダ・ヴィンチの名画で有名な、「最後の晩餐」が行われました。
この晩餐の席でイエス・キリストは、同席した弟子たち一人一人の前にひざまずいて、彼らの足を洗われました。
身体の中で最も汚れた場所=「足」を弟子たちに差し出させ、御洗いになったこの木曜日は特に「洗足木曜日」と呼ばれます。
イエス・キリストはこのことを通して、御自身の架かられる十字架こそ、わたしたち人間の内面にある最悪の汚れ=「罪」も引き受け、赦し、清める救いのしるしであることを御示しになられました。

受難日
罪も汚れも無い神の子イエス・キリストが、全人類の罪を被って十字架に付けられ、全人類に代わって神に見捨てられる苦しみを受けて死なれた日です。ここに救いがあります。
「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」
ヨハネによる福音書19章28~30節

イースター(復活日)
天の父なる神の御心(全人類の罪をその身に背負って、呪われた罪人として十字架の上に死ぬこと)を完全に成し遂げたイエス・キリストは、3日後に復活されました。
教会ではこの日をイースター(復活日)と呼び、救いの恵みに感謝して、復活の主イエス・キリストを礼拝します。今年は3月31日(日)午前10時15分からです。どなたでも、どうぞおいでください。
イースターには卵=「イースター・エッグ」が集われた一人一人に配られます。卵は固い殻に覆われた命です。冷たく固い殻に覆い包まれた命ですが、やがて命は内側から殻を破り、雛となって出て来ます。イエス・キリストは「罪と死」という固い殻を打ち破って復活の命を現わされました。この御方を信じる時に、わたしたちも罪と死の苦しみから解き放たれて、復活の命を生きる者となります。

☆イースターの聖日(3月31日)に配られる卵は茹でてありますので、ひなが孵(かえ)ることはありません。

旧約聖書と新約聖書は何が違うのですか?

旧約聖書と新約聖書の「約」というのは契約という意味です。

天地万物の創造主なる唯一の神様は、全人類の中からアブラハムを祖とするイスラエル民族を選ばれました。それはイスラエル民族を生み、その歴史を導いて祝福し、ついにはこの民族によって全世界の全ての人間を祝福するためでした。
しかし、エジプトでの400年に及ぶ奴隷状態から解放された「出エジプト」の出来事を通して、有名な「十戒」を神から与えられたにも関わらず、イスラエルの心は神に対して頑なであり続けました。石の板に記された「十戒」に象徴される「旧い契約」は、イスラエルを本心・真心からの「神の民」とすることができず、神の祝福を担って全世界に及ぼす力をイスラエルに与えることができませんでした。

けれども神はそのようなイスラエルに対して「新しい契約」を結ぶことを告げられました。
「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。
この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」エレミヤ書31章31~34節

この「新しい契約」がイエス・キリストという御方の十字架上での死、復活、召天、聖霊降臨によって全人類に与えられたのです!
イエス・キリストを信じる者には、完全な罪の赦しがもたらされ、聖霊(=霊なる神、霊なるキリスト)が人の心の核心に宿られることによって神の御意志が人を導き始めます。イエス・キリストを信じる者は、神を深く知り、神の命に生きる者とされていきます。これが新しい契約であり、この契約は、イスラエルの民だけを対象とするものではなく、イエス・キリストを信じるすべての者に与えられる神の恵みの業です。

このように「新約」は、古い契約によっては完成しなかった神の救いの御業が、イエス・キリストによってはじめて完成されたことを示しています。
神は、すべての人をこの「新しい契約」の祝福へ導こうと望んでおられ、これを読んでおられるあなたのことも御招きになっているのです。

このように、旧約聖書は「イエス・キリスト以前の旧い契約」について記された書物であり、新約聖書は、「イエス・キリストによって与えられた新しい契約」について記された書物であります。

ペンテコステ(聖霊降臨日)とは?
イエス・キリストの復活日(イースター)から50日目に、弟子たちの上に天から聖霊がくだり、この地上にキリスト教会が誕生しました。
この日をペンテコステ(聖霊降臨日)と呼び、教会では、「クリスマス」、「イースター」同様に大切に祝って礼拝をささげます。今年は5月27日(日)午前10時15分からです。どなたでも、どうぞおいでください。
イエス・キリストの十字架の死により、全人類のために備えられた罪の赦しの恵みは、天から遣わされる「助け主」=聖霊の神の御働きを通して、信じる者の中に血肉化されます。ペンテコステ=聖霊の降臨によって誕生したキリスト教会の歴史は、同じ聖霊の神によって導かれているのです。
洗礼とは?
洗礼は、イエス・キリストを主と信じ、従っていくことを決心した者が教会に申し出て受けます。洗礼を受けることで、古い罪の自分がキリストと共に葬られて神様に赦され、復活のキリストと共に神様の子としての新しい歩みを始めることになります。洗礼によって、人は教会に加わります。そしてそのことは、人が “教会という「キリストの体」の中に入る” ということをも意味します。
「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った。すると、ペトロは彼らに言った。『悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。』」(使徒言行録2章37~39節)

クリスマスとは?

クリスマスという言葉は「キリストの祭り」という意味で、長い間待ち望まれた救い主イエス・キリストが、人間の住むこの世界に誕生されたことを喜び祝うお祭りです。

『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。』
この名は『神は我々と共におられる』という意味である。
(マタイによる福音書1章23節)

神に創造されたにもかかわらず、神に背を向けて悲惨の暗闇の中を歩む私たちのもとに、まことの光でいらっしゃる御方がその身を低くして降って来てくださった。私たちは見捨てられたのではなかった、神が私たちと共にいてくださる! クリスマスは全人類にとっての大きな喜びなのです。

聖餐式とは?
聖餐式は、イエス・キリスト御自身によって定められた聖なる礼典で、「イエス・キリストは主である」と告白し洗礼を受けた者がこれにあずかります。通常は聖日礼拝の中で執り行われます。
紀元前13世紀、イスラエル民族は、当時その身を置いていたエジプトから、指導者モーセに率いられて脱出(出エジプト)し、神が約束なさった「カナンの地」に辿り着きました。
エジプト脱出に当たって神はユダヤ人たちに、「小羊を犠牲として屠り、その血を各家の柱と鴨居に塗り、その肉を食べること」を命じます。これによって死を運ぶ天使がユダヤ人の家のみを過ぎ越してエジプトの民だけに訪れました。民族にとって大いなる救いとなったこの出来事を記念して、ユダヤ人は今も「過ぎ越しの祭り」を祝います。
イエス・キリストは、2,000年前の過ぎ越しの祭りの時に十字架に磔にされて死なれましたが、実はこの御方こそ、神が人類の罪を赦して裁きを過ぎ越すために備えられた「贖いの小羊」であります。
キリスト教会は、十字架の上でこの御方がその肉を裂かれて死なれたことにより、全人類の罪を赦して裁きを過ぎ越す聖なる血潮が流されたと信じます。そして教会は、感謝と賛美の中でパン(キリストの肉)を食べ、ぶどう酒(キリストの血)を飲む「聖餐式」にあずかり、その度毎に、救いの恵みを新しく経験し続けているのです。
ぜひ「イエスは主である」と信じ、洗礼をお受けになって、この恵みをお受けになってください。