「新しい生き方」

加藤 智恵牧師    ローマの信徒への手紙 7章1~6節

 

 人間が肉によって生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体に働きます。律法によって、罪が暴露されることになります。罪へ誘う欲情が人間の五体に働き、様々な罪のむさぼりが人間に働きます。自分では正しく生きたいと思っていても、生まれながらの人間は、罪の欲情に打ち勝つことが出来ずに、罪に反応してしまうのです。そして、死に至る実を結んでいたのです。それ程に、生まれながらの人間は罪に対して弱いのです。

 パウロは自分の体験を通して、生まれながらの弱さをこのように語っています。「内なる人」としては、神の律法を喜んでいますが、私の五体には、もう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを五体の内にある罪のとりこにしているのが分かります。私は何と惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、誰が私を救って下さるのでしょう。

 私たち生まれながらの人間には、心の法則では、正しく生きたいという思いがありますが、私たちの五体は罪の虜となってしまう性質があり、罪に勝てないのです。エバが蛇の誘惑にはまってしまったのもそのためです。生まれながらの人間には、罪がいつも付きまとっていて、打ち勝つことが出来ないのです。

 4節で、パウロは「ところで、兄弟たち、あなたがたもキリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています」と言っています。これはなんという大きな恵みでしょう。キリストの体に結ばれるということは、律法に対して死んで、キリストの物となり、もはや罪から解放され、神に対して実を結ぶ者とされたのです。

 キリストにしっかりと結びつくことによってしか、勝利はありません。自分の自己保身に生きている人は、本当にキリストに結びついているとは言えないのです。自分自身を全て神に明け渡す時に、自己保身は無くなり、キリストのために真実に生きることが出来るようになるのです。それは古い生き方から、霊に従う新しい生き方に変えられ、神に仕え、豊かな霊の実を結ぶことになります。このように新しい生き方を見つけた人は、豊かに実を結び、嘘も偽善も無くなり、正義を愛し、神に喜ばれる新しい生き方が出来るようになります。その時、キリスト教はその人にとって、喜びの宗教となるのです。

説教要旨(8月30日)