「天のエルサレム」
加藤 智恵 牧師 ヘブライ人への手紙 12章18~29節
本日の聖書個所には、旧約の礼拝と新約の礼拝の違いが書いてあります。18~21節には、旧約の礼拝の仕方が書いてあります。モーセはシナイ山で律法を授けられました。イスラエルの民はシナイ山に留まり、そこで礼拝をしました。シナイ山で行なわれたイスラエルの民の礼拝は、厳粛なものであるというよりは、むしろ恐ろしい程のものでした。「譬え獣でも、聖なるシナイの山に触れれば、石を投げつけて殺さなければならない。」(20節)という聖なるシナイの山でした。シナイ山は人々が近づくことを許さない恐ろしい山でした。人間から全く隔絶した聖なる山と神の前におののく人間の姿です。そのような言葉を聞いたなら、礼拝する者はもう2度と近づきたくないと思う程に、本当に息苦しい礼拝でした。
しかし、キリストはご自分の血という代価を払われて、シナイ山の恐怖を取り去って下さり、神との新しい関係を人々に切り開きました。「御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さいました。」(コロサイ 1:13)とあります。そのように旧約の時代と違って、神の愛の御国に移された者として、わたしたちは礼拝を捧げているのです。クリスチャンが神様を礼拝するために近づいたのは、恐れおののくシナイ山ではなく、シオンの山であり、生ける神の都、天のエルサレムなのです。「アベルの血よりも立派に語る注がれた血なのです」(20節)とありますが、主イエスの殉教の血は、アベルにまさる、また全ての殉教者にまさる尊い血なのです。
シナイの山では、神の御声が地を揺り動かしましたが、神は「わたしはもう一度、地だけでなく、天をも揺り動かそう」と言われます。天が揺り動かされた時とは、イエス様が復活された時、昇天された時です。その時に、天が揺り動かされました。そして、昇天されたイエス様が神の右に着座された時、揺り動かされない御国が、そこに厳然として存在したのです。28節には、「このようにわたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に仕えて行こう」とヘブライ人への手紙を書いた著者は、わたしたちにも呼びかけています。わたしたちの神は、わたしたちの汚れやふさわしくない所を焼き尽くして下さり、シミも汚れもない者として、御前に立たせて下さるお方なのです。この神のわたしたちへの深い愛を覚える時、どのような試練が与えられている時も、神よなぜなのですかと問うている時にも、感謝の気持ちが湧いてきます。