「イエスを本当に信じきれるか」
加藤 智恵牧師
ヨハネによる福音書 8章21~36節  ヨブ記 22章11~28節

ヨハネによる福音書では、主イエスは「わたしは  世の光である」とか「わたしは  命のパンである」と、ご自分の事をはっきりと証しています。なぜ、このように人間を恐れずにはっきりとご自分を証しできたのでしょうか。それは父なる神様が共に居られたからです。イエス様はご自分の思いを語っているのではなく、父なる神様の命じられることを語っておられるのですから、人からの証人は必要とされませんでした。律法では、2人または3人の証人が必要ですが、父なる神とイエス様は全く同じことを話しておりますから、2人の証言で真実を語っているのですから、律法違反ではありません。信仰の無いユダヤ人にとって、このようにはっきりと自己証言をする者は赦してはおけない存在でした。ユダヤ人たちは、主イエスに対する敵意の故に、イエスを永久に地上から抹殺しようとしていました。しかし、主イエスは贖いの業が成就したら、父なる神の御許へ帰ろうとしておられたのです。
「わたしは去ってゆく」という事葉に、宗教的指導者たちはイエスが自殺でもするのかと思ったのです。それは彼らがこの世の者である証拠でした。主イエスは上から来て、人間をその罪から救う贖いの業を成し遂げようとしておられたのです。
イエスは父なる神に服従されて父の言葉を語りました。「その言葉の真意は、わたしを十字架に付けた時に初めてわかるだろう」と言われました。それは「わたしはある」という自己証言です。1、イエスは永遠の実在者である。2.イエスは神と等しい方である、ということです。
ユダヤ人たちは、自分たちが罪の奴隷であるとは全く思いもよらず、自分たちは自由であると思っていました。彼らは「わたしたちはアブラハムの子孫であって、今まで誰かの奴隷になったことはありません」と言います。アブラハムは決してユダヤ人が考えているようなことはしませんでした。アブラハムは地にひれ伏して神の使いを迎えました。そのアブラハムの子どもなら、神から遣わされた主イエスを喜んで迎えたはずです。けれどもユダヤ人は主イエスを殺そうとして機会を狙っていたのです。
次にヨブ記に少し触れます。神はヨブに大きな試練を与えます。すべての財産と子どもたちを失います。そして3人の友人がヨブを励ますためにやって来ます。本日の箇所は友人の1人エリファズの助言が書いてあります。エリファズは因果応報の思想でヨブを慰めますが、それはヨブを苦しめる結果となりました。人が苦しんでいる時、本当の意味でその人を励ますことは出来ないと思います。出来ることはその人のために、隠れた所で祈ることです。ヨブは嵐の中から聞こえて来た神の声に初めて自分の非を悟ります。そして悔い改め、3人の友人の為に祈ったのです。そこからヨブは苦難から開放され、以前に倍する恵みを神から受けることになります。
神はどのような時でも、自分が苦しんでいる時にも、必ず自分のことを見守っていてくださる方です。信仰の弱い者を必ず救ってくださる方だと信じてゆくことが大切ではないかと教えられました。

説教要旨(2月9日)