「私たちが抱いている希望」  加藤智恵牧師
ペトロの手紙 一 3章13~22節   列王記 上 19章9~21節

ペトロの手紙 一 3章13節には「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう」とあります。「善いことに熱心であるなら」とは、「神を愛することに熱心であるなら」という意味です。私たちが神を愛することに熱心であるならば、誰も私たちに害を加えることは出来ないのです。ローマの信徒への手紙8章31節に「もし、神が私たちの味方であるならば、誰が私たちに敵対できますか」と書いてある通りです。神が味方なら、これほど強い味方はいないのです。また神の正しさの為に、迫害を受けるならば幸いであります。その時、人々を恐れたり、心を乱したりすることなく、心の中でキリストを主とあがめなさい。人々に私たちが抱いている希望について、いつでも弁明できるように備えていなさい、と書いてあります。
キリストは罪のために、ただ一度苦しまれました。正しい方であるキリストは、正しくない罪ある人間のために苦しまれたのです。それは私たちを神の御許に導くためでした。キリストは肉では、十字架に付けられて陰府の国まで下られましたが、そこから復活し昇天をされました。キリストの昇天は、主イエス・キリストにあって、私たちの人間性が高く引き上げられている事を意味しています。人間は本来の姿に立ち帰った自分を父なる神の右の座に居られる主イエスの内に見ます。キリストの昇天は私たちを神の御許へと導いて下さっているのです。私たちが抱いている希望は、私たちの罪の為にイエス・キリストが身代わりとなって死んで下さり、今は神の右の座に居られて、救われた私たちもまた、キリストの王座に着かせて下さっているということです。
旧約の列王記 上 19章9~21節から学びたいと思います。エリヤは神に召し出された真の預言者でした。イスラエルの王と民は堕落し、真の神を捨ててアハブ王の妃イゼベルの信じるバアルの神を信じました。そしてイゼベルにそそのかされて、アハブ王はイスラエルの預言者たちを皆殺しにして、エリヤだけが残されたのです。エリヤは非常な苦しみに遭い、命を狙うイゼベルから逃れて神の山シナイに着きました。「主よ、もう充分です。私の命を取って下さい。私は先祖に優る者ではありません」と神に願います。神はエリヤに3つの使命を与えて、「行け」と命じます。ハザエルに油を注いでアラムの王とします。イエフに油を注いでイスラエルの王とします。エリシャにも油を注いで、エリヤに代わる預言者とします。このように主は新しい王と新しい預言者を立てて、将来に備えられました。
イスラエルの民は欲に走り、度々神を裏切ってきました。その張本人であるイゼベルとアハブは犬の餌食、鳥の餌食となって死にました。しかし、神はついには報復することを辞め、人間の罪を赦すために、神の子であるイエス・キリストを遣わして下さいました。イエスが人々の身代わりとなって、人間の罪を担って下さいました。このイエスこそ私たちの希望であり喜びです。この恵みを忘れる事無く、主に従ってまいりたいと願います。

説教要旨(8月11日)