「命のパン」 加藤智恵牧師
ヨハネによる福音書 6章34~40節 出エジプト記 16章4~16節
モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの人々は、荒れ野に入ると食べ物のことで不平を言うようになった。主はこれを聞くと、「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」(出エジプト記16章12節)と言われた。モーセを通して与えられたマンナは天からの物であり、主イエスの与える命のパンの原型です。
5000人の人々に食べ物を与えた主イエスは群衆から、そして弟子からも離れて一人山に登られました。山は神に近い所です。主イエスはただ一人山に登って祈り、神との交わりを深められていたのです。主イエスは神の子であり、大きな奇跡を行なっていますが、神との交わりによって神と深く結びつき、神の御心は何なのかを、いつも心の中に保っておられたのです。その後、舟に乗ってカファルナウムに来ました。パンの奇跡に預かった群衆はイエスを捜し求めてカファルナウムに来ました。イエスを見つけると「ラビ、何時ここに来られたのですか」と尋ねます。そこで主イエスは「はっきり言っておく。あなた方が私を捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言います。群衆が「私たちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行なってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」と言います。すると主イエスは「モーセが天からのパンをあなた方に与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」と答えました。そこで彼らは「主よ、そのパンをいつも私たちに下さい」と言います。主イエスは「この私が命のパンである。私のもとに来る者は、決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言います。主イエスからパンを貰いたい。何時も、と考えて後を追ってきた群衆でしたが、信仰のない彼らにとっては、主イエスが「私は天から降って来たパンである。」と言われたので、つぶやき始めます。たわごとのように聞こえたのです。そして「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている」と心変わりをしたのです。最初は「ラビ」と呼んでいたのに、ヨセフの息子イエスではないか、と軽蔑の気持ちを込めた言葉に代わりました。人は自分の意向に合わないことを言われると、正しい事であっても聴こうとはしません。人々のつぶやきを責める事の出来ない自分を感じます。
私たちは感謝の心よりも、現実の生活の中で不平を言うことが多い者です。しかし、そのように不平を言う者の願いを神は聞き入れて下さる方です。主である神の忍耐と愛が、私たちの不満にも関わらずに願いを叶えて下さっています。しかし一方では、神は厳しく私たちを訓練し、信仰を深め、感謝の多い者として変えて下さるお方でもあります。