「長い旅の果てに」 加藤智恵牧師
ルカによる福音書  20章9~19節   哀歌  1章1~14節

主イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせていました。それを見た祭司長や律法学者たちが「何の権威でこのような事をするのか?その権威を与えたのは誰か?」と怒りにみちて主イエスに尋ねます。自分たちは宗教教育を受け、それなりの資格を持ち、民からも認められ崇められている者なのに、お前は何の教育も受けてはいないのではないか、という怒りだったようです。主イエスは「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい」と言われます。「ヨハネの洗礼は、天からの物だったのか、それとも、人からの物だったのか」という質問です。天からの物と答えれば、では、「何故バプテスマのヨハネを信じなかったのか」と主イエスに尋ねられるし、人からの物と答えれば、民衆はヨハネの洗礼は天からの物と考えていたので、民衆が自分たちを殺すことだろう、と彼らは考えました。そこで祭司長や律法学者たちは「どこからか、分からない」と答えます。すると主イエスも「何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答え、その問答は途中で終ってしまいました。
そこで、主イエスは「ぶどう園と農夫」の譬え話を民衆にします。この例え話は「何の権威で」という問いへの答えです。ある人がぶどう園を作り、それを農夫たちに貸し長い旅に出ました。収穫の時が来たので、収穫を納めさせるために、僕を農夫たちの所へ送りました。ぶどう園の主人は神のことであり、僕とは預言者のことです。ぶどう園は神と契約関係にあったイスラエル国民で、農夫たちはその指導者たちを表しています。農夫たちは、僕に何も与えずに危害を加えて送り返します。これは、指導者たちは神から送られた預言者たちに危害を加え、神の言葉を受け入れようとはしなかったことを意味しています。この譬えのように、旧約聖書ではイスラエルは神の預言者を軽んじ、辱めて来ました。そこでぶどう園の主人は自分の愛する息子を送りました。農夫たちはぶどう園を自分たちの物とする絶好のチャンスと考え、一人息子を殺してしまいました。この一人息子はイエス・キリストです。先の祭司長や律法学者が「何の権威でこのようなことをしているのか?」という問いへの答えは、主イエスは神の子ですから、当然、主イエスは神の神殿を清め、神殿で教える権威を持っています。
神はご自分の子をこの世に送ってまで、忍耐と慈愛をもって反逆する人間に時間の猶予を与えて、悔い改めさせようとしました。神はイスラエルの民たちが神に立ち帰るのを、忍耐して待っていたのです。しかし、決して立ち返ろうとはしませんでした。それは、長い長い旅の果てとも言えます。主イエスは「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった。これは主の御業、私たちの目には驚くべきこと」と詩編118編22~23節を引用します。ここで、主イエスはご自分の死と復活を暗に示し、救いの道が信じる者に開かれること、しかし、ご自分を拒む者には、イスラエルの民が滅びるほどの裁きが下されることを断言されました。実際に紀元70年にエルサレムはローマ軍によって崩壊し尽され、ユダヤ人は国を失いました。

説教要旨(4月7日)