2026年8月16日礼拝 説教要旨

お呼びだ(マルコ10:46~52)

松田聖一牧師

 

奈良県から大阪府にかけて流れる大和川という川があります。かつて大和川は汚れた川で、ワーストワンにも数えられたほどでしたが、今は見違えるようにきれいになり、アユなどが戻ってきています。その源流は奈良県にあり、奈良盆地を囲む山々から流れ出る小さな川が集まって、1つの大和川になり、大阪湾に注ぐのですが、その川の支流の1つに佐保川という川がありますが、その川で、1匹のスッポンが、川の流れに逆らって上流に向かって行く様子が紹介されていました。スッポンは上流に向かって、一生懸命に泳いでいきます。ところが途中に、水をためる場所である堰がありまして、そこを登らないといけません。それでスッポンはそこを上ろうとするのですが、川の水が上流から、どんどん流れてくるので、上っても上っても、下ってくる水に押し流されて、下に落ちてしまい、なかなか堰を越えることができません。それでもやっとのことで、上り切ることが出来たスッポンはまた、上流に向かって泳いでいきました。

 

そういう水の流れに逆らい、立ち向かっていくというのは、スッポンだけではなくて、他の魚にも見られるものですが、実際には大変です。というのは、水は流れ続けていますし、その流れを止めることができないからです。それでも上流に向かって、何度も何度も押し戻されながら、進もうとしていくのは、上流に何とかして辿り着きたい、そこに行かなければならないという、本能と言いますか、強い願いがあるからではないでしょうか?

 

それと似たようなことは、私たちにも大なり小なりあると思います。でも実際には、流れに逆らって、突き進もうとすることは、大変なことです。その姿は、今日与えられた聖書の御言葉にある、エリコという町に着いたイエスさまや弟子たち、大勢の群衆も一緒に、その町から出て行こうとされた時の、バルティマイの姿でもあります。

 

というのは、「エリコを出て行こうとされた」の「出て行こうとされた」には、水が流れ出る、水が出て行く、とか、他には火とか、雷光、稲光が出るといった意味がありますが、それぞれの動き方、性質を確認しましょう。まずは水ですが、水は一旦流れ出たら、その水を、流れ出る前の状態に戻すことはできません。また火も、ぼっと出るという意味ですから、一旦出たら、火が出る前の何もなかった状態には戻せません。稲光も、そうです。雷が田んぼに落ちた瞬間をとらえた映像を見たことがありますが、一瞬の出来事です。その瞬間、草は燃え、バリバリドーンという大きな音がしていました。その光も、ピカッと光る前の状態に、後戻りはできません。

 

つまり、イエスさまや弟子たち、大勢の群衆が「エリコから出て行こうとされた」というのは、そういうことなんです。だからもう二度と戻れないと中で、エリコから出て行こうとされたんです。

 

それは、ティマイの子でバルティマイもそうです。というのは、バルティマイについて、「盲人の物乞いが道端に座っていた」とありますが、生まれつきそうだったとは書いていません。ということは、バルティマイは、かつては目が見えていたし、自分のことは自分ですることができたし、道端での生活ではなかったんです。それなのに、人生の途中で、何らかの理由により、目が見えなくなったことで、人に物をほしいと願い、人からものを貰う生活をし、道端に座り、道端を住まいとすることになってしまったんです。そうなりたくてなったのではないんです。じゃあそうなる前の状態に戻りたいと願って、目が見えなくなる前、人にものを欲しいと願い、ものを貰い、道端を住まいとする生活になる前の状態に戻れるのかというと、戻ることはできません。なぜならば、目が見えていた時は、もはや過去のことだからです。過ぎ去ったその過去は、どんなに取り戻したいと願っても、取り戻せないんです。ましてや、その過去に向かって、今を否定し、今に、逆らっても、過ぎ去った過去に行くことはできません。どうすることもできません。

 

ところが、「イエスさまだと聞くと」誰かがイエスさまだということを言ったのでしょう、その声が耳に入った時、バルティマイは、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めるんです。でももうイエスさまは、エリコには戻れない状態で出て行こうとしているんです。しかしバルティマイは、出て行こうとする、その流れに逆らってでも、また多くの人々が彼を叱りつけて、黙らせようとしても、「わたしを憐れんでください」と叫び続けるんです。

 

その叫びは、イエスさまがエリコから出て行くということへの抵抗と、彼を叱りつけ、黙らせようとした多くの人々への抵抗であるということと、もう1つは、バルティマイ自身への抵抗ではないでしょうか?というのは、先ほども触れましたが、彼は、目が見えなくなってしまったという過去をどうすることもできない中で、それでも、ものを貰うだけ、道端で生活するだけ、の、これまでの人生、変えられない自分の過去に、抵抗し始めているのではないでしょうか?

 

イギリスで出版された1つの絵本に「もう一度やってみよう」というものがあります。その本は、今、いろいろな言葉に訳されていますが、その中に出て来る登場人物に、いろんなことをしても、うまく行かない、転んでしまったり、何かにぶつかってしまったりと、いろんな失敗の姿が描かれていますが、それでも「もう いちど やって みよう(Try Again)」という呼びかけが続くのです。その本を通して、こんな問いかけがありました。「転んだ後に、何かにぶつかってしまったり。どうして失敗って重なるんでしょう。そんなとき、みんなならどうしますか?」

 

私たちは、どうしますか?確かに、転んだり、何かにぶつかったりする時があります。その瞬間が終わった時、その出来事はもう過去のことになりますから、過去、すんだことは、どんなに努力しても変えることはできません。じゃあもう変えられないから、諦めていいのか?というと、諦めてしまうこともあるでしょうし、諦めきれないこともあるでしょう。あるいは、どうすることもできないという現実を前に、すっかり諦めていることに慣れてしまい、もう仕方がない、何をしても無駄だと言う思いに留まってしまうこともあるのではないでしょうか?でも、イエスさまは、それで終わりにさせないんです。もう一度チャンスを与えるために、イエスさまは、そのままエリコから出て行ってしまわれたのではなくて、立ち止まられるんです。そして進み出て、バルティマイを叱り、黙らせようとしていた人々に、「あの男を呼んで来なさい」『安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。』と言うんです。こんなことってあるんですね。さっきまで、この人々は、「わたしを憐れんでください」と叫んでいたバルティマイを、叱り、黙らせようとしていた人々に、「あの男を呼んで来なさい」と言われた時、人々からは、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」が出て来るんです。ただイエスさまの「あの男を呼んで来なさい」と言われた言葉は、結構辛辣ですね。「わたしを憐れんでください」と叫ぶバルティマイを、イエスさまは「あの男」と呼ぶんですから、直接イエスさまから「あの男」と言われたら、バルティマイも凹んでいまうのではないでしょうか?でも直接言わないんです。人々に言うんです。

 

ここに、イエスさまが、人々にしてくださったことが見えてくるんです。それはどんなにバルティマイを叱りつけ、黙らせようとしていても、そういう人々と、その言葉、行動を用いて、イエスさまは、これまでとは全く逆の言葉を与え、その言葉を伝える人へと、新しくしてくださるんです。それは、人々が、これまで「わたしを憐れんでください」と叫んでいたバルティマイを、叱りつけ、黙らせようとしたことが、どんなにバルティマイを傷つけ、排斥していたか?自分たちがどんなにひどいことをしてしまったかという、加害者としての過去に、イエスさまは、「あの男」と呼ぶことを通して、気づかせてくださるんです。その時、人々は、バルティマイになんてひどいことを言ってしまったか?言わなくてもいいことまで言ってしまった!バルティマイを完全に否定しようとしていた、という、自分の過ちに気付かされれば、気づかされるほど、「あの男」とは、とても言えないということになるのではないでしょうか?その結果、その人々から出て来る言葉は、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」なんです。もはや叱りつけ、黙らせようとした姿はありません。あの男という呼びかけもありません。ただ「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」が、バルティマイに語り掛けられているんです。

 

もちろんこの時、イエスさまが「あの男を呼んできなさい」と言われたことに対する反応は、様々だったと思います。素直にイエスさまのおっしゃる通りにしようと言う人もいたでしょうし、自分の思いとは違うけれども、イエスさまが言われたんだから・・・ということもあったかもしれません。いずれにしても、人々は、自分たちがバルティマイにしてしまった過去を、受け止めていたことでしょう。だからこそ、イエスさまの「あの男を連れて来なさい」を、そのまま言わなかったし、言えなかったのではないでしょうか?その結果「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」が、人々の口から出て来るんです。

 

イエスさまは、バルティマイを叱り、黙らせようとした、変えられない過去でさえも、用いてくださり、全く違う意味と目的を伝える言葉を与えて下さいます。そして言われた言葉に、促され、用いられて行く人々となっていくんです。バルティマイに伝える人々へと、新しく変えてくださるという、過去から未来へとつながる出来事に、新しくしてくださったという出来事です。そして、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」という言葉をも、用いて下さるんです。

 

この安心しなさいは、恐れるなとか、元気を出せとか、という意味です。立ちなさいも、ただそこに立ち上がりなさいと言う意味ではなくて、それまで死んだ状態だったところから、もう一度復活しなさい!という意味なんです。そしてお呼びだも、イエスさまが、あなたを呼んでいますということなんです。その言葉を、人々が伝え、バルティマイが聞いた時、彼の中で、安心していいんだ!元気を出せと、復活だとか、イエスさまがあなたを呼んでいると受け止めることができたでしょう。同時に、これまで自分には、元気がなかったことも、死んだ状態だったことも、だれも自分のことを、あなたと呼んでくれる人がいなかったということにも、振り返らされたのではないでしょうか?それでも、「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」を、聞いた時、イエスさまからもう一度やってごらんという、チャンスを、バルティマイは、受け取ることができたのではないでしょうか?

 

そのように、イエスさまが、私たちにもう一度やってごらん、とチャンスを与えて下さる時、イエスさまが直接語り掛けられるだけではなくて、イエスさまは、人を通して、もう一度やってごらん!元気を出せ!勇気を出しなさい!安心しなさい。もう一度立ち上がりなさい!と励まして下さるんです。しかも、自分を叱り、黙らせようとし、自分をある意味で否定しようとした人々を通しても、そして人々自身にも、イエスさまは、もう一度やってごらん!勇気を出して、もう一度立ち上がりなさい!を、与えて下さるんです。

 

その導きがあるからこそ、バルティマイも、またバルティマイを叱り、黙らせようとした人々も、イエスさまに出会うことができたんです。その中で、イエスさまが、バルティマイに言われたのは、「何をしてほしいのか」です。これもまた不思議です。もうすでに彼は、「わたしを憐れんでください」と叫び続けているんです。その結果、エリコから出て行こうとされたイエスさまに出会い、イエスさまに呼ばれ、招かれてイエスさまのもとに来ることができた時、「わたしを憐れんでください」に、分かった、私はあなたを憐れみます、と答えるのではなくて、「何をしてほしいのか」とまたバルティマイに尋ねられるんです。それは「何をしてほしいのか」という問いにある「あなたはあなた自身に何をしてほしいのか」「何を望んでいるのか」を、彼自身に気づかせようとしておられるからではないでしょうか?それは、「わたしを憐れんでください」は、確かに憐れんでくださいと言う彼の心からの願いではあっても、まだ漠然としているんです。彼が何を望んでいるのか、が、まだ彼の中ではっきりしていない、まだ気づけていないんです。そのことをイエスさまは分かっておられるからこそ、自分が自分に対して、本当にしてほしいこと、自分が自分に、本当に願っていることを、答えを先に出すのはなくて、彼自身に、気づかせようとしておられるんです。そしてイエスさまは、自分の本当の願い、ひょっとして、今まで言えなかった、言葉にもならなかった、思う事すらできなかった、その思い、願いに、イエスさまは言葉を与えてくださるんです。それが、この言葉、「先生、目が見えるようになりたいのです」なんです。

 

この一言が言えたということで、バルティマイは、自分の目が見えなくなった過去にも向き合い、その過去の出来事、別の見方をすれば、自分の視力を失ってしまったという、失うという過去も、イエスさまの前に出すことができた瞬間ではなかったでしょうか?その時、バルティマイは、目が見えなくなったという過去に、新しい意味と目的を見つけることができたのではないでしょうか?それが「見えるようになりたいのです」にある、もう一つの意味、見上げて、顔を上げて、神さまを仰ぎたい!という願いなんです。ただイエスさまに、もう一度視力が回復して、見えるようになりたいと言っただけではなくて、神さまを仰ぎ見たい!神さまに向かって顔を上げたい!という願いを、言えたのは、その願いをイエスさまがちゃんと受け取って下さったからです。だからこそ、「あなたの信仰が、あなたを救った」と言われたとき、彼の目がすぐ見えるようになったのも、ただバルティマイの視力が回復して、目が見えるようになっただけではなくて、バルティマイは、イエスさまを、神さまとして、仰ぎ見ることができるようになったその時、バルティマイは、道端を生活の場所としてきたところから、イエスさまに従うという新しい生き方に変えられていくんです。

 

青年たちへのメッセージとしてある一人の先生の証しがあります。「人生は出会いで決まります。人生は出会いの連続です。私もこれまでたくさんの出会いを経験しました。その中で、私の人生にとって決定的な出会いが、イエス・キリストとの出会いです。20歳の時、私は、自分で選択し、時間も労力もすべてを注いでいた活動で行き詰まり、「自分の人生終わったな」と思いました。「この世に真実で確かなものなどない。人生は流れにまかせて生きるしかないのだ」と。その時、出会った教会の牧師が説き明かす聖書の御言葉によって、イエス・キリストと出会いました。聖書の御言葉から、イエス・キリストが立ち上がり、私に、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と語り掛ける声を聴いたのです。私の人生がガラリと変わりました。自分の信念や計画を実現しようとする自己実現の生き方から、神さまのご栄光を証しするために用いられることを喜びとする生き方へと変えられたのです。さらに驚くべきことに、自分が過去に経験したつらい出来事や嫌な思い出が、キリストの光に照らされて、全く新しい意味を持ち始めたのです。過去に起こった出来事は変わりませんが、その出来事の意味が変わったのです。「過去と他人は変えることができない」と言いますが、それは逆に言うと、「自分と未来は変えることができる」ということです。私はイエス・キリストとの出会いによって変えられたのです。青年大会では、きっと新しい出会いが与えられることと思います。そして、新しい人生の道を見つけることができることでしょう。新しい出会い、新しい道へと一歩明日を踏み出しましょう。」

 

イエスさまは、私たちにも行きなさいと呼びかけておられます。そして過去に縛られるのではなくて、イエスさまと共に歩む生き方へと、新しい歩みを与えて下さいます。そのために人とその言葉も、用いられていくんです。それが「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」「お呼びだ」です。

 

祈りましょう。

説教要旨(8月16日)お呼びだ(マルコ10:46~52)