2026年5月17日礼 拝説教要旨

これからがある(ヨハネ17:1~13)

松田聖一牧師

 

ある一人の少年がいました。その少年のご家庭では、いろいろな辛いことがありました。少年のお姉さんは、昭和9年に大阪を襲った室戸台風によって、壊れた学校の建物の下敷きになって亡くなってしまわれました。その後にもいろいろな悲しい出来事が続く中で、亡くなったお姉さんが、ミッションスクールに通っておられ、亡くなる前に、お母さんに、教会に行ってごらん、と誘っていたことが切っ掛けで、お姉さんが亡くなってから、その子も、お母さんに連れられて、日曜学校、教会に通うようになりました。そこで神さまのお話を聞き、祈るということも、経験していきました。そんなある夜のこと、また辛く悲しい出来事が起こった時のことを、後年、こうおっしゃっていました。「私は、野原の真ん中に行ったとき、突然、何とも言えない悲しさが胸にあふれ、そこに座り込んで大声を上げて泣いてしまいました。夜空を仰いでどれほど泣いていたか覚えていません。ただつい先日、日曜学校の先生が教えて下さった祈りの大切さをふと思い出しました。そして星空に向かって、生まれて初めて、心の底から、自分で、『天のお父さま』と祈りました。」

 

天のお父さま、天の神さま!思わず神さま!その祈りは、切羽詰まった祈り、自分でもどうすることもできない中での祈りであったとも言えるでしょう。それでも天のお父さま!神さま!と祈れるんです。

 

そのように、祈りは、悲しい時にも、辛い時にも、苦しい時にも、自分ではどうすることもできないような時でも、声にならないような時でも、神さま!と、祈れるんです。それはその祈りをも、神さまはちゃんと聞いて受け取っていて下さるからです。

 

それは、「父よ、時が来ました」に始まる、イエスさまの祈りもそうです。この時、イエスさまは、これから十字架につけられ、苦しまれ、弟子たちに裏切られ、人々からも、神さまからも見捨てられようとしていました。その時が来た時、それは、イエスさまにとって、辛く、悲しく、苦しく、ご自分でもどうすることもできないことが、いよいよ始まっていくんです。それでも神さまに、父よ、と祈るんです。でも不思議です。イエスさまは十字架の上で、いよいよ亡くなられる時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、神さまからも見捨てられ、神さまの及ばない所にまで、全くの孤独へといざなわれるんです。それが使徒信条の中にある、「陰府に下り」というこの一言に現わされています。この陰府に下りとは、イエスさまがすべての人の罪を背負い、十字架の上で死なれ、墓に葬られたイエスさまは、神さまからも見捨てられ、神さまの手も届かない全くの孤独に迄、下られたということであり、それは私たちの罪を赦し、救い主として、すべてから見捨てられるというところまで、イエスさまは、私たちに代わって受け取って下さったということでもあるんです。

 

そういう救い主としての使命を果たそうとしているイエスさまの祈り「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えて下さい。あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。」は、イエスさまが、神さまに、「あなたの栄光を現すようになるために」「与えて下さい」と、まず神さまに、与えて下さいと祈っておられる祈りです。

 

そして、イエスさまは、神さまから与えられる栄光、永遠の命、すなわち神さまといつも共にある命を、自分の手元にだけ置いておかれるのではなくて、神さまから委ねられた人すべてに、どんな人でも、どんな人にも、与えることが出来るのですと、神さまから与えられた時、それを、そのまますべての人に、与えようとしている祈りでもあるんです。

 

なぜなら、イエスさまにとって、神さまから委ねられた人、すべての人、全部、全員に与えたいからです。だからイエスさまにとって、あの人は委ねられた人で、この人は委ねられた人という区別はないんです。全員、神さまから委ねられた人だからこそ、神さまと共にある命、神さまと共に生きる命が、全員に与えられているからこそ、与えることができるのですと、祈っておられるんです。

 

その結果、イエスさまから、その栄光、永遠の命、神さまと共にあることが、失われてしまうということではないでしょうか?それがまさに「陰府に下り」なんです。しかも、その失われることを、祈りの時、祈りの中で、初めてイエスさまがそうしますと決めたことではなくて、「世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を」とある通り、神さまと共にあった時から、すでにある、世界が造られる前に、持っていたものを、イエスさまは失うということなんです。

 

それはイエスさまにとって、イエスさまが、イエスさまでなくなるものを、失うことです。つまり、イエスさまが与えることができるのです、との祈りは、イエスさまにとって、最上の、最高の、なくてはならないものを、失うことをも、イエスさまは祈っておられるんです。

 

しかしイエスさまにとっては、大切な、なくてはならないものを失うということですから、大変なことです。

 

一般的にも失うことは、大変ですね。スクラップ、あんど、ビルドという言葉があります。それは壊され、粉々になり、もともとあったかたちが、完全に失われて初めて、新しいものが生まれると言う意味です。このことは、例えば、資源ごみを分けるということと繋がります。その資源ごみの分別、処理の工場では、1つの製品を、部品ごとに分けていきます。その部品も、また細かく分けていきます。さらには、その細かく分けた、いろいろなものの中から、金属を取り出していきます。釘なら釘同士集めて、分別して、そのくぎをもう一度溶かして、新しいものに作り変えるという作業がありますが、それによって、もともとの製品は、失われます。スクラップされます。しかし、それで終わらずに、再び新しいものへと、作り変えられていくんです。

 

そう言う意味では、確かに、失うことによって、与えられ、新しいものが生み出されますから、結果から見れば、新しいものがまたできる!ということです。じゃあそれは、単純に喜べることなのかというと、一旦は、失われ、失うということを、通らされます。ですから、これが一般論ではなくて、自分に直接関わることになると、自分の築き上げて来たものとか、財産や、立場といったものが、失われ、なくなります。身近なものが、目の前から失われます。それは、喜べることなのかというと、そうではないと思います。大変なことです。でも実際に、自分の身に起きたら、どうでしょうか?

 

先日、教会のお隣の方が、草取りをされていました。しばし挨拶やら、立ち話をして、教会の中に入りました。それからしばらくたって、駐車場に出ましたら、草刈りはしておられないのですが、なにやら、下を見ながら、捜しておられる様子でしたので、「どうかされたんですか?」と、尋ねましたら、「車のカギがないんです~ポケットに入れておいたのですが、気が付いたらポケットになくて…」困っておられました。鍵がなければ、車がそこにあっても、車も動かすことができません。車が車でなくなります。これはえらいことだと思いました。それで、「どんな鍵ですか?」「鍵と一緒に赤いホルダーがついています。赤だから目立つと思うのですが・・・」一生懸命に捜しておられるんです。それで、「別の目で見たら、見つかるかも」と申し上げると、「いえいえそんな‥」恐縮されていましたが、しばらく一緒に捜すことになりました。私は、草むらの中を探すことになりまして、下を向いて、丁度、駐車場の屋根の下の辺りに来ましたら、あったんですね。「あった!」「これですよね~」「そうです、そうです!」「鍵がなくなったら、母に叱られる~」とおっしゃりながら、「ありがとうございました。どこにあったんですか?」「ここにありました~」ホッとされながら、こうおっしゃいました。「さすが!牧師先生!」何とも返事のしようがありませんでしたが、ともかく見つかってよかった、良かったということで、「お母さんにもよろしくお伝えください」と、そういうやり取りになりました。やれやれ、よかったと思いました。

 

そのように、あるもの、あるはずのもの、なければ困るものを、失ったら、困ります。あったはずなのに…・ない…これは大変なことです。だから必死で探します。見つかる迄探そうとします。それは誰かに与えるために、ではなくて、自分が必要としているからです。しかし、イエスさまは、全く逆です。イエスさまが、イエスさまでなくなるほどの、最高のものを、失おうとしているのは、イエスさまにとって、なくてはならない、神さまと共にある命を、神さまと共に生きることができる命、を、私たちに、与えるためです。与えるために、失うんです。それをイエスさまは、祈っておられるんです。

 

そういうイエスさまであることを、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」すなわち唯一のまことの神さまであるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることだとおっしゃられるんです。ただ、イエスさまを信じなさいとか、受け入れないといけないと言っているではないんです。イエスさまが、まことの神さまであるお方から、遣わされた、イエスさまだと言うことを、知ることです。

 

この時、イエスさまは、知らなくてもいいとか、どちらでもいいとか、そういう曖昧なことを言っているのではありません。「知ることです」ということを、譲っておられないんです。それは「知ることです」と、祈りの通りに、私たちに、すぐに分かるか、どうかは分からなくても、また何年後か、何十年後か、それは分からないけれども、「知ることです」は、ゆるぎないこと、譲れないことなんです。

 

譲れないこと、譲らないこと、そのことについて、今、1つの映画があります。その映画の主人公のモデルになったのはある一人の医師です。この先生は自閉症の子どもたちの療育に、生涯をかけた方でした。自らも自閉症の息子さんを持つ母親として、医師への道を止め、自閉症の独自の療育を考え出し、実践された方でした。その療育の中で、まずは学ぶ姿勢を作り上げていくことでしたが、子どもさんは、じっといていませんから、時間を掛けて、じっくりと、本当に忍耐しながら、向き合い続けていかれました。時には、厳しい言葉もありました。ちゃんと手はお膝!とか、これを読むことができるまではダメとか、そこにお母さんも一緒におられましたが、終電が近づいた時に、お母さんに、タクシーで先に帰ってくださいと言った途端、その子は、それまで出来なかった本読みを、始めていきました。初めて声を出せた時でした。でもそこに至るまでには、厳しいんです。それでも、そういう厳しさをもって、療育するには、理由がありました。それは、この子どもが、社会で生きていけるように、数が数えられるようになれば、時間も分かるようになるし、お金も数えられるようになる!そして何よりも、この子どもたちは、自分に与えられた仕事を、人の悪口を言わずに、ひたすらコツコツできるようになる!その時には、この社会の宝物になると信じて、向き合い続けたのでした。時には、その指導方法が厳しすぎるという批判を受けました。でも、大人がなんにでも手を出したら、この子は何もできなくなってしまう!だから自分で出来るように、生きづらさを少しでも、和らげられるように、その療育方法を決して譲ろうとはしませんでした。曲げませんでした。そのことについて、こう語っています。「・・・・厳しくて、泣く場合もありますけどね、それぐらい厳しくしないと、その子の心も、親にも響かないことがあるんです。追い詰められて、どうにもならなくなって、初めて、気づかされることもあります。でもいつも言うのは10年か20年たった時に感謝されたらいい、とそのつもりでやります。」すぐに分かるようになるわけではありません。でも相手が今、分からないからと言って、優しくしてしまったら、手鳥足取りしてしまったら、出来る事を伸ばすチャンスを、この子は失ってしまう!この子が、社会で生きることができるように、批判を受けても、曲げなかったのでした。

 

「イエス・キリストを知ることです」知ることを、イエスさまは曲げないんです。たとい、今、私たちが、分からなくても、今は、分かろうとしなくても、何年後か、何十年後になるかは、分からなくても、知らなくてもいいですよ、ということではないんです。「知ることです」を、曲げないんです。それは、今のことだけ考えておられるのではなくて、これからのことを、イエスさまは、私たちのために考えて、祈っておられるんです。

 

なぜなら、私たちには、今だけあるのではなくて、これからがあるからです。そのこれからのために、必要なこと、「永遠の命とは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」知らなくてもいいのではなくて、やさしくどっちでもいいよと、曖昧にされるのではなくて、イエスさまを知ること、です、このことを曲げることなく、祈り続けておられます。

 

祈りましょう。

説教要旨(5月17日)これからがある(ヨハネ17:1~13)