2026年4月19日礼拝 説教要旨
一人の羊飼いに(ヨハネ10:7~18)
松田聖一牧師
六甲山という山があります。一番高いところで、980メートルくらいの山です。980メートルというと、伊那では大した高さではありませんね。でも神戸、阪神間では高い山になりますので、六甲山に上りますと、そこから大阪湾、播磨灘、淡路島など、いい眺めです。夜は百万ドルの夜景とかなんとかと言われて、綺麗です。ただ地元にずっとおられる方は、それが普通の景色ですから、綺麗だとは思ってはいても、県外から観光などで来られた方のように、心躍らされて、わ~とか、キャーとはなりません。というのは、普段から見慣れたものだと、それが普通といいますか、日常になっているので、そんなに驚かないものになっているからです。その日常と非日常が六甲山にある、六甲山牧場にも見られます。その1つは、牧場で飼われている羊のことなのですが、普段は柵や囲いの中で、群れになって、あっちに、こっちにと牧草を食べている、その羊たちを世話する、牧羊犬という犬がいます。普段はおとなしい犬なのですが、羊たちを、柵から超えないように、また羊の家にちゃんと戻そうとする時には、わんわんと吠えることがあります。それは、わんわんと吠えると言うことが、羊たちにとっては、非日常のこと、いつもとは違うことが起きていますから、時々、わんわんと吠えられたら、ちゃんと建物に向かって行かなければならないんだ~と意識していくんです。そういう意味で、わんわんが、いつものこと、日常のことではなくて、ここぞと言う特別な時に、牧羊犬は、わんわんと吠え、日常と非日常とを上手に使い分けているということでもあります。だから、羊たちを、建物に導けるんです。しかもその時、自由にどこからでも、その建物に入れるわけではなくて、ちゃんと入口、門から入るように、牧羊犬は、羊たちを、導いていくんです。そうして羊たちは、日々生かされ、守られていきます。
それは、イエスさまのおっしゃられた「わたしは羊の門である」が指し示す日常と、非日常でもあります。というのは、「わたしは羊の門である」イエスさまが、羊にとって生きるために、牧草のあるところに向かうことができ、その草を食べ、命を支えていく、命の入り口であり、また出口でもある門を出たり、入ったりする時、日常と非日常があるからです。例えば羊が、夜休んでいる時に、羊を襲いにやって来る獣や、強盗といった外敵や、門を通らずに、羊の囲いを乗り越えて来る者がいると、その人は盗人、強盗だと分かりますし、それは非日常です。でも門があるし、門には門番がいるので、羊たちは、外敵から守られ、安心して暮らすことができるという日常があるんです。
そういう意味で、門は日常と非日常の分水嶺のようですね。そしてその門にある、入り口と出口という両方の役割の中で、特に出口について言えることは、「わたしは羊の門である」イエスさまのもとに帰ってくる入り口としての門ではなくて、イエスさまと言う門を、出口として羊が受け取ってしまうと、門から出て行く羊は、出たまんまになってしまい、イエスさまのもとに帰ることが、できなくなってしまうのではないでしょうか?
というのは、羊は超ど近眼ですから、一旦羊の門の外に出てしまうと、目の前の草しか目に入らなくなります。そしてその草を、一生懸命に食べていくうちに、自分がどこにいるのか?どこに羊の門があるのかが、見えなくなり、分からなくなって、迷ってしまうんです。その時迷った羊に、自分達で何とかしなさいと、任せても、自分達ではどうにもできません。だからこそ、たとい羊の門から出て行ったとしても、もう一度、その羊の門であるイエスさまのところに、連れ戻すために、羊飼いが必要なんです。
それは羊だけのことではないと思います。私たちも、自分がどこにいるのか?見えなくなり、分からなくなる時があります。帰るところ、羊の門が、分からなくなって、迷ってしまうこともあります。だからこそイエスさまは、「わたしは門である」とおっしゃられるんです。つまりイエスさまは羊のための門だけではなくて、すべての人にとっての、門でもあるんです。そしてその門が、羊を守るための門から、救いのための、入り口として、すべての人に開かれて、その門を通して、イエスさまの救いを与え、その救いへと導いておられるのではないでしょうか?だからこそ「わたしを通って入る者は救われる」とおっしゃっておられるんです。
ではその門には、羊の門と同じく、入り口と出口があるのかというと、「わたしを通って入る者は救われる。その人は門を出入りして牧草を見つける」とありますから、確かに、入り口と出口が、イエスさまという門にもあります。ただ、出入りをする目的は、命の糧である牧草を見つけるためであって、イエスさまである門に入ってから、やっぱりどこかに行きたいので、自由にどこにでも、門から出て行ってもいいぞという、そういう門ではないんです。あくまでも、出入りはするけれども、出て、牧草を見つけた後には、入る門です。そういう意味では、イエスさまと言う門は、出たら出っ放しという出口はないんです。
このことは、イエスさまを信じて洗礼を受けて、イエスさまを信じて歩む信仰生活も繋がっているのではないでしょうか?
イエスさまを信じて洗礼を受けたいと願われて、いろいろな方と、求道者会、聖書の学びをする中で語られる言葉は、「洗礼はゴールではありませんよ。洗礼はスタートですよ。」が、ありますね。その通り、洗礼はスタートであり、入り口です。そこには出口はありません。生涯、ずっとイエスさまを共に歩み続けていく始まりが、洗礼です。ところが、この洗礼に時々誤解があります。それは洗礼を受けたら、卒業と思っておられる方がいらっしゃって、洗礼を受けるまでは、教会に来られているんだけれども、洗礼を受けた途端、ピタッと姿を見せなくなることが、どの教会にも実はあります。
ある教会でのことです。その教会の礼拝には毎週100人を超える方々が集まられますが、その教会に通われている方が、こんなことをおっしゃっていました。「うちの教会は、入り口は広いです~だから教会にいろんな方が来られて、洗礼を受けられる方も多いのです。でもね~広いのは入り口だけじゃなくてね・・・出口も広いんです・・・・。だから入り口から入られた方が、出口から出て行かれる方も多いんです~」と言いながら、ちょっと困った顔をされていました。
入り口は広いのはいいですし、大きいのもいいんです。でも、せっかくイエスさまを信じて洗礼をお受けになられても、出口から出て行って、卒業してしまわれると、それは洗礼の意味と目的から外れてしまいます。洗礼は入り口、スタートであり、ゴールや卒業ではありません。イエスさまを信じて、イエスさまと共に歩むスタートです。ところが、出口も大きいというのは、イエスさまが出口を大きくされたのではなくて、人が出口を大きくしているのではないでしょうか?
だからこそイエスさまである門に、「入る者は救われる」ということなんです。出ても救われるとはおっしゃっていないんです。そのためにイエスさまは、出口から出っぱなしにならないように、どんなことがあっても守り続けておられるんです。
ところが、「盗人が来る」盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするために、来るんです。その根っこにあるものは、欲望です。その欲望は、狼もそうです。だから狼は羊を奪い、また追い散らすんです。
ではその時、「羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人」には、欲がないのかというと、狼が来るのを見ると「羊を置き去りにして逃げる」という中で、雇い人は、羊よりも自分の身を、自分の命を守りたいという、自分の命に対する欲が、出てくるんです。それは雇い人の我儘、自己保身から出ているのかというと、そもそも雇い人は、賃金、労賃をもらって、雇い人の羊ではない、羊飼いの羊の世話をしている人です。だから羊そのもの、羊の命そのものの責任までは、そもそも負う仕事ではないんです。そういう意味で、雇い人は、賃金を払ってもらったら、それでいいんです。それ以上の責任を負う必要はないんです。しかし、狼が羊を襲い、また追い散らすと言うことに対して、雇い人は、何も関係ないと言い切れるのかというと、狼が襲いに来たとか、追い散らすということを見ると、羊の世話をする仕事という点から見ると、それは仕事の邪魔を狼はしているということではないでしょうか?また羊が追い散らされてしまったら、仕事をしたことにはなりません。
しかし、狼が来るのを見ると、雇い人は、逃げないといけないと判断するんです。逃げなきゃ!という時は、ゆっくりと考える暇はありません。一刻を争いますから、自分のことで、精一杯になります。一生懸命になります。それがいいかどうか?逃げて良かった!良かった!ともろ手を挙げて喜べるものかというと、それはいろんな評価に分かれてしまうのではないでしょうか?逃げるなんてとんでもない!そんなことをした雇い人は、悪者だ!となるかもしれません。雇い人自身も、逃げて良かったと思えるか?あんなときに逃げなければ良かった!となるか、それはいろいろだと思います。また逃げないといけない!自分の命は自分で守らなきゃ!という、自分への欲に対する思いも、その時々でいろいろになります。
そういう意味で、羊を置き去りにして逃げたということだけを見て、とんでもない!とか、悪者だ!と言えるのかというと、自分自身が、雇い人と同じ立場に立った時、私はどうか?私も逃げようとしたではないか?そうせざるをえない、やむを得ない中で、逃げるしかなかった・・・と、自分自身に対する思いもいろいろ分かれていくんです。
三重県に尾鷲と言う町があります。年間雨量が4000ミリを超えるところです。リアス式海岸があり、漁業の盛んなところです。この町に住んでおられた方が、自分の幼い頃、東南海地震に遭った時のことを話してくださいました。「地震が起きた後、海の水がさあっと沖に引いて、海の底が見えるくらいになった!そしてそれから、大きな津波がやって来た!」とおっしゃっていましたが、その時、「とにかく、山に逃げた。誰もが、めいめい自分のいるところから、とにかく山に、高台に逃げた」とおっしゃっていましたが、その時、全員が助かったのかというと、やはり誰かを助けようとして、海の近くにある家に戻った人の中で、津波に呑み込まれてしまったと言う出来事もあるんです。ということは、その時に、どんなに助けたい、助けなければ…という気持ちになっても、どんなに助けようとしても、逃げなければならない時に逃げなかったら、自分も助からないということになるんです。そういう意味で、人を助けるというのは、助けようとする人も、命がけです。人を助けようとすればするほど、自分の命も危うくなるんです。
だからこそこの雇人も、狼が来るのを見ると、逃げるんです。自分のことをまず考えるんです。自分が助かりたいから、自分が助かろうとするんです。その結果、狼によって、羊は奪われ、追い散らされていくんです。
じゃあそれで終わりなのか?羊は奪われたまま、追い散らされたままなのかというと、そうではありません。良い羊飼いであるイエスさまが、良い羊飼いとして、奪われ、追い散らされた羊たちのいるところに、来てくださり、羊や私たちが、どんなに奪われ、追い散らされても、門であるイエスさまから遠く離れてしまっていても、それでも、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」に、イエスさまのもとに導いてくださるんです。
それは囲いに入っていない人にも、です。囲いの外のままでは危険です。でも、門から出てしまっていると、いつ狼に襲われるか、いつ何時何があるか?と不安を抱えながらも、それでも外で一生懸命に生きて来られたのではないでしょうか?イエスさまは、そういうことも、わかっておられるんです。その上で、イエスさまは、門に入れ、入れと、声をかけ、招いて下さり、受け入れておられるんです。
その上で、そのまま囲いの外でいいのか?そのまま外にいたら、危ないじゃないか!と囲いの外にいる羊や、人に、問いかけておられます。その思いが、「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」にあふれているんです。さて、囲いに入っていないほかの、とは、どういう意味でしょうか?それは、全員、全部です。なぜかというと、羊も、人も、神さまが命を与え、生きる者としてくださいましたが、それは、全員です。全部です。だから人によって、神さまの命がない人とか、ある人と分かれません。全員です。
そこから私たちの周りにも目を向けると、神さまのもとに、イエスさまのもとに導こうとしているのは、全員ですから、具体的に例えばですが、教会に全員が来てほしい、と招いておられますから、上伊那に住んでおられる方々も、全員です。人口を見ると、上伊那に住んでおられる方々は、村だけでも16000人ですから、上伊那全体では何万人になります。何万人もの人全員が、一度に教会に押し寄せたら、入りきれません。京セラドームが何個分もいります。もちろん今、一度に全員が押し寄せてくるわけではありません。しかし、そうであっても、イエスさまは、囲いの外にいる羊を、囲いの外にいる人を、イエスさまのもとに導き続けてくださり、名前を呼び続けてくださるんです。そして呼びかけられたその人は、自分を呼んでくださったイエスさまがおられることに、気づかされ、イエスさまの声に従い、イエスさまの声を、いろいろな声が聞こえる中で、聞き分けていけるようになり、「こうして、羊は1人の羊飼いに導かれ、1つの群れになる」んです。
祈りましょう。
