2026年4月5日イースター礼拝 説教要旨

あなたがたより先に(マルコ16:1~8)

松田聖一牧師

 

今日はイースター、復活祭です。イエスさまが私たちの身代わりに、十字架にかかり、死んで葬られ、甦られ、今も生きておられる神さまでいらっしゃることに、感謝し、ほめたたえる日です。だから先ほど歌いました讃美歌にも、あるように「ハレルヤ」と、神さまを賛美し、ほめたたえますという、喜びがあふれています。そういう意味でも、イースターは喜びです。喜びの日です。

 

そういう喜びの日であるイースターに、与えられた聖書を見ると、喜びという言葉は、何一つないんです。喜びを表現するものもありません。

 

それは十字架の上でなくなられ、墓に葬られたイエスさまに、悲しみを表す香料を塗りに行こうとした、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメがお互いに語り合っていた「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」もそうです。ここにも喜びを表す言葉はありません。でも、その言葉の意味を見ると、誰が、あの石、墓穴をふさいでいた大きな石、彼女たちにはどうすることもできない石を、誰が、墓の入り口から必ず転がしてのけるのか、という未来形が使われています。未来形の意味というのは、未来に起こる、というだけではなくて、必ず起こる、必ずそうなるということです。つまり、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」は、あの石を転がしてくれる人が誰かいるということなんです。つまり、彼女たちは、あの石を、誰かが必ず転がしてのける、必ず転がしてのけてくださる誰かがいるということを、希望と確信をもって、お互い言っているんです。と同時に、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるだろうか」には、いや誰もいないという意味でもありますから、彼女たちは、だれも転がしてくれる人はいないということも、確信して、お互いに言っているんです。

 

ここに、必ず誰かが転がしてくれると言う確信と、それとは反対の、いややっぱり誰もいない!やっぱりダメだ!というお互いに正反対の願いと確信が、彼女たちの中に、あります。では、そういうことが彼女たちのことだけなのかというと、私たちにも、大丈夫行ける!必ず誰かが転がしてくれる!ということと、やっぱり駄目だ!という両方が、あるのではないでしょうか?そしてそのお互いに正反対の思いが、自分の中で、揺れ動くこともあると思います。その結果、ダメかもしれないけれども、やってみようとできる時と、もうだめだと諦めてしまうことが、両方あるのではないでしょうか?

 

それは車を運転している時に、交差点に差し掛かった時、信号が青の時と、赤の時の思いや、運転の仕方に現れることがあります。信号が青の時、運転しながら、何を願うかというと、青のままであってほしい!ですね。赤になってほしい!そこで止まりたいとは、思わないですね。時には強く、赤には変わらないで~という願いにもなるでしょう。でもこちらがどんなに青のままでいてほしい、とか、どんなに赤にはならないで~と願っていても、青のままか、赤に変わるかは、こちらが決める事ではなくて、信号機が決めることです。でも、青か赤かは分からなくても、いずれであっても、車は前に向かって、交差点に向かって動いて行きます。逆に、信号が赤の時には、交差点の信号機の手前から車が止まっています。その止まっている車を、後ろから見ながら、青に変わって!と願うこともありますね。その時、車によっては、赤信号で止まりたくない車でしょうか?赤のずっと手前から、ゆっくり走っています。ゆっくり走って、信号が青に変わるのを待っている感じです。そして交差点に近づいた時、信号が青になると、止まらずに、そのまま通り抜けていけると、うまくタイミングが合った~となります。また赤で止まっている車であれば、青になれば、前に向かって動き出します。つまり、信号が青であっても、赤であっても、車は、その交差点に向かって進んでいきますし、その交差点で止まったままではなくて、その先の、目的に向かって、止まったり、動いたりしながらも、進んでいくんです。

 

彼女たちが、墓に出かけた時の姿もそうです。お互いに、必ずそうなる!と、そうはならない!という、正反対のことを思っていても、それでも、「安息日が終わると」「香料を買いに行った」し、「週の初めのごく朝早く、日が出るとすぐに墓に行った」と墓に向かって行くんです。私たちにとっても、そうです。必ずそうなる!という確信と、必ずそうはならない!という確信を、両方持ちながら、それでも、どうなるかは分からなくても、じっとしているのではなくて、前に向かって進んでいるんです。どんなにその中で、もう前に進んでは行けない!と思うことがあっても、途中で止まってしまうことがあっても、赤信号も永遠に赤ではなくて、時が来れば青になるんです。その時、前に向かって、少しずつであっても、進んでいくんです。

 

それが「目を上げて見ると」ということにも現れています。この言葉は、仰ぎ見る、上を見る、見上げるということと、両眼で観察する、気づくという2つの言葉が1つになって、目を上げて見ると、ということなのですが、何を見るのかというと、1つには、神さまを仰ぎ見るということです。ただ神さまは目には見えませんから、仰ぎ見ると言う時、神さまと言う目に見える何か実体に、気づけるわけではありません。ということは彼女たちが、墓に行った時に、目を上げて見るものは、墓の入り口をふさいでいた石になります。

 

そして、この石には、宝石と言う意味もあります。宝石というと、ダイヤモンドとか、ルビーとか、サファイアとか、ガーネットといったいろいろな種類がありますが、ジュエリーショップなどで売られて、指輪になっているような宝石が、そのまま土の中にあるのかというと、そうではなくて、大きな石、岩の中に、ほんのひとかけら、石に比べて、はるかに小さなものが、宝石として、うずもれているんです。だから宝石として取り出す時には、宝石だけを、ここにあるからと見つけられるものではなくて、この大きな石のどこかに、宝石があるという希望と確信をもって、その大きな石を、慎重に砕いていくうちに、そこに宝石があった!という、ある意味で発見になるんです。その結果、見つかった宝石が、たった1つの宝石であっても、それが取り出され、カッティングされて、売られている宝石になるんです。宝石とは、そういうものですから、その石に宝石がどこにあるかを見つけるためには、その石に向かって目を上げて、両眼でしっかりと見ないと、どこに宝石が、どこに埋もれているかは、分かりません。またしっかりと見ていても、なかなか分からないものでもあります。

 

神さまを見上げること、仰ぎ見るというのは、そういうことではないでしょうか?つまり、目の前の石が、どんなに大きくて、自分の力では動かせない、どうにもならないものであっても、それでも、その石という、目の前の現実をしっかりと見て、観察して、両眼を開いて、見て、捜していくことで、そこから神さまが何をしようとしておられるのか?また自分ではどうすることもできないような現実の中で、それでも、神さまのしてくださったことが、見えてくるのではないでしょうか?そう言う意味で、神さまを信じるという信仰は、現実逃避ではありません。私たちの目の前の石という、大きな、自分ではどうすることもできないような現実をしっかり見ながら、そこにある宝石を捜すこと、捜そうとし、見つけようとすることです。そのために、その大きな石の前で、その石と、その石にある宝石と向き合うんです。

 

その時、彼女たちに与えられたことは、「石はわきへ転がしてあった」転がしてあったという出来事でした。その結果、もはや墓の中にではなく、復活され、ここにはおられないイエスさま、あなたがたより先に、ガリラヤに行かれるイエスさまを、捜していくこと、そして「そこでお目にかかれる」ということを、この目で見るということに向かっていくんです。その時、「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。」と、墓を出て逃げ去った婦人たち。喜びではなくて、恐ろしかったからであるという、彼女たちの素直な気持ち、素直な行動を、聖書は包み隠さず語っています。ここにも喜びという言葉はありません。

 

不思議です。イエスさまが甦られ、ここにはおられない。あなたがたより先にガリラヤに行かれ、そこでお目にかかれるということ、それをペテロや弟子たちに告げなさいと言われた内容は、彼女たちにとって、香料を塗らなくても良くなりましたし、何よりも、甦られ、生きておられるイエスさまに、会えるということですから、それは喜びではないでしょうか?でも、彼女たちは、墓を出て逃げ去ったんです。増え上がり、正気を失い、だれにも何も言わなかったんです。つまりペテロたちに、告げなさいと言われたことと、反対のことをするんです。その理由が、「恐ろしかったからである」恐ろしかった、彼女たちに恐れがあったからなんです。それは単に、彼女たちが恐れたというだけではありません。彼女たちは、自分の中にある恐れに、向き合い、自分にある恐れに気付かされ、その恐れを向き合ったからこそ、逃げ去り、震え上がり、正気を失い、誰にも言えなかった、に繋がるんです。

 

この恐れについて、ずいぶん前のことですが、あるご家庭で、家庭集会を始めましょうということになり、その家の奥さんは、ぜひうちの主人も導いていただきたいということで、始まりました。初日のことです。開口一番、ご主人は言われました。「ワシは絶対にキリスト教を信じないから!絶対にキリスト教徒にはならない!」と豪語されました。奥さんびっくりされて、「あんたなんてことを言うの!」ということで始まりでしたが、そこにもう一人、来られていました。その方は、奥さんが教会員でいらっしゃったのですが、先に亡くなっておられました。そこで、そのご主人にも声をかけられ、一緒に参加されたのでした。共に御言葉を分かち合いました。その御言葉は「盗んではならない」でした。不正直は罪であるということ、正直ではないことも、盗むことと一緒だということを、お分かちした時、そのご主人が、急に怒り出しました。「おれはそんなことはしていない!盗むなんてことはしていない!」あららと一緒に集まって来られていた方も、どうしよう?ということになりました。私もまだ若かりし頃のことでしたから、怒ってしまった、怒らせてしまった!という気持ちの方が、強く残ってしまいまして、「盗んではならない」という御言葉ではなくて、もっと優しい御言葉にすればよかったかなと、後から思った次第です。次の家庭集会にまた来てくださるだろうか?なんてことも思いましたが、そのやりとりのことを、別の先生にこんなことがあったんだけど・・・とお話したら、「怒ってよかったね!その人、怒らせて良かったんだよ!」と返ってきました。「えっどういうことですか?」「その人は、盗んではならないという御言葉に、自分自身が向き合うことができたんだ!だから怒ったんだ!だから良かった!」すごくよかった!ということでした。最初その意味が分からなかったのですが、後からああそうか!なるほどと思いました。盗んではならないに、何も感じなかったのではなくて、しっかりと向き合ったんだということ、そして自分の中にある、盗むということ、正直ではなかったということ、不正直だったということに、恐れたからだったんだということでした。そうですよね。何も感じなかったら、向き合おうとしなかったら、怒りもしません。でも、自分の中にある盗むということ、正直ではなかったこと、不正直であったことに、自分が向き合ったら、否定もしたくなるでしょうし、だからこそ、そういう言葉に対して、そんなことはない!と怒り出すんです。そういう意味で、怒ってよかったね!になるんです。後に、「俺はそんなことをしていない!」と言われたご主人は、洗礼を受けることはありませんでしたが、葬式はキリスト教式でしてほしいと願われ、その願いはその通りになりました。

 

彼女たちは、自分の中にある恐れに向き合えたんです。だかこそら、しっかり恐れたんです。すごくよかったんです。そんな彼女たちに、神さまは、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」という、言葉を与えてくださるんです。その意味は、イエスさまが、彼女たちに先立って下さるということですが、その時、先立ってくださるイエスさまにお目にかかれると言う約束に向かって、彼女たちも、また私たちも、目の前にある現実の中で、それまでの自分の思い、恐れから、一歩出て行くと言うことではないでしょうか?殻を破るということはそういうことですね。殻を破って、新しい一歩を踏み出すんです。「すると」そこに先立ってその行く手に立ってくださる、イエスさまがいらっしゃることに、気づけるようになるんです。石の中にある宝石が見つかるんです。

 

新潟にある敬和学園高校で、卒業式が持たれました。その時、卒業生の一人の方が、卒業に当たってこんなことをおっしゃっていました。「くだらなくて、幸せな日々」悔しかったことも、悲しかったことも、許せないと感じた出来事もすべてが思い出に変わる、そんな時期になりました。たくさんのうれしさを感じられたのは、敬和に進学し、ここにしかない出会いや経験を得られたからであると、卒業を目前にして強く感じます。

私変化を恐れていました。人の変化、環境の変化、そういった身の回りの変化が私を押し潰そうとしている気がして、常に不変であり続けることを求めていました。だから当然失敗もなければ、成功もなく、面白みのない人間だったように思います。そんな自分に危機感を感じることもありませんでした。みんな同じ、別にこれで私も満足、そう自分に言い聞かせていいようにやり過ごしていたのです。そんな自分を変えるきっかけをくれたのが敬和で出会った人々です。

入学して間もない頃の私は、「高校でも静かにやり過ごそう」と考えていました。小学校から中学に上がったタイミングで失敗を繰り返し始めた私にとって、当時、変化が加わることがすごく怖かったです。嫌でも起こってしまった環境の変化が怖くて、また今までの失敗を繰り返すのが怖くて、しり込みしていました。

しかし入学してから否応なしに起こっていく環境や人間環境の変化の中で、変化して新しいステップに移り行くのが嫌だと思わず、むしろ心地いいと感じるようになっていました。そして気が付きました。私が怖がっていたのは変化ではなく、起こり行く変化に置いていかれてしまうことだったのです。そういう自分が本当に恐怖しているものを見つけることが出来たのは、紛れもなく周りにいる人々、敬和で出会った個性的で愛おしい人々のおかげです。私が敬和で出会った人々はみんな優しくて、初めて関わりを持った時から、どんどん自分の中の個性を作り上げていて、そんな姿を見てから、私は変化を受け入れ、自分も変わっていかなければいけないのだと気づかされました。友人とは放課後意味もなく学校に残って恋バナをしたり、一緒にチャペルのコンサートを見たり、ずぶぬれになりながら歩き回ったり、くだらないけど思い出したら面白くて、幸せな出来事ばかりです。

私は今、学校の先生になりたいと考えています。この夢のきっと敬和へ進学しなかったら持っていなかった夢だと確信しています。敬和の先生方がのびのびと働いている姿、楽しそうに私たちと接している姿を見て、私も教師を志すようになりました。本当に、私に夢を与えてくれてありがとうございます。

私にはまだまだ怖いこと、嫌なことがたくさんあります。自分を最大限愛してあげることも、まだ出来そうにありません。しかし、こんな完璧じゃないわたしを、今は少しだけ可愛いと思えます。怖いことにも、指先だけでも触れてから怖がろうと思えるようになりました。いくら伝えても伝えきれない感謝を、これからの私の未来で伝えていきます。3年間、本当にありがとうございました。

 

向き合えなかったこと、向き合おうとぜずに、逃げ去ったこと、震え上がり、正気を失い、恐ろしかったことが、ダメだというのではありません。むしろ、そういうことを全部、出せるように、それらのことを全部、受け入れ、受け止めて、許して下さっているイエスさまが、あなたがたより先に、ガリラヤへ行かれるということ、そこでお目にかかれる、出会うことができるという約束を、恐れの中で、与えて下さいます。その時、宝石として、今も生きて働いておられるイエスさまが、私たちに、与えられているんです。祈りましょう。

説教要旨(4月5日イースター)あなたがたより先に(マルコ16:1~8)