2026年3月8日礼拝 説教要旨

尋ねる意味と目的(マルコ8:27~33)

松田聖一牧師

 

間違うということについて、こんな言葉があります。「間違えることが、悪いんじゃないよ。誰でも間違うことがある。でもその時に、どこで、どのように、間違えたのか?そのことをちゃんと見る事が大事だよ~間違えても、間違えたままだと、また同じ間違いを繰り返すことになるから。」なるほどその通り、誰でも間違うことがありますね。どんなに気を付けて、間違いないようにしようとしていても、間違う時には間違います。しかし、間違うことが、ダメなのではなくて、どこで、どのように、そして何を間違ったのか?ということを、しっかり見ようとすることによって、正しい方向に向かっていけば、その間違ったことも用いられ、生かされていくのではないでしょうか?

 

ある教会で、扇風機から火が出てあやうく大火事になることがありました。何とか事なきを得たとのことですが、そのことを通して教えられたことを、こうおっしゃっていました。「火事の原因は古い扇風機でした。それは古い扇風機で、羽が止まっていたのに、後ろのモーター部分は回っていました。それが熱を持ち、隣にあったソファに火をつけ、そこから燃え広がったのです。その扇風機は「家で使わないから教会で使って」という形で献品された物だったのです。これは大きな教訓になりました。神さまは、いつも私たちに最高の物をプレゼントしてくださるのだから、私たちの教会に献品する時は、最高のものを捧げましょう、と。」

 

神さまから最高のものを頂いているのだから…だから最高のものを神さまにお返しすること、はその通り大切なことです。そこに気付かされるためには、古い扇風機が間違いだったとか、家で使わなくなったからということが、間違いだ!で、終わってしまうのではなくて、そこから学ぶ事、そこから与えられることに向かって、扉を開いていくことではないでしょうか?そのために間違うことがチャンスになるんです。そういう意味で、間違いを、どう受け止めるか?間違ったままにしておくのか?間違っていても、いや正しい!と言い張るのか、あれは間違いだ!ということだけを強調するのか?それとも、どこで間違ったのか?と言った諸々ある中から、何を選ぶかによって、正しい答えと、正しく導かれていくチャンスが与えられていきます。

 

その間違いが、フィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった、その途中で、イエスさまが弟子たちに「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われた時の、人々の答えもそうです。というのは、人々がイエスさまについて言っているのは「洗礼者ヨハネだ」「エリヤだ」「預言者の一人だ」ですが、そのどれもが間違いです。イエスさまは洗礼者ヨハネではありませんし、エリヤでも、預言者の一人でもありません。イエスさまはイエスさまです。ですので、弟子たちが答えた人々の答え1つ1つについて、それは違うということも、イエスさまは言えたはずです。ところが、イエスさまは、人々が言っていることについて、どうこう言わずに、弟子たちに向かって、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と「お尋ねになった」ただ聞いたとか、尋ねたではなくて、お尋ねになったと、非常に丁寧な言葉で返していかれるんです。

 

そこには、イエスさまの弟子たちへの尊敬が現れています。でも彼らがイエスさまに答えた、人々の、イエスさまについての答えは、全部間違いです。しかしお尋ねになったとあるのは、人々の言っていることを、間違った答えであっても、それをそのまま正直に、素直に弟子たちが、イエスさまに答えたということと、人々の言っていることが、たとい間違いであっても、その人々を、弟子たちが否定しなかったことに対してではないでしょうか?

 

というのは、間違いだと、そこですぐに否定すれば、間違っていた、で終わりです。それによって、人々は、もうそれ以上何も言えなくなるでしょう。否定された!だけが残ってしまって、その間違いについて、どこで、どのように間違っているのか?が、分からないままになってしまうのではないでしょうか?あるいは、間違いだということで、表向きは正しい答えになっているかもしれません。しかし、しかし、本当のところでは、自分の間違いに気づかないままになってしまい、せっかく正しく導かれるための間違いであるのに、そのチャンスを奪うことにもなりはしないでしょうか?だからこそ弟子たちは、人々のその間違いを、否定するのではなくて、まずはその間違いを、間違ったまま受け入れていくんです。そしてその間違った答えでも、イエスさまに人々はこう言っていると答えたことで、人々の間違いが、そのままイエスさまの前に明らかになっていくのではないでしょうか?

 

「それでは、」「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」と、お尋ねになった弟子たちには、また「あなたは、メシアです」と答えたペテロには、間違いはなかったのか?というと、確かに、「あなたは、メシアです」救い主です、とペテロが答えた答えは、正しい答えです。そしてこの答えが、イエスさまがメシア、救い主であるという信仰告白となり、それが、礼拝毎に信仰の告白としてある使徒信条に、何百年もかけて、いろいろな間違った教えに対して、正しい信仰はこうだ!ということで、纏められて、確立されていくんです。

 

信条学という学問がありますが、それは教会が誕生してからの歴史と共にある、信仰告白の歴史です。そして、その歴史において、どんな間違いがあったのか?その間違いに対して、どう向き合い、正しい信仰告白を、聖書に基づいて、どう確立していったかということを、学びます。そのことを本当に学ぼうとすれば、一生かかっても時間が足りません。それほどに、信仰告白には、歴史と、そこに関わったたくさんの、イエスさまを信じて従っていかれた方々の信仰の歩みとが、詰まっています。信仰告白、使徒信条というのは、それくらいのものなんですね。そう言う意味で、ペテロの信仰告白は、使徒信条に繋がる信仰告白をした!とか、そういう告白をしたペテロは素晴らしい!との評価になります。が、その一方で、イエスさまについて、正しく答えたペテロが、告白した通りに、イエスさまを信じ続けて、イエスさまから離れずにいたのか、イエスさまへの信仰を間違えなかったのかというと、違います。彼も間違えました!

 

それが、このすぐ後に、「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。しかも、そのことをはっきりとお話しになった」イエスさまを「わきへお連れして、いさめ始めた」すなわち、イエスさまを自分のところへ、自分の方に向かって、受け入れ、歓迎し、招き入れた姿と、ペテロは、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから、排斥され殺されるお方だということと、三日目に復活されること、甦られ、生きておられるお方だと言われたイエスさまを、非難し、どなりつけ、厳しく戒めていく姿に現れています。

 

というのは、ペテロが、イエスさまを自分の方に、受け入れて歓迎して招き入れたのであれば、イエスさまに対して、どなりつけるとか、非難すると言うことにはならないと思います。歓迎ですから、よく来てくれましたとか、よくいらっしゃいましたとか、になるのではないでしょうか?

 

ある教会の先生は、新しく教会に来られた方がいらっしゃると、教会の玄関で、その方のところに行って、いつもこうおっしゃっていました。「よくお出でになられました!」と歓迎されるんです。久しぶりの方も同じように、「よくお出でになられました!」ですから、久しぶりに教会に来られた方にとっては、少々恥ずかしくなるんです。そして思わず「すみません!なかなか教会に行けなくて!」そういうことは、私自身も経験します。たまに礼拝に来られた方に、お元気ですか?と言うと、開口一番「すみません!」と返ってくるのですが、こちらに謝ることではないのに、「スミマセン!」が出て来るんです。でもそう言いながらも、「よくお出になられました!」と言われた方は嬉しい気持ちになります。そういう先生の姿が、印象に残っていますし、どこかで真似をしていると思います。

 

さて、その先生の息子さんが、ある時、彼女を牧師館に初めて挨拶に連れて来られた時にも「よくお出でになられました!」でした。その時のことを、後に息子さんと結婚された、彼女が義理のお父さんが亡くなった後、「あの時、お父さんは、私に、よくお出でになられました!」と歓迎してくださったことが、本当に嬉しかった!と、おっしゃっていました。

 

そういう「よくお出でになられました!よく来たね!」という歓迎は、歓迎する先生や、どなたかにとって、自分の仲間に入るために、とか、友達になるために来たから、「よくお出でになられました」と言うのではなくて、神さまのところに、神さまであるイエスさまのところに、イエスさまが招いて下さった、その招きに応えて来られたから、歓迎しているんです。つまり、その歓迎の言葉は、神さまであるイエスさまの歓迎を、そのまま伝えているんです。自分の仲間になれたから、自分のところに来たからではないんです。そういう意味で、教会は仲良し集団ではないんです。神さまが招いてくださったところで、同じ神さまに、招いていただいた者同士が集まって、よくお出でになられましたと、歓迎くださった神さまを礼拝し、神さまに感謝できるところです。ところが、ペテロがしたようなかたちで、自分の仲間に引き込みたいと言う意味で、よくお出でになられましたということになったら、逃げていく人が出て来ると思います。仲間に引っ張り込まれたら、大変だとか、とんでもない!そんなところには足を向けたくない、と、なるでしょうね。

 

しかし、ペテロは、イエスさまを、自分の仲間に、自分のところに迎え入れようとしたんです。でもこれは逆ですし、間違いです。だってそうですよ。ペテロが、なぜここにいるのか?どうしてイエスさまと一緒にいるのか?というと、イエスさまが、ペテロを弟子として、招いて、迎えいれてくださったからこそ、ペテロは、イエスさまと共に、行動できているんです。そういう意味で「わきへお連れして」ということも、「いさめ始めた」イエスさまを非難し、どなりつけていくのも、間違いです。

 

でもどうしてこんな間違いを、ペテロはしてしまっているのでしょうか?なぜ自分の仲間に入れたい、引き込みたい!と願い、イエスさまを非難し、どなりつけているのでしょうか?それは、イエスさまが言われた通りになることを、何とかして防ぎたかったからではないでしょうか?そしてイエスさまが、苦しまれ、排斥され、殺されては困るし、イエスさまに、そんな苦しい目に遭わせたくない!何とかして、どんな方法を使ってでも、苦しみから、排斥から、殺されることから、何とかして守りたいと言う願いがあるのではないでしょうか?また、復活することも、ペテロを始め、自分達から、離れていくような気持ちになったのではないでしょうか?だから、結局は自分の為です。自分のために、イエスさまを手元に、すぐそばに置いておきたいんです。それでも、ペテロのしていることは、悪意から出たことではありません。悪気があって、ペテロが言ったり、しているのではなくて、イエスさまといつまでも一緒にいたい!という、心からの願いです。しかし、そうであっても、ペテロの言動は、間違いなんです。

 

そういう間違いをしてしまったペテロに対して、イエスさまは「振り返って、弟子たちを見ながら、ペテロを叱って言われた。『サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。』」

 

イエスさまは、ペテロが、イエスさまご自身を、自分の仲間として招こう、歓迎しようと、引き込もうとしていた、そういうペテロを叱ったのは、自分の仲間として、引き込もうというのが、どこから来ているのか、すなわち神さまのことを思わず、人のこと、自分のためを思っていること、そしてそれをするのは、ペテロではなく、サタンという悪魔であるということを、叱りながらも、はっきりと教えて下さるんです。その時、イエスさまが、サタンに引き下がれと言われた意味は、ペテロの後ろに引き下がれと言われたのではなくて、イエスさまの後ろに引き下がれ、です。ということは、ペテロや、弟子たちと、サタンとの間に、イエスさまがおられて、そのイエスさまの背後に、引き下がれなんです。だから距離的には、ペテロや弟子たちから一番遠いところに、サタンを追いやることで、サタンがペテロや弟子たちのそばにいくことができないように、イエスさまは、イエスさまの後ろに、引き下がれと言われ、サタンから彼らを守ろうとしたのではないでしょうか?

 

それにしても、どうしてここまでイエスさまはしてくださるのでしょう?それは、ペテロたちが、弟子として召された時には、捨てて従っていても、間違ってしまうことがあるからです。間違いが起こるんです。しかもその間違いを、間違いだと気づかないまま、間違っていることもあるからです。その通り「自分を捨てて、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」が、実際にはどうなったかというと、ペテロも、弟子たちも、イエスさまが言われた通り、排斥され、苦しめられ、十字架の上で殺された時、自分を捨てられませんでした。自分の十字架を背負うどころか、自分が負わなければならない十字架を、イエスさまに全部、押し付けてしまい、自分の十字架を背負うことからも、逃げてしまったのではないでしょうか?しかし、そうであっても、イエスさまから逃げてしまった、イエスさまを裏切ってしまった、自分たちが間違ったことをしてしまったと言う、意味での、自分の十字架は背負い続けていくんです。そして「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」も、イエスさまに従うと言いながらも、自分の命を救いたいと思うんです。しかしそれだけではなくて、イエスさまが復活され、イエスさまが神さまのもとに帰られてからの、弟子たちは、福音のために命を失う者となっていくんです。つまりイエスさまは、ペテロや、弟子たちに、どんなに間違いがあったとしても、その間違いが、間違いのままではなくて、間違いを通して、また間違うことが用いられていくんです。

 

そのために支払われた代価が、イエスさまの十字架の死と復活です。これがあるからこそ、イエスさまが神さまとして、救い主メシアとして、私たちに代わって、私たちの間違いを全部十字架で受け取ってくださり、十字架の死と共に滅ぼして下さり、復活と共に、赦して下さったイエスさまと共に、赦しの中を、赦されて生きることができるんです。そのために、その間違いが、どんなに大きな間違いであっても、赦しのために用いられていくんです。

 

ある先生が説教でくどいくらいに、何度も何度も説き明かされたことがありました。それは「福音とはイエス・キリストが十字架と復活によって成し遂げてくださった神との和解です。私たちはいつもここに立ち帰らなければなりません。」間違った時、間違ったままでいいのではありません。どこで何が、間違ったのかを知ること、そしてその間違いを、イエスさまが十字架の死と復活を通して、赦して下さったことへと立ち帰ることです。そのために、間違いが分かるように、間違っていることに気付かせてくださいます。イエスさまが尋ねた意味と目的は、そこにあります。

 

祈りましょう。

説教要旨(3月8日)尋ねる意味と目的(マルコ8:27~33)