2026年2月15日礼拝 説教要旨

向こう岸に渡ろう(マルコ4:35~41)

松田聖一牧師

 

神奈川県に平塚市と言う町があります。その町で漁師として、漁をされる際の、スケジュールについて、「漁師さんの生活スケジュールはどんな感じ?」というタイトルで、漁師さんの日常が、いくつか紹介されています。

 

(定置網漁業)

早朝1:30 集合・出港 沖合に行き網締め作業

3:30 帰港・選別作業開始

6:00 出荷作業終了、市場のセリ後休憩

8:00 漁港に集合 船や網の手入れ

12:00 解散

 

(しらす漁業)

日の出とともに、出港 沖合いに行き漁を開始

魚の取れ具合によって帰港時間変動

10:00 帰港(平均して)後しらすの加工作業実施

14:00 船・網のメンテナンスを実施 解散

 

(刺網漁業)

日の出前に出港 網揚げ作業

5:00 帰港、選別作業後、市場へ出荷

網のメンテナンス作業が終了するまで漁港で作業

作業終了後 休憩

17:00 漁港に集合

日の入時刻に出港 網入れ作業

 

と、いろいろな漁がありますが、そこに共通することは、漁師さんたちが舟を出して漁を始める時間は、夜中の1時半から日の出前です。そして取れた魚を、朝港に持ってきて、その後は、舟や網のメンテナンスをして、夕方までには完全に終わります。そして、次の日の漁に備えて、早めに休まれますから、夕方以降舟は出ないということなんです。

 

ところが、イエスさまが弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と言われた時間は、夕方になって、です。この時間だともう舟は港に収まっていて、漁をする時間ではありません。そして「向こう岸に渡ろう」は、イエスさまお一人が、自分だけで向こう岸に渡ろうと言っているのではなくて、「向こう岸に私たちは一緒に行こうじゃないか!」という意味ですから、漁師だったペテロたちも含めて、弟子たちも巻き込んで、一緒に行こうじゃないかと、言っているんです。しかもその時イエスさまは、舟にもうすでに乗っているということは、弟子たちが行きましょうと答える前から、いや弟子たちが考えもしなかった時から、弟子たちがどう受け止めようとも、もう既に、どういうわけか、片づけられていた舟を、もう一度引っ張り出して、イエスさまの中では、向こう岸に弟子たちに一緒に行くことを、決めて、行動に移されたイエスさまに、弟子たちもいろいろな思いはあったかもしれませんが、イエスさまの有言実行に、弟子たちも、したがっているんです。

 

ここで、有言実行というと、自分の言った言葉に責任をもって、その通りに、確実に行動するということですが、このことは、人との関係に当てはめた時、どうでしょうか?例えば、その人が、周りの人に、言っていることを、言いっぱなしではなくて、その通り実行していたら、周りからは「言った通りにしているな」ということになりますし、言葉に責任を持っているという評価や、その人への信頼に繋がります。反対に、言っても、言っているだけで、何もしない、しようとしないというのは、有言不実行です。これは困りますね。ご本人よりも、周りが困ります。具体的には「これをやるよ!」と言っていて、それを信頼して、期待しているのに、これをやるよ!と言った本人がやらなかったら、時と場合によっては、周りがなんとかしなければならなくなります。だから大変ですね。あるいは、そもそも自分ではやるつもりはなくて、人にやらせようとして「これをやった方がいい!」と言う場合もあるかと思いますが、それは自分が何もしなくて、口ばかりで、人にさせようとすることですから、これも、有言不実行です。だから、同じように周りは大変です。泥をかぶることにもなりかねません。そういう時には、正直にと言いますか、「私はやる気はないので、私はやりたくないので、あなたが、私の代わりにやってくれない?」と言ってくれた方が、いいです。もちろん、やるよ!と言っていても、いろいろな事情で、できなくなることがあります。そういう時には、できなくなった!でいいですし、出来なくなった!と言えば、それでいいと思います。つまり、できなくなったことが悪い、ということではなくて、むしろ、その時、できなくなったということを、そのまま認めること、できなくなったという自分も、認めて、受け入れていくということが、大切になってくるのではないでしょうか?ところが、なかなか素直になれないのも、人間であり、私たちの姿です。できないのに、できるとか、やります!と言ってしまい、周りを困らせてしまうという有言不実行を、私たちも繰り返しているのではないでしょうか?

 

しかし、イエスさまは、言ったことを、その通りにされるんです。イエスさまの有言実行は、完全です。だから一緒にやろうよ、一緒に向こう岸に行こうよ!と、言った通りに、弟子たちや、私たちを、その通り招いて下さるんです。たとい、私たちが有言実行ではなくて、有言不実行になってしまう者であっても、それでも、イエスさまは、口ばかりで、何もできなくても、言うばかりで、しようとしなくても、あるいはしようとして、できなかったとしても、そういう有言不実行を、丸ごと受け入れてくださるんです。その結果、私たちに代わって、泥をかぶって下さり、しりぬぐいをしてくださるんです。

 

それが、激しい突風が起こり、舟が波をかぶって、水浸しになるほどであったとき、イエスさまの寝ておられた場所が、艫の方であったということの意味なんです。

 

というのは、艫は、船の一番後ろの部分であり、船首(へさき)とは対照的な位置です。舟の一番後ろの部分ということは、舟の中でも一番低いところです。船底に近いと言ってもいいでしょう。そこに枕をして寝ておられたと言うことは、舟が水浸しになれば、その艫の方に水が流れて、そこで眠っておられるイエスさまのいるところが、一番水浸しになります。ということは、一緒に乗っていた弟子たちよりも先に、水をかぶっておられます。その水も、突風で、波が大いに立った水ですから、泥水のようになっているかもしれません。そういうことを全部イエスさまは、弟子たちよりも先に、船底で受けておられるんです。

 

ではその時、弟子たちは、イエスさまを起こして、舟で一番低い所から、別の場所に移動させようとしたかというと、全くしていません。むしろ、イエスさまを起こして言ったことは「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」です。この時、イエスさまが一番水をかぶっています。一番おぼれかけるのは、イエスさまです。それなのに弟子たちは、わたしたちが、わたしたちが、おぼれてもかまわないのですか。と、自分のことに一生懸命になっているんです。

 

そのように人は、切羽詰まった時には、自分のことばかり考えてしまうと思います。何もない時には、優しい気持ちになれるでしょうし、余裕もあるかと思いますから、自分が自分がという姿は出ないかもしれません。しかし、自分でどうしていいかわからなくなり、追い込まれてしまうと、人は、自分のことで精一杯にもなってしまうのではないでしょうか?それは、その時になってみないと、誰にも分かりません。わたしたちが、わたしたちが、となるかもしれませんし、ならないかもしれません。

 

ですから、自分のことばかり考えて、自分達のことばかり言っている弟子たちに、それはダメだとか、なぜそんなことをするのかと、私たちが責めることができるかというと、それはできないと思います。それは私たちにも、弟子たちと同じことをしてしまう可能性があるからです。

 

イエスさまは、そういう弟子たちを、わたしたちが、わたしたちが、と自分のことばかり考えて、自分達さえ良ければそれでいいと言っているのは、ダメだと、責めておられないんです。そんなことを言ってはいけないじゃないか、とか、もうそれ以上言うなといった言葉も何もありません。ただイエスさまは、起き上がった時、風を叱り、湖に、「黙れ、静まれ」と言われるんです。その時、叱った相手は風であり、黙れ、静まれと言った相手は湖です。しかし本当に叱る相手や、黙れ、静まれと言う相手は、風や湖ではなくて、わたしたちが、わたしたちが、と言って自分のことばかり考えて、言って、何もしようとしない、弟子たちにではないでしょうか?でもイエスさまは、弟子たちに黙れ、静まれでではなくて、風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」なんです。

 

なぜなら、イエスさまが、「向こう岸に渡ろう」一緒に行こうじゃないか、一緒に渡ろうじゃないかと招かれたのは、わたしたちが、わたしたちが、と言っている弟子たちです。イエスさまが、招いたんです。だからイエスさまに招いた責任があるんです。だからたとい、弟子たちが、どんなに、わたしたちが、わたしたちが、と言っていても、弟子たちの有言不実行が、どんなにあっても、弟子たちを招いたイエスさまが、招いたからこそ、責任を取り続けてくださるんです。

 

そして、イエスさまは、ご自分の乗った舟だけではなくて、ほかの舟と、その舟に乗っている人たちのためにも、突風を静め、すっかり凪にするんです。それは弟子たちを恐れさせるためにではなくて、わたしたちが、わたしたちが、おぼれてもかまわないのですかと、自分のことしか考えられないでいた弟子たちに、一緒に向こう岸に渡ろうとしている、ほかの舟にも、気づけるようにするためです。突風の中にあるのは、自分たちだけじゃない!ほかの舟も、そこに乗っている人たちも、いるじゃないか!そして苦しんでいるじゃないか!波をかぶっているじゃないか!水浸しにもなっているじゃないか!「向こう岸へ渡ろう」と招いた私たちの中には、私たちが、私たちが、と自分のことしか考えられないでいた弟子たちだけではなくて、ほかの舟に乗っている人もだということにも、イエスさまは、気付かせようとしておられるんです。そして、すっかり凪にしてくださり、静かになった時に初めて、イエスさまは、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」イエスさまに従って行けば、大丈夫なんだということを、信じていなかったことにも、気づかされるんです。

 

自分のことばかり考えている時というのは、周りが見えなくなると思います。だからこそ、静めて、凪にしてくださったのではないでしょうか?その時初めて、やっと自分のことや、周りが見えて来るのではないでしょうか?

 

何年か前に、兵庫県の氷上という町に、ある先生に一緒にいかない?ということで、何人かの方々と一緒に連れて行っていただきました。神戸から車で1時間以上かかったと思いますが、1つの公民館でクリスマス会があり、そこに住んでおられる地域の方々、おじいさんや、おばあさんが多く、集まってこられました。そこでは、クリスマスの物語ペープサートをしたりと、楽しいひと時を過ごしましたが、目をキラキラさせて、お話に耳を傾け、お茶の時間になると、それはそれはにぎやかなことでした。帰りにお土産ということで、畑でとれた白菜、ネギなど、新鮮な野菜を一杯頂いて、心が温かくなり、帰りの車の中でも、よかった、よかったと、お互いに言っていた時に、一緒に行こうと誘ってくださった先生が、こんなことをおっしゃってくださいました。「教会はね、教会だけのために存在しているんじゃないよ。教会は、その立てられた地域のためにも存在しているんだから、その地域のために、何か貢献できることはないか?と考えることも、大切にしないといけないね~」野菜をたくさん頂いたとか、いっぱいおしゃべりができたということを喜んでいた中で、大切なことを教えて頂いたように思います。

 

教会が、ここにあるという意味と目的は、教会自身のためにだけ、あるのではなくて、立てられたその地域に貢献できることを、神さまが与えておられるということです。神さまが、私たちだけのことを考えておられるのではなくて、ほかの舟もそこに一緒にいるじゃないか!だからこそ、ここにも教会を建てて下さったのではないか?と、気づかせてくださっているのではないでしょうか?自分たちのことばかり考えていたら、それは、わたしたちが、おぼれてもかまわないのですかと言っていることと、同じです。自分たちのことしか考えていないと言う時には、地域の皆さんにバレます。分かります。でもそうじゃないですね。せっかく神さまが、向こう岸に渡ろうと招いてくださり、この地域のためにも教会を建ててくださったんですから、神さまは、まだ向こう岸に辿り着けない人々のために、何をしたらいいかということをも、教えて、与えて下さいます。

 

わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。自分たちのことばかり考えていた弟子たちは、おぼれましたか?いいえ、おぼれませんでした。イエスさまが、突風を静め、凪にしてくださり、守ってくださいました。その時、一緒に向こう岸に向かって、イエスさまと共に歩んでいたほかの舟にも、ようやく気づくことができたことでしょう。その通り、ほかの舟も、向こう岸に向かっています。そこにもイエスさまと一緒に乗っている人たち、イエスさまから一緒に行こうじゃないかと招かれている人が、その舟におられます。その人にも、心を向けていくこと、祈っていくことです。向こう岸に渡ろうには、そういう使命があります。

 

祈りましょう。

説教要旨(2月15日)向こう岸に渡ろう(マルコ4:35~41)