2025年12月28日礼拝説教要旨
喜びと不安(マタイ2:1~12)
松田聖一牧師
これまでになかった、新しいことが起こった時、あるいは、新しい知らせが飛び込んできた時、これから何が起こるのだろうか?楽しみ~という期待と、本当に大丈夫だろうか?どうなっていくのだろうか?という不安の両方があると思います。
北海道の遠軽町(えんがるちょう)というところで、今から50年以上前に、閉山した金の鉱山だった近くで、金が多く含まれる石が発見されたとのニュースがありました。そのニュースを聞いた地元の方々の中には、期待する声と、鉱山が出来て、そこでの作業が始まると、環境が壊されるのではないか?生活が脅かされるのではないか?という不安の声も、出てきました。
それはそうだと思います。見つかったことを喜ぶ人もあれば、見つかったはいいけれども、これからがどうなっていくのか?という、期待と、不安の、両方が出て来るんです。
神さまが送って下さった、救い主イエスさまの誕生を巡ってのことでも、そうです。羊飼いや、今日の聖書箇所に登場してきます、東方の学者たちは、救い主イエスさまが生まれたことを、心から喜びました。しかし、その一方で、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」と、学者たちが、言ったことによって、その地をおさめていた領主、ヘロデ王は、かきむしられるほどに、狼狽し、不安一杯になるんです。その不安の1つには、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」が、いるという知らせを聞いたヘロデは、自分の王としての立場が脅かされ、王としての地位を失うのではないか?そして、学者たちの言った、その「ユダヤ人の王」に、人々がつき、ヘロデ王から離れて行ってしまうのではないか?ということでしょう。
そしてその不安は、「エルサレムの人々も皆、同様であった」エルサレムにある人々も、不安であったということなのですが、エルサレムの人々にとっては、ヘロデ王以外のユダヤ人の王が誕生したことで、その人々の立場や生活が脅かされるということには、必ずしもならないのではないか、と思います。しかし人々も皆、同様であった、というその不安は、どこから来るのかというと、「同様であった」という言葉の意味である、ヘロデと共にいたというところから、来るんです。というのは、同様であったにある、ヘロデと一緒にいた、ヘロデと共にあったということは、ヘロデと運命共同体と言ってもいいでしょう。ということは、ヘロデ王といつも一緒にいたというだけでなくて、その不安、その気持ちもヘロデ王と、一緒になっていくということですし、王としての立場を失うことになれば、一緒に自分たちの立場も失われてしまうんです。でも、人々となる一人一人は、それぞれ違います。同じ考えを持っているわけではなく、いろいろな多種多様な考え方を持ち、生き方をしています。そういう人が、人々となって集まった時、ヘロデと一緒になっていくんです。
ル・ボンという方の書かれた「群衆心理」という本があります。この方は、フランス人ですが、そのフランスで起きた革命に関わった人々が、どうしてあれだけの群衆となっていったのか?ということも含めて、分析されています。その群衆心理と言う本を、分かりやすく説明するために、武田砂鉄さんという方がまとめたNHK100分で名著と言う本の中に、武田さんが、ル・ボンのいうような群衆化現象は、身近なところでも起きていますと前置きして、ご自分の仕事部屋から眺めることができる小学校の校庭を見ながら、いろいろな表情が見えてきますと、次のように紹介しています。
休み時間が始まると、校舎から走って出て来た子供たちがバラバラに遊び始めます。ドッジボールをする子もいれば、サッカーをする子もいる。その合間を縫うようにして鬼ごっこに興じている子や、ただ座っている子もいる。外に出ず教室で時間を潰している子もいるはず。いうなれば、それぞれの子が自由な意思をもって、カオスは状態を作っている。社会というのは、本来そういうものだと思います。
ところが、これほどカオスは校庭が、月曜日の朝礼の時間には全く違う様相を呈します。「列はまっすぐに!」「間隔は均等に!」「静かにしてください!」といった先生の指示に従って、全校生徒が整然と列をなしている。また、朝礼の時には静かだった子どもたちが、運動会の日にはクラス対抗の競技に熱狂し、勝利するために声を張り上げていたりする。
つまり、自由意志で動いていた個人個人も、一定の条件と刺激があれば、揃って1つの方向に動き出すわけです。規律があればそれに従順するし、そこに勝負事が用意されると、昂奮状態が引き出される。ル・ボンは、人々が群衆になり変わった時点で、彼らに一種の「集団精神」が与えられ、考え方も感じ方も行動の仕方も、群衆になり変わる以前とは、「全く異なってくる」と断言しています。現代に生きる私たちも、自分が群衆になりうるという点に自覚的であるべきでしょう。
誰もが、群衆になり得るということ、それが、エルサレムの人々も皆、同様であったということでもあるんです。だから、例えば、ヘロデ王が、不安ではなく、喜べば、エルサレムの人々も一緒になって喜ぶんです。怒ったら、一緒に怒っていくんです。王が、どこかに出かけるとなれば、人々は、王について行って、一緒に出かけて、出かけた先でもヘロデ王と一緒ということになるんです。つまり王と一緒になるということは、自分の気持ちが王とは違っていたとしても、その気持ちを全く抑えてしまって、人々自身にとって、自分が、自分でなくなってしまうことになるんです。
そしてその姿は、王が皆集めて、「メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした」時、の「民の祭司長たちや律法学者たち」の姿でもあるのではないでしょうか?というのは、彼らが、王に言った、預言者がこう書いていますと続く「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で 決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」というこの言葉は、預言者ミカと言う人が、神さまからこう語れと言われて、人々に語った言葉ですし、その内容は、メシア、救い主がユダの地ベツレヘムで生まれるという、約束ですから、ヘロデ王の、どこに生まれることになっているか?という問いに答える言葉です。
その言葉や、その内容を、祭司長たちや、律法学者たちは、専門家として、知っていますので、ミカ書にこう書いてあると答えていくのですが、答えた内容を見ると、ベツレヘムで生まれるだけで終わらずに、「お前はユダの指導者たちの中で 決して一番小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」まで語るんです。でもヘロデ王が聞いているのは、「どこに生まれることになっているのか」です。どこなのかと問いただすんですから、ベツレヘムだけを答えたら、それでいいんです。ところが、彼らは、預言者ミカ書にかかれている言葉を、王に語るんです。しかも、ミカ書には、「決していちばん小さいものではない」と書かれているのではなくて、「最も小さいものだが」と書かれていますから、彼らは、ミカ書にかかれている最も小さいを、決して小さいものではない、に、変えて、王に、こう書いていますと語るんです。
これは、神さまの約束、預言者を通して語られたその言葉の、内容を変えてしまうという改変ということですから、あってはならないことですし、それを祭司、律法学者の立場でやってしまうということは、大変なことです。彼らの職務、立場も、失われてしまいます。それなのに、彼らは、「最も小さいものだが」ではなくて、「決して一番小さいものではない」つまり、一番小さいものではない、一番小さいものよりも、大きいと答えていくのは、どうしてでしょうか?
それは最も小さいとあるそのままを、王に伝えたら、もう既に王にとっては、メシアはすごく大きな存在となっていますし、大きな不安要素となっていますから、王の問いに答えたことにはならないからです。だから、彼らは、ある意味、身を賭して、最も小さいから、決して小さいものではないと答えたのでしょう。そしてもう1つあります。それは、決して小さいものではないと、答えた彼ら自身の中にも、ベツレヘムで生まれたメシア、イエスさまが、最も小さいものではないお方である、と受け取っていたからではないでしょうか?確かに、生まれたばかりのイエスさまは、小さいです。弱い赤ちゃんとしての存在です。でも、その最も小さなイエスさまが、決していちばん小さいものではないと答えた、その時、彼ら自身の中には、イエスさまは決して一番小さいものではなくて、大きなお方であると受け止め、そういうイエスさまであると、受け入れていたからではないでしょうか?
そういうことも含めて、祭司長、律法学者たちも、ヘロデ王やエルサレムの人々と同じく、不安の中にあるんです。そしてその不安が大きくなれば、なるほど、自分が自分でなくなり、集団になってしまい、神さまが預言者ミカを通して語られた内容を、小さいから、小さいものではないと変えてしまうという、その内容を大きく変えてしまうことに繋がっていくのではないでしょうか?
そういう不安の中で、東方から来た学者たちは、東方で見た星、その方の星を見た時、遥か東方から見た、その星は、大きかったのか?小さかったのか?その大きさについては、何も触れられていません。でも、その星は、救い主メシア、イエスさまが生まれたことを知らせる星であるということを、そのまま受け取って、旅をし始めていくんです。その旅にはもちろん不安もあったことでしょう。その不安が大きくなってしまうこともあったかもしれません。しかしそんな不安の中で、彼らを導いた、その星の存在は、どんなに不安になってもなお、その不安を越えて、彼らを導き続けていくんです。
そして、王や、民、祭司長、律法学者たちの不安の中で、その不安から出た言葉、答えも、正確ではなかったと言えるでしょうし、本当のものから変えてしまったものも、確かにあったと言えます。しかしそうであっても、それらのことを、越えたところで、彼らをエルサレムからベツレヘムへと導いた、その星を見た時、「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」のです。その大きな喜び、喜びを大いに喜んだ、その喜びは、王の言葉を聞いたからではありません。他の物を見たわけでもありません。神さまが、東方から、導くために与えて下さった、その星、その方の星を、見たからです。
だからこそ、喜びにあふれ、幼子イエスさまのところに辿り着き、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげ、ヘロデの「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」との言葉ではなく、「ヘロデのところへ帰るな」の神さまからの言葉を信じて、周りに流されない、その学者にとっての別の道、もう一つの道が与えられた結果、その道を通って、自分の国へ帰って行ったのです。
さて、その別の道とは、どんな道でしょう?もう一つの道とは、どういうものでしょうか?それは、救い主イエスさまに出会えるように、神さまが導き、イエスさまに出会えた喜びを、そのまま自分の国に持って帰れるように、人が、ではなく、神さまが、与えて下さった道ではないでしょうか?
新潟にある敬和学園高校の2年生の生徒さんが、毎年行われている修養会でのことを、こう書き綴っています。
「あの日歩いた道」
僕がこの歩く修養会に題名をつけるなら、「あの日歩いた道」と付けるだろう。初めに、僕は70キロ歩くと聞いて余裕だと思ったし、もっと楽しいことやワクワクするものがあると期待した。けれども、ただ70キロ歩き、宿に泊まり、帰るだけだった。このことを知った時、僕は意味がないと思ってしまった。ところが、歩いているうちに、気が付いたことがある。それは、意味のない「今」であっても、「意味」のある「過去」へと変えることができるのではないかということだ。このことに気が付いた時、僕には何もなかったはずの道が、未来からのぞいた思い出を見ているかのように感じられた。
歩きながら、バッグを後ろに引っ張って、精神的苦痛を負わせるようなノリだとか、三日目の早朝4時半からの礼拝開始3分前までみんなで寝てしまったことだとか、そのときは、「何してんだ。」と思うようなことでも、事が過ぎ去って初めて形になるものがあるということを学んだ。
先生が一日目の礼拝で言っていたことに、とても共感している。それは、ネットで学べることがたくさんあるし、実際に見ていなくてもなんだか経験した気持ちになる。その一方で、ネットから得られる経験は薄っぺらい知識や体験に留まって、物事の本質は知れない。実際にリアルに感じると、ネットでは知れなかったことがたくさんあると思った。例えば、一緒に歩く友達の大切さ、水分よりも靴下の替え、1回立ち止まった時の踏み出しの重さなどだ。リアルでしか学ぶことがこの世にはたくさんあると気づいた。
修養会を通して、「挑戦したい欲」「行動したい欲」が芽生えた気がする。三日目最終日、競馬場の前を友達と歩いていた。ゴールまであと少し、みんなでWANIMAの「やってみよう」を歌った。この歌で「今日という日は二度とないんだから」という歌詞がある。この歌詞はまさに歩く修養会を表していると思った。似たような日があったとしても「同じ人」「同じ気持ち」「同じ景色」になることはないから、今を大切に生きることが大事だ。そして「今日をどう生きるか」という未来が変わる気がする。積極的に生きることで、「学べた日」「成功した日」「後悔した日」という意味のある過去になるだろう。それが今の自分にとって一番大切なことなんじゃないかと思った。
この歩く修養会を通して、今の自分、仲間の存在、これからの生き方を学ぶことができた。だが、「もう1回する?」と聞かれても、「やりたくない。」と僕は言うだろう。「あの日」だからこそ、できたことだったと思う。
東方からの旅も、ベツレヘム迄の旅も、その日だからこそ、出来た旅です。そして、その時に見える景色、その旅を終えて、自分の国に帰って行った時の、振り返っての景色は、出発する前と、随分違ったものになっていたことでしょう。それは、その学者たちにとっての景色です。それは人々と同じではありません。ヘロデ王とも同じではありません。でもそれでいいんです。不安と共に、不安を越えたところで神さまが導き続けてくださった、喜びにあふれた喜びと一緒に、神さまに導かれた道が与えられていくんです。
私たちにとっても、その日、その時がありますね。その日だからこそ、その時だからこそ、できること、できたこと、できなかったこともあるでしょう。不安の中で、それでもできたこともあったかもしれません。その1つ1つの景色は、その日、その時に、神さまが、その日、その時を与え、導いてくださった、その日、その時の景色であり、道です。その道に導かれる時、いろいろあっても、無駄なものは何一つありません。
祈りましょう。
説教要旨(12月28日)喜びと不安(マタイ2:1~12)
