2025年12月24日クリスマスキャンドルサービス説教要旨
光は暗闇の中に輝いている(ヨハネ1:1~5)
松田聖一牧師
ビフォーアフターという番組があります。この番組の内容は、家を建て替えるのではなくて、改築していくというものですが、その工事が始まる様子を見ると、古くなった壁や、天井板、床板などを、次々を取り外して、はがしていきます。その時、今まで、壁や板で覆われていたところに光が入り、外からも見えるようになります。その結果、光に照らされたところ、床下などが、明るくなります。そこから、新しい材木などを入れて、再び新しくなっていくものですが、番組の最後には、依頼主の方々が、新しくなった、それこそアフターの家を見に来られて、わあ!こんなに奇麗になったんだ!と、喜び合う場面や、設計を担当された方への、感謝と感動で締めくくられます。
そういう意味でビフォーアフターというのは、単に、リノベーションの前と後があるというだけではなくて、その過程には、真っ暗だったところに、光が入り、明るく照らされていくということが、あるということと、その場所は、柱とか、土台という、覆われていたところ、普段は見ることができない、暗闇に覆われたところによって、家が支えられているということが、改めて分かる時でもあります。つまり、見えないところ、暗闇の中にあるものがあるからこそ、その家は、家となっているんだと言える時でもあります。
そういう覆われたところは、家だけのことではなくて、いろいろな出来事、物事もそうですし、私たちにとっての、人と人との関係にも、ありますし、自分自身の中にも、それはあると言えるでしょう。そういう意味で、覆われている暗闇というもの、それは、表と裏という関係にある裏と言えるものかもしれませんが、それがあるからこそ、出来事も、物事も、人間関係も、自分自身も、支えられていますし、自分が自分となっていく、大切なものでもあると思います。ですから、普段目に見えないところにあるもの、暗闇で覆われているものが、あってはいけないということではなくて、それもまたあることですし、必要とされているものでもあると思います。だからこそ、暗闇も、裏もあるということを、そのまま認めて、受け入れていくということも、必要なことではないでしょうか?
だから聖書の中にも、光と闇の両方があるということを、はっきりと書かれているんです。

それは、光だけではなくて、闇も、大切で、必要なものであることを、誰よりも、神さまは分かっておられるからです。だから、暗闇の中に輝く光がある時、暗闇がなくなったとは書いていなくて、「暗闇の中で輝いている」と、語るのです。

驚かれるかもしれません。闇も必要で、闇も大切であるということに対して、光の部分だけが必要で、暗闇は、いらないとか、評価されないものかもしれません。でも光と闇の関係というものが、どういうものであるかを、知れば知るほど、光とは何か?闇とは何か?ということが、分かってきますから、それによって、光と闇とを区別するということにも、繋がっていくんです。だからこそ、光も、闇も、両方知らないといけないんです。
まだ幼い頃、祖母が元気だったころのことです。明治生まれの今で言う専業農家、毎日夜明け前から、畑に出て、野良仕事をしていた祖母でした。農繁期の話を聞いたことがありましたが、本当に、日が落ちてからも、まだやることが山のようにあったので、寝る暇がなかったと言っていたことでした。それでも、寝なきゃいけません。しかし野良着のまま、家に上がったら、それこそ家の中は泥だらけになるということで、縁側にむしろを敷いて、外から帰って、野良着のまま、その縁側でゴロンと寝転んで、そしてまた夜明け前から、畑に田んぼに出かけていくという、生活スタイルでした。今では想像つかないかもしれませんが、本当に毎日、大変な仕事をしていたことでしたし、手がいつも泥だらけでしたから、どんなに石鹼で洗っても、綺麗にはならなかった、爪と指の隙間は、いつも、まっくろでした。長年の野良仕事のためか、取れませんでした。そんな祖母と一緒に、まだ春が来る前、はだ寒い時期のこと、一緒にヨモギを取りに行こうということで、出かけた時、祖母は、刃の折れた、包丁をもって、そして、一緒について行きました。ヨモギがある所に着きますと、ヨモギを一緒に取り始めました。こんな葉っぱだと教えてもらって、その葉っぱが、目の前に一杯ありましたので、うれしくて次から次へと、ヨモギを取りまして、こんなに取れた~と見せた時、祖母はひと言、「これは全部違う。これはヨモギじゃない、本物のヨモギじゃなくて、偽物だ!」びっくりしました。「これは偽物?本物じゃない?」と、言いましたら、「本物はこれだ!」見せてもらうと、ほんの僅か、色が違っていました。においも違いました。そして続けて言ったことは、「本物のすぐそばに偽物がある!」この一言を忘れることができません。

本物のそばには偽物がある、それは光と、闇の関係もそうです。なぜかと言うと、本物の光に照らされたものが、本物の光のように見えることがあるからです。その結果、本物じゃないのに、本物のように見えているものを、本物だ!と勘違いしてしまうこと、と同じだからです。

そういうことが、実際に他にもいろいろあります。例えば、琴線のとなりには、逆鱗(げきりん)があるということも、そうです。というのは、琴線に触れるという時、本当のことに触れるということですから、それを言われたその人にとっては、本当のことだから、「ありがとう」というときもあれば、言われたことが、本当だったからこそ、逆鱗に触れ、怒り出すこともあるんです。他にも、正しいことのすぐそばには、間違いがあるといこと、一番まずいものがあるということも、同じことです。
だからこそ、本物のそばには偽物がある、本物の光のそばには、偽物の光があるということを、ちゃんと区別しようとすること、その違いをよく見ようとすることで、それが本当に光なのか、光に照らされているだけなのか、も、区別しようとすることに繋がっていきます。そういう意味で、光は闇の中に輝いているということの意味を、よりよく知ることになるのではないでしょうか?
さて、その光とは何でしょう?それは神さまです。神さまであるイエスさまです。そのイエスさまが、暗闇の中に、輝いているということ、そのイエスさまだけが光であって、それ以外は、その光に照らされている闇であり、その暗闇に、イエスさまが来てくださって、暗闇の中に輝く光となっているということを、そのまま受け取られるようにも、して下さるんです。その時、私たち自身の中にある、暗闇の中にも、イエスさまは来て下さり、輝いて下さるんです。その暗闇は、自分にとって悪い所、短所と感じてしまうものかもしれません。あるいは自分にとっては、無駄なもの、必要ないものだと、思うものなのかもしれません。
でも光が闇の中に輝くためには、その闇が必要なんです。光が光となるためには、ちゃんと暗闇がなければ、光が、光として輝くことができないんです。暗闇がちゃんと、しっかりとあるからこそ、光は、そこでしっかりと輝くことができる、光がそこで輝いているということが、暗闇の中で、暗闇になればなるほど、より大きく輝いているということが、見えて来るのではないでしょうか?
そういう意味で、人にとっての闇は、光が、輝くために必要とされている闇です。必要だから、闇は闇として、そのまま受け入れることによって、その闇も、暗闇の中で、光輝くために、用いられていくということではないでしょうか?

「はみ出し者たちの遠い夏の伝説」というタイトルで、ある一人の牧師先生が、ご自分が励まされたこととして、こうおっしゃっていました。

最近、ある方から好きな聖書の言葉は何ですか?と尋ねられました。思いめぐらして、創世記の1章1~2節ですと答えました。遠い昔、神学校を卒業し、教会の働きに出る前、怖さを感じて動けなくなっていました。ある先輩牧師に、その気持ちを打ち明けた時、示された言葉でした。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを動いていた。」
牧師は言いました。今キミは混沌であって、闇であるかもしれない。けれども、そのおもてを神さまの霊が覆っているんだ。ほっとしました。牧師の暖かさや、神さまのありがたさを感じ、泣いてしまいました。そんな遠い昔の出来事が思い出されて、この言葉が好きなのです。自分の今が混沌であって、闇であっても、それがすべてではない。神の霊、神さまがそのおもてを動いている。その限界を突破していくダイナミックな希望が好きなのです。
誰もが混沌を経験し、闇を経験します。けれども、その闇のおもてを神さまが動き、その闇の中に、光をともし、光を与え、その暗闇の中で、光を輝かせてくださいます。たとい、その暗闇が本当に暗くなり、ますます深まったとしても、その暗闇から、光が輝き始めます。だから暗闇があるからといって、混沌した状態だからといって、ダメだと思わなくてもいいんです。それがまた必要とされていることなんだから、その闇も、その闇の中に輝く光も、そこにあるんです。
そして、闇を闇でないかのように、する必要は全くありません。その闇も、そのまま認めて、受け入れて、光として来られたイエスさまを、お迎えする時、クリスマス、イエスさまが、今、ここに、私の中におられるということが、その通りになっていきます。クリスマスおめでとうございます。神さまの守りと支えと、祝福が豊かにありますように。
祈りましょう。
説教要旨(12月24日)クリスマスキャンドルサービス