2025年11月23日礼拝 説教要旨
誰が決めるのか(マルコ10:17~31)
松田聖一牧師
海援隊という音楽グループの歌の一つに、「人として」という曲があります。
遠くまで見える道で、君の手を握りしめた 手渡す言葉も何もないけど 思いのままに生きられず こころに石のつぶてなげて 自分を苦しめた愚かさに気付く 私は悲しみ繰り返す そうだ人なんだ 人として 人に出会い、人として 人に迷い 人として 人に傷つき 人として 人と別れて・・・と続きますが、
その通り、人が人として生きる時、それは人との出会いの中で、人に迷い、人に傷つき、人と別れるといったことが、繰り返されます。もちろん、沢山の素晴らしい出会いもありますが、それらの出会いも含めて、当たり障りのない出会いからではなくて、当たり障りのある出会いから生まれるものではないでしょうか?そしてその当たり障りのある出会いを通して、自分も相手も、お互いに完全ではなく、欠けた者同士であることを、時には思い知らされ、そういう姿に向き合わされる時になるんです。ただ、そのことを自分自身が、良かった、良かったと受け止められるかというと、辛い思いをすることも、自分の足りなさに、愕然とさせられることもあるでしょう。と同時に、自分が欠けた、足りない者だということを、本当は、認めたくない、傷つきたくないという本音が、自分の中にあったということにも、気づかされていくのではないでしょうか?
その姿は、イエスさまが旅に出ようとした時、走り寄って、ひざまずいて尋ねた「ある人」もそうです。というのは、この人は、イエスさまに「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねますが、その相手であるイエスさまを、「善い先生」と言っていることに始まる、このある人の言葉から始まる、今日の聖書箇所全体に、見えて来るからです。
その1つの切り口としての「善い」というこの言葉の意味は、立派であるとか、価値があるということと、そこから、財産とか、財宝とか、所有物と言う意味もあるんです。ということは、ある人が、イエスさまを、善い先生と言うと言う時、いろいろな先生と呼ばれる方の中で、善い先生として評価して、イエスさまを選んでいたということです。逆に言うと、このある人にとっては、悪い先生もいたということですし、悪いとまではいかないけれども、まあまあ悪いとか、善いとまではいかなくても、まあまあ善いとか、あまり善くはないけれども、悪くもないという、先生もいたということなんです。そういう評価は、誰がするのかというと、善いと評価し、善いと決める、ある人です。だから、その人にとって、善いという物差しに、イエスさまがぴったりと合ったので、善いと判断しているんです。そしてある人は、イエスさまを、自分の持ち物、所有物として、自分の手元に置いておきたいということにもなっていくのではないでしょうか?
それはそうですね。自分にとって善いと判断したものは、自分の目の届くところに大切に持っておきたい、保管しておきたいとなると思います。
一時期、魚釣りに没頭したことがありました。最初のきっかけは、釣りに行こう!と誘われて、釣り竿も借りて、安濃川という川に出かけました。するとその時、河口近くでしたから、ハゼがバシャバシャ!という音を立てて飛び跳ねていましたし、釣り糸を垂らすと、うぐいという魚が見事に釣れました。その時、魚が餌に食らいついて、釣り糸を引っ張る、その時の手ごたえが、なんとも言えない感覚になりまして、それが釣りに魅了されたきっかけとなりました。それからは、友達と一緒に、釣りに出かけるのが日課のようになりまして、学校から帰ると、ランドセルを、家に置いてすぐに釣り道具を抱えて、自転車であの池、この川と走り回りましたが、その時、釣り竿や、釣り糸や、いろいろな釣り道具は、自分のそばに、机のまわりに置いておきたくなるんです。勉強などが手につかないような時には、釣り竿を見たり、触ったりしたことでした。それは、きっと勉強をしなくないから、そこに逃避していたと思いますし、それがどこかに行ってしまわないように、なくならないように、壊れたりしないように、と気を付けていたと思います。自分の所有物とすることは、そういうことではないでしょうか?だから自分の手元から離れたところに置くとか、どこかの隅に置きっぱなしということにはならないと思います。
その結果、善いには、財産、財宝、所有物と言う意味もあるということにも、繋がっていくんです。そういう意味で、「永遠の命」も、その命を受け継ぐということも、ある人にとっては、善いものであり、それは自分の所有物として、自分の手で持つことができるものであると、受け止めているのではないでしょうか?
その上で「何をすればよいでしょうか」と、イエスさまに尋ねるんですが、この問い「何をすればよいでしょうか」も、ある人にとっては、自分のすることも、自分で判断して、自分で選べるもの、自分の所有物、財産として、受け取っているのではないでしょうか?ですから、「何をすればよいでしょうか」も、自分の中で、すればよいことがいろいろあって、その中で、何を選べばいいのか?何を善いと判断して、自分の所有物にすればよいのか?自分の財産として持っておけばいいのか?ということなんです。
それに対して、イエスさまから、こうすればいいという答えではなくて「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」と答えていかれるのは、そもそも神さまは、いろいろな神さまと呼べるものがあって、その中から、善いと選べるものを、自分が選んで、そして自分の所有物とするものではないということなんです。だからこそ、人が神さまを選択するものではなくて、神さまは、ただおひとりであるということをはっきり語られるんです。
その上で、神さまが与えた掟、「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」という掟をあなたは知っているはずだと言うのも、この中から自分にとって、善いと判断して、選ぶということではなくて、また選んだものを、自分の所有物として持つだけで終わるのではないということなんです。そしてその掟を与え、掟にある1つ1つのことを与えてくださったのも、ただおひとりの神さまなんだということ、その掟の1つである、父母を敬えという掟も、父母を与えて下さったのも、ただおひとりの神さまであるということ、そしてその神さまが、父母を通して、与えられたただひとりの、ある人の、幸福と安全のために、父母を置いて下さっているんです。
幸福と安全のために、神さまが父母を置いて下さった、それは、私たちにとってもそうです。私たちも、父母を通して、命が与えられ、おぎゃあと生まれました。そして父母のもとで、幸福と安全が与えられ、支えられていきました。もちろん、父母との関係には、いろいろあったと思います。自分にとっての、両親は、自分にとって、いつも良かったか?というと、100%善いと言えない、言えなかったかもしれません。それでも、その両親は、私が選んだわけではありませんし、私が選べるものではないんです。あり得ないことですが、自分が生まれる前に、自分にとって、両親となり得る候補者がいろいろあって、生まれる前の私に、その中から、選びなさいと言われたら、どうでしょう?そうなってしまうと、今いる自分が、自分でなくなります。両親が、両親でなくなります。そういう意味でも、父母も、自分で判断して、善いとか、そうではないとか、選べるものではなくて、ただひとりの神さまから与えられるものです。だから父母を敬えとは、ただ父母を敬えだけではなくて、父母を与えてくださった神さまを、神さまとすることによって、神さまが父母を通して、与えて下さった、私も、神さまが与えて下さった、私として受け入れることへと導かれるんです。
それらのことに対して、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と、返していくのですが、それに対してイエスさまは、それでいいとか、よく守って来たとおっしゃられるのではなくて、「あなたに欠けているものが1つある」と返されるんです。不思議です。守ってきましたと答えた、この人は、本当に守って来たと言えるでしょう。ところが、イエスさまはこの人に、「あなたに欠けているものが1つある」とおっしゃられるのは、この人の、「守ってきました」と言ったその意味が、歪められないように、見張ってきましたという意味で、答えた、そのことに対してなんです。確かに「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬えという、掟、十戒、戒めを、歪められないように、この人は見張って来たんです。でも見張って来たということは、その掟、戒めを、遠くから近くから、見張って、その戒めそのものの形が変わらないようにしてきたということですから、その戒め、掟の一つ一つに対して、自分が、その内容を受け止め、本当にしようとしてきたか?具体的には、父母を敬え、神さまから与えられた父母を、神さまから与えられた父母として、受け入れているか?と問われた時の、自分自身がどうであったか、ということが、抜け落ちているんです。
それは、例えば野球で言えば、実際にマウンドに立って、ボールを投げたり、ボールを打ったり、ボールを取ったりするというところにいるのではなくて、観客席に座って、そのチームの試合の様子について、あれこれ言っていることと似ています。特に、自分の応援しているチームが、試合で負けたりした時や、うまく点を取れなかったと言ったことに対して、自分は、何もしていないのに、負けた原因をあれこれ言いながら、ぶつぶつ言っていくということもそうです。お相撲でも、バレーボールの試合でも、そうなるかもしれません。
だからこそイエスさまは、この人が、掟を守ってきたことを「あなたに欠けているものが1つある」とおっしゃりながら、その上で、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。」というのは、掟は眺めるものではない!見張るということは、確かに守っているようだけれども、掟を見張るために、守るために、その掟があるのではなくて、掟にあることを、実際にやろうとしているか?という、その掟と自分が向き合っているか?がないからこそ、欠けているものが1つあるとおっしゃられるんです。
その欠けているということは、どうやったら分かるようになるのか?というと、その戒めの、どの戒めでもいいんです。それを神さまから与えられたものとして、観客席から見るのではなくて、それを実際にやってみようとすることから見えてくるのではないでしょうか?そして、やろうとすればするほど、守ろうとすればするほど、自分はその通りにはできないということが見えて来るんです。その結果、その戒めに対して、欠けている自分を見せつけられ、その通りにはできないものだということに、気づかされていくんです。つまり、イエスさまが、欠けているとおっしゃられるのは、掟にあるいろいろなことを、守ることができなかったということではなくて、そもそも、掟にあることを、その通りにしようとすればするほど、欠けている自分自身に気付かされて、それと向き合うことになることに、欠けているからこそ、イエスさまは、いろいろな戒め、掟をおっしゃりながら、その掟に、自分がやろう、しようと向き合ってこなかった、その1つのことを、欠けているものが1つあるとおっしゃられるんです。
その時、自分が責められているように思います。自分ができなかった、出来ない自分であるということを、見せつけられますから、自分も傷つき、ゆがみます。へこみます。欠けているということに落胆します。でもイエスさまは、それがダメと言うことではなく、ますます守るようにしなさいと言うのでもなく、ただ「わたしに従いなさい」とおっしゃられるのは、イエスさまが、その欠けたこと、出来なかったことをも、イエスさまが、肩代わりし、十字架に置いて、そのすべての欠けたところを、代わりに受け取って下さっているからこそ、そのイエスさまに従っていけば、それでいいんだという、道を与え、指し示してくださるんです。
それが救いです。だからその掟、戒めに対して、自分ができないものであること、自分が欠けているものであっても、その欠けたままを、イエスさまのところに持って行くこと、欠けた自分自身を持って行くこと、そういう私であっても、イエスさまに従えることを、イエスさまは認めて、受け入れて下さっているんです。ところが、この人、その人は、持っているもの、手持ちのものを、売り払うことができなくても、それでいいのに、イエスさまのもとから、悲しみながら立ち去ったのです。でも本当は立ち去らなくても良かったんです。しかし彼は、たくさんの財産を持っていた中から、自分の手持ちのものを施すことができなかった、そのことを、守ることができなかったと、気づくことができたのです。気づけたのに、従うことができなかったのです。
欠けていることに、気づかせてくださり、欠けたことをも、赦して、受け入れて下さっている神さまのもとから、立ち去る必要は全くありません。しかし立ち去ったことをも、イエスさまは、慈しんでいてくださいます。その慈しみは、今は、立ち去っていても、立ち去った、この人に、自分が欠けていることが分かったことをも、イエスさまは見ていて下さるのです。そしていつか必ずイエスさまのもとに、帰ってくること、イエスさまにしか、この欠けた自分を受け入れていただくしかないんだということにも、いつか必ず気づかせてくださいます。
神学校を卒業した最初の教会で、1人の青年と出会いました。その時、彼の中では、絶対に洗礼は受けない!という固い決意がありました。だから礼拝にも来られていましたが、礼拝での聖書の説き明かし、説教を聴きながら、いろいろな物事の考え方は、参考になるし、考えさせられるということは、感じておられました。それからずっと教会には足を運ぶことなく、それ以降、お会いする機会はないままでしたが、ある時、その教会の隣の教会に行っているという知らせを、頂いて、良かったと思っておりましたら、その隣の教会の礼拝の様子がYOUTUBEで配信されていて、それがパソコン上に出てきました。するとその時の礼拝は、その青年だった方が、牧師先生の代わりに証しをされるという礼拝でした。そこで、自分が、洗礼を受けたこと、絶対受けないと固く決意していた自分が、欠けた人間であったこと、約束を守ることができなかったことに、気づかされて、そして神さまを信じてみようと、洗礼に至ったことを、わかち合っておられました。それを拝見させていただいて、神さまは、その時は、絶対に洗礼を受けないと決意しておられたことをも、神さまの時の中で、変えてくださるんだということ、30年近く経って、神さまのもとに導いて下さったことを、思いました。
その時は、立ち去りました。しかし、立ち去ったままにはしておかれませんでした。
イエスさまが、この人に伝えようとしたことは、そういうことなんです。そしてただひとりの神さまは、欠けたものである私たちをも、欠けたものが1つあるとおっしゃりながら、欠けたままにはされないんです。欠けたままで、受け入れてくださり、その欠けたところを、イエスさまが、赦して、癒して、欠けたことを、もとに戻してくださるばかりか、欠けたことをも用いて、欠けて失ったこと、欠けていた以上のものを、祝福して豊かに与えて下さるんです。それを誰が決めておられるのか?それは、神さまであるイエスさまです。
祈りましょう。
