2025年11月16日礼拝 説教要旨
気をつけていなさい(マルコ13:5~13)
松田聖一牧師
教会にとって、聖書は本当に大切です。この聖書をどんなことがあっても、どんな時にも、大切に守り続けていました。特に、迫害の時代では、どのようにして守って来たかというと、羊の皮に書かれた聖書を持っていたら、それだけで捕まってしまうこともありました。そのために、当時の人々は、聖書の言葉を全部丸暗記するんです。暗記しているので、聖書を持っていなくても、開かなくても、覚えている聖書のその言葉が、その時の人々を支えていくんです。それは、当時の人々だけではなくて、今も必要なことです。聖書の言葉を蓄えていくこと、神さまが、その時々に語って下さった神さまの言葉を、私たちの中に、持っておくこと、とどめておくことは、必要なことです。では、どうしてそこまで聖書を大切にするのかというと、それは聖書が、神さまの言葉であり、神さまがどれほど私たちを恵み、赦していてくださっているか、神さまがどんなに私たちのことを大切にし、支えてくださっているかが、その言葉の中に、言葉そのものに、あるからです。その聖書の言葉に支えられ、生かされていくんです。そういう意味で、神さまは、聖書という土台を与えて下さっています。しかし、その土台がない状態になってしまったら、どうなるか?土台がない状態って、怖いことですね。家もそうですね。土台がなかったら、柱も建てられませんし、屋根も乗せられません。そして土台がどうかなったら、あっという間に全体が崩れてしまいます。そこで今日は視覚教材を用意しました。ジェンガです。ジェンガの一番下の部分を抜いてみましょう。土台がなくなる、土台がないというのは、こういうことなんです。あっという間に全部が崩れ去ります。あっという間です。
それは、イエスさまのおっしゃられた神殿の崩壊もそうです。どんな立派で豪華絢爛な神殿も、土台が崩れたら、土台がどうかなったら、あっという間に崩れ去るんです。そのことについて、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、イエスさまに「ひそかに尋ねた」「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか。」と、人々から離れて、人々がいないところで、弟子たち4人が尋ねるわけですが、神殿が崩壊すると言うその出来事を前にして、いつとか、どんなということを、尋ねている場合ではないと思います。神さまを礼拝する大切な場所が崩れてしまうということは、彼らも含めて人々の信仰の基盤、信仰を守るために与えられた礼拝の場が失われてしまうことですから、大変なことです。だから問いとしては、神殿がなくなったら、どこで礼拝を守ったらいいですか?とか、私たちの信仰をどう守っていけばいいでしょうか?あるいは、神殿をもう一度再建するには、どうしたらいいでしょうか?という問いが、先ず来そうなのに、彼らの問いは、いつ起こるのか、どんな徴があるのか、という、いつなのか、どんな徴なのか、ということにばかりに、向けられていくんです。
それに対するイエスさまの答えは、「人に惑わされないように気をつけなさい」です。いつとか、どのような徴があるのかという問いに対する答えはありません。まずは「人に惑わされないように気をつけなさい」です。
そこで、「人に惑わされないように」「気をつけなさい」の「気をつけなさい」という言葉の意味を見てみましょう。この言葉の意味は、あなたがたは見なさい、人がそれまでにしている迷わせること、横道にそれさせることを、あなたがたは見なさいということです。ということは、人に惑わされるということも、人を惑わすということも、見える形であるということではないでしょうか?
以前、教会に南箕輪村の駐在所勤務の方がお出でくださり、ちょっとこのパンフレットを教会にも置かせてください~ということで、持ってこられました。そこには、「オレオレ詐欺に気を付けて!」と大きく書かれていまして、「今、伊那署管内でもオレオレ詐欺が多いです。電話で、お宅の息子さんが、事故に遭いましたとか言って、びっくりさせて、それでお金が取られてしまう…と言うことが、続いていますので、是非ご案内ください」ということでした。その通り、オレオレ詐欺は、見えない相手からの電話などで始まりますが、その相手から、びっくりするようなことを言われてしまうと、慌てて郵便局などに行って、お金を振り込んでしまい、詐欺にあうということになるのですが、その姿は、惑わされた結果、見える一つの姿です。
それはイエスさまの言われる、「わたしの名を名乗る者が大勢現われ、『わたしがそれだ』と言」うことも、戦争の騒ぎや戦争のうわさも、見えないものではなくて、見える1つの姿なんです。なぜなら「わたしの名を名乗る者が大勢現れる」ことも、「わたしがそれだ」ということも、そういうことを言う人が見えるからです。さらには、戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くと言う時も、そのうわさを流す人が見えてくるということではないでしょうか?それに対して、「聞いても」「慌ててはいけない」とおっしゃられるのは、確かにわたしがそれだという言葉も聞くでしょうし、戦争の騒ぎや戦争のうわさも聞くでしょうが、その内容を聞きなさいではなくて、そういうことを言っている人を見なさい、うわさなどを流す人を見なさいということは、そういう人を見たら分かる!惑わす人かも分かる!そして惑わされているその姿も、見たら分かる!ということに繋がっていくのではないでしょうか?そしてそういう見える人が、集まれば、民になりますし、国になっていくのですから、「人に惑わされないように気をつけなさい」見なさい!も、その民を構成し、国を構成するその人にも向けられていくんです。そういう意味では、民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、と言う時、敵対する内容というよりも、敵対する人、立ち上がる人を見るんです。地震もそうです。地震そのものは見えません。しかし地震によって、揺れるもの、壊されるもの、潰されていくものは見えてしまいます。飢饉そのものも、見えませんが、飢饉によって、作物が取れないとか、食べる物がない、食べることができない人、食べ物がないために、やせてしまわれる方、やせて動けなくなってしまった方々は見えてしまいます。栄養失調のために、手足は本当に骨と皮のように細くなっているのに、お腹だけが大きく膨らんでしまうことも、飢饉によってもたらされ、見える大変な姿です。しかしイエスさまが、それらのことは「産みの苦しみの始まりである」とおっしゃられるのは、そんな大変な出来事、揺さぶられ、混乱してしまうような、辛い出来事が、見える姿となっていても、そんな苦しみの中からも、新しいものが、新しい神さまの御業が始まっていくんです。
それは地方法院に引き渡され、会堂で打ち叩かれることも、イエスさまのために総督や王の前に立たされることも、見えることです。地方法院というのは、エルサレムの最高議会ですから、71人の代表者の前に立たされて、尋問を受け、棒や、鞭で打ち叩かれるという拷問ですから、命の危険が迫っています。絶体絶命、命の瀬戸際と言ってもいいでしょう。それはあってほしくないし、はっきり言ってそういう目に遭うのは嫌です。できれば避けたいし、その場から逃げ出したいことです。そしてそういう拷問をする側の立場の人々は、自分たちは正しいことをしていると思っていますが、事実は、正しくありません。大きな間違いを犯しています。その姿も見えてきます。しかし、聖書は、人の良い面だけを伝えているだけではなくて、良くなかったこと、大きな間違いも含めて、はっきりと語っているのは、人には良い面も、そうではない面も両方あると言うことと、それによって大きな苦しみと悲しみがあるということも、はっきりと見せながら、それでも、神さまの働きは、そこで終わらないということ、それらの良くなかったことをも、はるかに越えて、そこから新しい神さまの恵みの御業を、生み出し、造り出し、良くなかったこと、人の間違いをも、神さまの素晴らしい恵みへと変えて下さるということなんです。
だからこそ、イエスさまは、そういうイエスさまのために、尋問される、そんな苦しみの、厳しい現実の中に立たされていても、神さまのこと、神さまは生きて働かれていること、神さまは守って下さり、助けて下さり、赦し恵みを与えて下さり、これからを導いてくださるお方であるということを、証明する時へと新しく造り変えて下さるんです。そのことを、「証しをすることになる」のは、どんなに現実は厳しくても、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」というイエスさまの変わらない熱意と、思いがそうさせていくんです。そしてそれが神さまの思いであり、神さまのご計画だからこそ、人の目には、どんなに厳しく、苦しく見えても、それで終わりではないんです。それらの大変な出来事を越えて、そこから、神さまの福音、神さまの新しい恵みの働きが、確実に、着実に、進んでいくんです。
2年前の学位授与式の時、礼拝が守られました。いくつかハプニングがありまして、用意されたプログラムが足りなくなり、慌てて印刷しておられたり、授与式の時には、キャップと言う帽子をかぶるのですが、授与式の直前に電話が学校からありまして、「松田先生、持っている?」と聞かれるんですが、そんなもの持っていませんので、「持っていません!」「じゃあ、持っておられる先生から貸していただけるようにしますが、頭のサイズはどれくらいですか?」「多分大きいと思います~」と言った間際のやり取りを経て、当日迎えました、その礼拝の際、メッセージを取りついて下さった先生から、これもどうぞと言われて説教原稿もいただきました。その時、読まれた聖書の御言葉は、フィリピ人への手紙の1章13節から21節でした。
「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです。キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです。そして、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」そしてその説き明かしが次のようになされていました。
ここで、パウロは自分が福音のために牢屋に投獄されている中で、フィリピの教会の信徒の方々に手紙を書きました。伝道者が監禁されて自由を奪われています。福音の停滞につながるような深刻な事実です。パウロにとっても、大変です。しかし、教会にとって福音の停滞と思えるような認めたくない事実でも、神さまは、その事実を通して教会全体に働きかけ、福音の前進となるように祝福してくださることができます。パウロの投獄がキリストのゆえであることが兵営全体に明らかになっていきました。キリストの名が知られることになりました。またパウロの投獄の事実によって多くのキリスト者が励まされ、臆することなく主イエスの福音を伝えるようになるという効果がありました。さらに、パウロはフィリピ人への手紙の中で、福音を伝えていった人々の実際の姿を記しています。パウロの心を汲んで愛の動機で語る人ばかりではなく、捕えられているパウロを困らせるため、自分の利益を求めて不純な動機で語る者も、いたことを正確に記しているのです。パウロはこのように人々の悪意や党派心も正確に知り、また記しながら、それらをはるかに上回り、それらを用いてお働きになる神さまのみわざのすばらしさを力強く宣べていくんです。その神さまのすばらしさが、獄中のパウロを支えているからでした。パウロは投獄される経験を通して、どんなことにも恥をかかず、これまでのように今も、生きるにも死ぬにも、自分の身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願うようになっています。
ついには「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」と言います。このような、人の目には不都合に見える歴史的事実の連続の中で、それらを大きく上回る神さまの御業をみたパウロの信仰が、私たちの励ましとなっています。イエス・キリストの十字架の愛が、言葉や口先のものではなく、行いと真実のこもったものであったことの迫力が伝わってきます。歴史の中での人々の思惑や決断はすべて正しかったということはないでしょう。しかし、イエスさまが歴史の中で私たちに罪の赦しと新しいいのちを与えるためにそのいのちを与えてくださったこと、そのキリストの福音は投獄や迫害や誤解や悪だくみやそのたぐいの人間のわざを大きく上回る迫力によって歴史の中で力強く前進してきたことによって、私たちも慰められ、力を受けるのです。
パウロは、自分の身に起きた事実を正しく調べ、不都合なことも明らかにして直視しました。同時に直視しながらも、その中に働かれる神さまの御業は、今も尚、私たちにも、与えられていることを力強く証ししているということは、私たちにとって、どんなに辛くて、苦しい出来事が目の前に、見える形であったとしても、それを毎日のように見ている中にあっても、神さまは、そこで終わりには決してなさらないということなんです。それらのことを遥かに超えて、神さまの新しい働きを、神さまが、前に立って、前に向かって、進めてくださいます。そのことを見るように、気を付けてみるように、「気をつけていなさい」と語られるんです。
祈りましょう。
